第二十九話 猫と少女
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孤児院の朝は、いつも静かだった。
鐘が鳴る前から目を覚まし、布団をたたみ、窓の外を見る。空の色で、今日が寒いか、もっと寒いかが分かる。
アリサは、ほとんど喋らない子だった。喋らなければ、目立たない。目立たなければ、選ばれない。
選ばれなければ――ここにいられる。
それが、十二歳になるまでの、唯一の生き残り方だった。
腕の中には、黒い猫がいる。名はない。呼ぶ必要もなかった。呼ばなくても、いつもそばにいたからだ。夜の冷え込みが強い日は、猫のほうから潜り込んでくる。眠れない夜には、喉を鳴らす音が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。
孤児院には期限がある。孤児院にいられるのは十二歳までの子どもと決まっていた。それまでに、どこかの家に引き取られなければ、ここを出て働かなくてはならない。
他の子どもたちは、必死だった。何とか養子にして貰おうと、よく喋り、よく笑い、自分を売り込んだ。養子になるためには、役に立つこと、従順であること、愛想がいいことが大切なのだ。
だが、アリサはそれをしなかった。したくなかったのではない。――できなかったのだ。
誰かに近づくたび、胸の奥がざわつく。戻ってはいけない。まだ、戻ってはいけない。
理由は、うまく言葉にできなかった。ただ、そうしなければならないと、どこかで分かっていた。
胸元に下げたペンダントに、指が触れる。水色の石。古びているが、不思議と曇らない。これは、三歳の頃から持っている。
はっきりした記憶は、少ない。大きな屋敷。
高い天井。優しく微笑む女性と、少し困ったように笑う男性。
そして――冷たい夜。
揺れる馬車。誰かの叫び声。
その先は、思い出せない。
でも、このペンダントだけは、離さなかった。離してはいけないと、思っていた。
黒猫は、その夜から一緒だった。 孤児院の裏で、アリサが目を覚ましたとき、すでに足元にいた。
不思議な猫だ。危ない人が近づくと、低く唸る。
夜道で転びそうになると、先に進んで立ち止まる。守られている、と感じることがある。理由は分からないけれど。
そして、期限の日が来た。
十二歳の誕生日の翌朝、院長は淡々と言った。
「今日で、ここを出てもらいます」
泣く子もいた。縋る子もいた。アリサは、何も言わなかった。小さな荷物をまとめ、外へ出る。
振り返らない。振り返ったら、足が止まってしまう気がしたから。
行き先は、決めていた。王宮。
孤児院から半日ほど歩き、門の外に辿り着く。
中に入るつもりはなかった。ただ、待つ。
黒猫を抱き、馬車の行き交う道の脇に座る。
公爵家の紋章を、覚えていた。いつ来るかは分からない。来ないかもしれない。それでも、待つしかなかった。
日が傾きかけた頃、一台の馬車が止まった。
見慣れた紋章。心臓が、強く打つ。
扉が開き、男が降りてくる。
少し老けたが、記憶の中の人だった。
アリサは、立ち上がり、ペンダントを握りしめた。
「……あの」
声は、思ったよりも小さかった。
男が振り返り、目を見開く。
次の瞬間、視線が、ペンダントに釘付けになる。
「……まさか……」
震える声。
「アリサ、なのか……?」
答える代わりに、アリサは、ただ頷いた。
黒猫が、静かに鳴いた。




