第二十八話 沈黙という罪
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夜の書斎は、音がなかった。蝋燭の炎が揺れるたび、壁に落ちる影だけがわずかに動く。その静けさが、かえって胸をざわつかせる。
王家の調査が始まった。表向き、穏やかで、礼儀正しいものだが、私は知っている。沈黙の裏で、すべては既に洗い出されつつあるのだと。
机に両肘をつき、指を組む。否定したい記憶ほど、鮮明に蘇るものだ。
――あの日も、こんなふうに静かだった。
乳母やメイドとともに一足先に領地に向かったアリサの馬車が、途中行方不明になったと知らされたとき、私の頭に最初に浮かんだのは父としての怒りや焦燥ではなかった。
絶望にも似た焦りと恐怖。正統な後継者が消えた。生死さえも分からない。それが意味するものを、私は誰よりも理解していたからだ。
王家への報告、責任の追及、そして公爵代理としての立場。すべてを失うどころか、断罪される恐れすらある。
「どうしましょう!いったい誰があの子を……ああ!私が奥様と同じように領地で育てようなんて言わなかったら!こんなことになるなんて……」
セシリアは私以上に取り乱し涙を流していた。心を込めて仕えていた主のたった一人遺された娘。裏切ってしまった主への罪滅ぼしとして、恩返しとして、大切に育てるのだと言っていた彼女の言葉を、私は信じていた。
涙を流す彼女を抱きしめながら、一刻も早くアリサを探すために動き出そうとした。
「すぐに調査隊を出す。馬車が消えた道を虱潰しに探すんだ。きっと、すぐに見つかる」
しかし、私のその言葉に、彼女は辛そうに肩を落とした。
「でも……それでは旦那様のお立場がどうなるか……万が一、万が一あの子に何かあった場合を考えると……辛いけれど、今は、あまり騒ぎ立てないほうがいいのかもしれません」
目に涙を溜めながら、私の身の安全を切々と訴える彼女の言葉に心が揺れた。
「アリサを攫ったのは盗賊かもしれませんし、乳母の裏切りという可能性もございます。ですが、大事になれば……あなたの落ち度として問われかねませんわ」
反論できなかった。
彼女の言葉は、あまりにも現実的だったから。
「わたくしが、秘密裏に探します。公にせず、慎重に。ですから、どうかご安心を」
私は、頷いた。
その頷きが何を意味するか、分かっていなかったわけではない。
――公に探さない、という選択。
彼女に任せることで、私は自分の手を汚さずに済ませた。父として動くべき責任を、保身のために放棄したのだ。
そして、彼女はこう続けた。
「アリサの不在を外部の者に悟られてはなりませんわ。公爵家の立場も、あなたの立場も脅かします。取り敢えず私たちの娘を、あの子の身代わりに据えるのはどうでしょう?幸い同じ年齢ですし、使用人たちも全て入れ替えてしまえば、誰にも気づかれませんわ」
その瞬間、言葉を失った。
否定すべきだった。叱責すべきだった。そんなことは許されないと、はっきり言うべきだった。
だが、私は何も言わなかった。沈黙した。ただ、それだけだ。
その沈黙を、彼女は肯定として受け取った。否、肯定だったのだろう。私自身が、そう望んでいたのだから。アリサがいなくても、マリアがいれば、形は整う。そう考えた自分を、私は否定しきれない。
長すぎる月日が流れ、マリアが公爵家の嫡子として人々に認識されたあと、ようやくアリサは戻ってきた。けれど、いまさらもとに戻すには、あまりにも、遅すぎた。
そして今、マリアが犯したかもしれない罪と、すべてが一本の線で繋がっている。
私は、誰も殺していない。誰かに手を下したこともない。だが――一番守らなければならない存在を、守らなかった。
見ないふりをし、聞かないふりをし、道を正すことを選ばなかった。それが、どれほどの罪を生むのかを、理解しないふりをした。
蝋燭の炎が、ふっと揺れる。その小さな光の中で、私はようやく思い知る。
沈黙は、無罪ではない。沈黙は、最も卑怯な選択だ。王家の裁きが下るだろう。だが、真に裁かれるべきは――あの時、何も言わなかった私自身だ。
その罪から、もう逃げることはできない。




