第十四話 聖獣は、すべてを見ている
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世界は、音よりも先に歪む。人の目には映らず、耳にも届かない。
だが、聖獣である我らには見える。心の奥に沈む濁り。欲望が絡まり合い、形を失った魂の影。
黒猫は高い塀の上から、学園を見下ろしていた。朝の光を浴びる校舎は穏やかで、昨日と何も変わらぬように見える。
だが――違う。
(……来ている)
かすかな、しかし確かな気配。人の心の隙間に忍び寄るもの。名を持たぬ精霊。
囁き、煽り、甘く縛りつける存在。
それは力を与える。同時に、代償として“歪み”を残す。
黒猫は、校舎の一角を見つめた。そこには、強い執着と焦りの色が渦を巻いている。
(まだ、芽だ)
だが、放置すればやがて根を張る。そして世界を歪める。
ふいに、背後から静かな気配が重なる。白猫が、音もなく隣に腰を下ろしていた。
(気づいたか)
(ああ。濁りが、濃くなっている)
二匹の聖獣は、言葉を交わさずとも理解し合う。長い時を生き、幾度も同じ選択をしてきた。
正しき魂に力を。
歪んだ魂には――試練を。
それが、我らの役目。
視線を巡らせると、噴水のそばに一人の少女の姿があった。水の気配をまといながら、静かに歩いている。
アリサ。その魂は澄んでいる。
痛みを知りながら、折れず、恨みに沈まず、己を保ち続けた器。
(……ようやく、目覚め始めた)
水の精霊が彼女を選んだ理由は、力の強さではない。耐え、考え、決して奪う側にならなかった心。
白猫が尾を揺らす。
(王太子も、同じだ)
少し離れた回廊を歩く青年。光を司る血を引きながら、驕らず、責任を恐れ、なお立ち続ける者。
選ばれるべき魂が、並び始めている。
だからこそ――。
(歪みも、動き出す)
黒猫は細く目を細めた。闇はいつも、光に引き寄せられる。だが、今回は違う。
(もう、見ているだけではないな)
白猫が一歩、前に出る。それに並ぶように、黒猫も塀を降りた。
守るべきものがある。選んだ者が、正しく歩むために。聖獣は介入しない。だが――見捨てもしない。人の欲望も、勇気も、選択も。すべてを見届けるために。
二匹の猫は、静かに歩き出した。世界が再び歪む前に。




