第二十三話 触れてはならない熱
◇◇◇
華やかな音楽と人々のざわめきが、ふと遠のいた気がした。
アリサは、リュシアンの姿を目で追っていた。多くの来賓と穏やかに言葉を交わしていた彼が、突然、何かに急かされるように会場を後にしたのだ。
使用人が慌てて声をかけるのを、彼は軽く制している。その横顔は、いつもより強張ってみえた。
(殿下らしくないわ……何かあったのかしら)
胸の奥が、ひやりと冷えた。水面に落ちた一滴の雫が、静かに波紋を広げるような感覚。
理由は分からない。ただ、このまま放っておいてはいけないと、直感が告げていた。
アリサはそっとその場を離れ、彼の後を追った。
夜気に包まれた庭は、ひっそりと静まり返っている。月明かりの下、噴水の水がかすかに光っていた。その奥、木立に囲まれた小さなガゼボの中で、アリサはベンチに片手をつき、荒い息を吐くリュシアンを見つけた。
「殿下……!」
思わず駆け寄ろうとした瞬間、鋭い声が飛んできた。
「来るなっ!」
苦しげに息をしながら、それでも彼は顔を上げ、必死に言葉を紡ぐ。
「俺は……君に、何をするか分からない。頼む……来ないでくれ。少し、休めば……大丈夫だから……」
その声は震えていた。はっきりと感じる魔力の渦。本能と理性がせめぎ合っているのが、痛いほど伝わってくる。
アリサは足を止めた。どうすればいいのか分からず、ただその場で彼を見つめる。けれど、時間が経つほどに、彼の様子は悪くなっていった。
額には汗が浮かび、呼吸は荒く、熱に浮かされたように視線が揺れる。
(……これは、ただの魔力暴走じゃない)
水が、ざわついている。庭の空気が、微かに歪んで感じられた。
――彼を助けなさい。
誰かの声がした気がした。それが精霊なのか、自分自身なのかは分からない。アリサは、ぎゅっと拳を握りしめ、一歩踏み出した。
「だめだ……!」
「殿下。大丈夫ですから」
静かな声でそう告げ、アリサは彼の前に膝をついた。拒もうとする彼の手を、そっと両手で包み込む。熱い。触れた瞬間、驚くほどの熱が伝わってきた。
(……こんな状態で、一人にしておけるわけがない)
アリサは目を閉じ、水の気配を呼び寄せる。自分の内側に満ちる、澄んだ流れ。その魔力を、ゆっくりと、慎重に、彼の身体へと巡らせた。
焦らない。抑え込まない。
ただ、静かに、冷ますように。
次第に、リュシアンの呼吸が整い始める。
早鐘のようだった鼓動が、少しずつ、少しずつ、落ち着いていった。
「……アリサ……」
掠れた声で、彼が名前を呼ぶ。その手は、無意識のうちに、アリサの手を握っていた。
「殿下……!」
そのとき、足音が響いた。
異変を察した侍従が、ガゼボへと駆け寄ってくる。
「殿下!? ――アリサ嬢? これは一体……殿下に何を!?」
詰め寄る声に、アリサは息を呑んだ。
だが、次の瞬間。
「やめろ……違う」
リュシアンが、苦しげに身を起こし、アリサを庇った。
「彼女じゃない……。彼女は、俺を助けてくれたんだ」
侍従は言葉を失い、すぐに状況を察する。
「……とにかく、急いで城へ戻りましょう」
支えられながら立ち上がるリュシアン。
その手は、最後まで、アリサの指先を離さなかった。
侍従に支えられ、庭を後にするリュシアン。
月明かりの下、一人残されたアリサは、胸に残る微かな熱を感じながら、静かにその背を見送った。
水面に映る月が、静かに揺れていた。




