第二話 忌々しい影
◇◇◇
グラスの水は、思った以上に勢いよく跳ねた。透明な雫が、少女の頬から顎へと流れ落ちる。床に落ちた水が、静かな音を立てた。
「……っ」
アリサは声を上げなかった。それが、たまらなく腹立たしい。
「忌々しい子っ!」
マリアは、空になったグラスを握り締めたまま叫んだ。
「どうして私が、あんたと同じ学園に通わなきゃいけないの!目障りだわっ!」
昼休みの空き教室。人払いは済ませてある。取り巻きの令嬢たちは、壁際で息を殺していた。
誰も止めない。止められない。
濡れた前髪の隙間から、アリサがこちらを見る。
その目。——その目だ。
「……何よ、その目はっ!」
考えるより先に、手が出ていた。ぱん、と乾いた音。アリサの顔が横に弾かれる。それでも、泣かない。歯を食いしばるでもなく、ただ、静かに耐えている。それが、なおさら癪に障る。
「養女のくせに。孤児院上がりの分際で、何を澄ました顔してるのよ!」
マリアは、勢いのままアリサの肩を突き飛ばした。細い体がよろめき、机にぶつかる。
「っ……」
今度は、微かに息が漏れた。それを聞いて、胸の奥がぞくりとする。
——ほら、やっぱり。私は、間違ってない。
「勘違いしないで。ここにいられるのは、私のお情けなのよ?」
公爵家の嫡子。王太子の婚約者。それが、自分の立場だ。誰もが羨み、憧れ、頭を垂れる存在。そうでなければ、おかしい。それなのに。
——どうして。
あの女はいつも従順で、何も言わず、何も望まない顔をしている。けれど、全てを諦めてるようで、まるでこちらが奪っているかのような、あの目。
「……気に入らない」
吐き捨てるように言う。
「消えなさい。成人したら、修道院に入るんでしょう?」
父も、母も、そう決めている。戒律の厳しい、外界と隔絶された修道院。二度と社交界に戻れない場所。
——それでいい。それで、全部終わる。
「その前に、変な夢なんて見ないことね」
そう言って、マリアは背を向けた。取り巻きたちが慌てて後に続く。扉が閉まる直前、もう一度だけ振り返る。床に膝をついたままのアリサが、静かに顔を上げていた。その腕の中には。
——黒い猫。
(あの猫!いつの間に!)
金色の瞳が、こちらを見ている。ぞくり、と背筋が冷えた。
「……気味が悪い」
吐き捨てて、扉を閉める。廊下に出た瞬間、胸の奥がざわついた。理由は、わからない。
ただ一つ、はっきりしているのは、
——あの女は、消さなければならない。
マリアは無意識に、胸元のペンダントを握り締めた。それが、本当に自分のものなのか。その疑念を、必死に押し殺しながら。




