第十六話 囁きの隙間
◇◇◇
最近、学園の空気が変わった——マリアは、はっきりそう感じていた。原因は分かっている。分かっているからこそ、胸の奥がざわつく。
アリサ・リヴィエール。
いつも自分の一歩後ろにいた存在。視線を伏せ、声を抑え、目立たぬように生きていた養女。
それが今はどうだろう。
廊下を歩くだけで、自然と視線を集める。背筋を伸ばし、顔を上げ、まっすぐ前を見るその姿は、まるで別人のようだった。
——蛹が、蝶になる。
そんな言葉が、ふと頭をよぎる。黒髪は艶を増し、深い青を帯びた色が光を含む。表情は凛として、どこか遠くを見据えるような静けさがある。
努力して、得たものではない。
争って、勝ち取ったものでもない。
ただ、変わった。それだけで、世界が彼女を見始めた。
「……面白くないわ」
マリアは小さく呟き、爪を握り込んだ。成績だって、そうだ。元々アリサのほうが上だった。分かっていた。知っていた。だからこそ、自分は社交や立場で補ってきたのだ。
——王太子の婚約者。
——正統な家の血。
それが、自分の価値だったはず。それなのに。
「最近のアリサ様、すごく綺麗になったわよね」 「雰囲気が……前とは全然違うよな」 「成績もトップクラスですし」
そんな声が、耳障りだった。直接言われるわけではない。視線の端、噂話、ひそひそとした声。でも、それで十分だった。
(……私のほうが、ずっと頑張ってきたのに)
アリサは、耐えていただけ。自分は、ちゃんと戦ってきた。それなのに、どうして。胸の奥に、冷たい不安が広がる。このまま、何もかも奪われてしまうのではないかという恐怖。
——そのとき。
『……それは、不公平だわ』
どこからか、声がした。
耳元ではない。頭の中でもない。胸の奥。思考の、隙間。
『あなたは、努力してきたのに』 『あの子は、選ばれただけ』
マリアは足を止める。誰もいない回廊。静かな空気。
(……今の、なに?)
問いかける前に、声は続いた。
『それで、いいの?』 『報われないままで』
心臓が、強く打つ。否定しようとした。
これは気のせいだと、笑い飛ばそうとした。
でも——
(……違う、とは言い切れない)
そう思ってしまった瞬間、胸の奥で、何かが静かにほどけた。
『あなたは、間違っていない』 『苦しむ必要なんて、ない』
優しい声だった。責めるでも、命じるでもない。
ただ、寄り添うように。
『正しいものが、正しく評価される世界であるべきよね』
その言葉に、マリアは知らず唇を噛んだ。正しいのは、誰? 努力したのは、誰?
——答えは、最初から決まっているはずだった。
それなのに。
視界の端で、アリサの姿が見える。誰かと話し、穏やかに微笑むその横顔。以前の、うつむいた彼女ではない。
(……あんな顔、知らない)
胸が、きゅっと縮む。
嫉妬。焦燥。不安。
それらが絡まり合い、言葉にならない感情へと変わっていく。
『奪う必要は、ないわ』 『ただ、取り戻せばいいだけ』
声は、そう囁いた。マリアは、息を詰める。何を?どうやって?問いは浮かぶ。
けれど、答えを求める前に——
心の奥で、静かに頷いている自分がいた。
(……私は、悪くない)
その思いが、何よりも甘かった。囁きは、満足そうに沈黙する。代わりに残ったのは、黒く、重い、確かな感情。
マリアは、ゆっくりと顔を上げた。遠くで、アリサがこちらを見る。
一瞬、視線が合う。その瞳に宿る澄んだ光が、なぜかひどく眩しくて。
マリアは、いつものように不敵に微笑み返すことができなかった。
——このとき、彼女はまだ知らない。
それが、最初の「選択」だったことを。




