第三話 噴水のほとりで
◇◇◇
噂は、いつも歪んだ形で広がる。
「また公爵家の養女がやられたらしい」 「今度は人前で水をかけられたとか」 「さすがにやりすぎじゃない?」
そんな囁きが耳に入った瞬間、リュシアンは足を止めた。
胸の奥が、ひやりと冷える。考えるより早く、身体が動いていた。学園の中庭へと続く石畳を、王太子が駆ける。その姿に、周囲がざわめいたが構う余裕はない。
――嫌な予感が、外れたことは一度もなかった。
噴水が見えた瞬間、リュシアンは息を呑んだ。白い石の縁に、ひとり。 肩をすぼめるように座り、濡れた髪から水を滴らせている少女。
アリサだった。
「……っ!」
考える間もなく、駆け寄っていた。
「大丈夫かっ!?」
思わず掴んだ肩は、驚くほど冷たい。
アリサはぱちりと目を瞬かせ、突然現れたリュシアンを見上げた。
「で、殿下……?」
その声は震えていない。泣いてもいない。ただ、いつも通りに静かだった。
「何があった。誰に――」
言いかけて、言葉を飲み込む。答えは、分かりきっていたからだ。
アリサはそっと視線を伏せ、濡れたスカートの裾を整える。
「……ただの姉妹喧嘩ですわ 。わたくしが至らないせいで、姉を怒らせてしまいましたの。殿下のお気になさるほどのことでは……」
柔らかく、丁寧で。 非の打ちどころのない言葉。
――だからこそ。
胸の奥が、ざわついた。どうして、そこまで受け入れてしまえるのか。どうして、自分が傷ついたことすら、なかったことのように話すのか。
「……君は」
リュシアンは、無意識に声を低くしていた。
「今のままでいいと思っているのか?誰にも頼らず、何も言わずに」
一歩、距離を詰める。
「俺で良ければ、力になることだって――」
言葉は、最後まで続かなかった。アリサが、ふわりと微笑んだからだ。それは、いつも人前で見せる、礼儀正しい微笑みとは違った。ほんの一瞬、気を抜いたような、柔らかな表情。
「大丈夫ですわ」
静かに、しかし確かに。
「わたくし、結構……強かなんですの」
頬を伝う水滴が、噴水の雫なのか、それとも別のものなのか。リュシアンには、もう判別がつかなかった。ただ、その姿から目が離せない。
「……君は」
思わず、零れる。
「そんな顔で、笑うんだな」
はっとしたように、アリサの瞳が揺れる。同時に、リュシアン自身の頬が、じわりと熱を帯びた。
――まずい。
そう思ったときには、もう遅かった。
少し離れた木陰で。 すべてを見ていた視線があった。噴水の水音に紛れ、爪がぎしりと鳴る。
マリア・リヴィエールは、凄まじい形相で二人を睨みつけていた。その瞳に宿るのは、嫉妬でも怒りでもない。
――排除すべきものを見つけた者の、冷たい決意だった。




