第十三話 囁き
◇◇◇
その日の午後、マリアは一人、人気のない渡り廊下に立っていた。
石造りの床は冷たく、窓から差し込む光さえ、今日はどこか白々しい。胸の奥が、むずむずと落ち着かない。理由は分かっている。
――アリサ。
噴水の前で見た、あの光景。黒猫と白猫が寄り添い、王太子殿下が、まるで当然のように彼女のそばに立っていた姿。
(……どうして)
爪が、知らず知らずのうちに掌に食い込む。
養女。
孤児。
本来なら、私の影に隠れているだけの存在。それなのに。
「……おかしいわ」
誰に聞かせるでもなく、吐き捨てる。胸の奥に広がる黒い感情が、ゆっくりと形を持ち始めていた。
そのときだった。
――可哀想に。
耳元で、誰かが囁いた気がした。はっとして周囲を見回す。廊下には誰もいない。風の音もない。
(……今の、なに?)
――あなたのほうが、ずっと相応しいのに。
今度は、胸の内側から響く声。それはマリア自身の思考と、あまりにもよく似ていた。
――努力してきたのは、あなたでしょう?
――耐えてきたのも、我慢してきたのも。
心臓が、どくりと脈打つ。
(……そうよ)
唇が、わずかに歪む。
(わたくしは、選ばれてきた。ずっと)
公爵家の嫡女として生まれ、王太子の婚約者として育てられ、誰よりも、当然の未来を約束されてきた。それなのに。
――奪われた。
囁きは、甘く、ねっとりと絡みつく。
――あなたのものだったはずのものを。
視界の端が、わずかに滲む。怒りか、悔しさか、それとも別の感情か。
(……違う)
一瞬、理性が顔を出す。
(奪われたわけじゃない。まだ、何も決まっていない)
けれど、その声はすぐに押し流された。
――だったら、取り戻せばいい。
低く、優しい声。
――あなたが正しい場所に立つだけ。
――間違っているのは、あちらなのだから。
胸の奥が、熱を帯びる。それはアリサの肩に宿ったものとは、まるで違う熱。重く、濁った、けれど抗いがたい感覚。
(……わたくしは、間違っていない)
そう思うと、不思議と心が軽くなった。これまで感じていた焦りや不安が、「当然の怒り」へと姿を変える。
(そうよ。わたくしが、正しい)
廊下の窓に映る自分の姿を、マリアはじっと見つめた。
華やかな金髪、誇らしげな瞳。
――まだ、何も失っていない。
そう思った瞬間、足元の影が、ほんの一瞬、妙な形に揺らいだことに、彼女は気づかなかった。
遠くで、鐘の音が鳴る。
その音に促されるように、マリアはゆっくりと歩き出した。
胸の奥に残る、甘く冷たい余韻を抱えたまま。
(……大丈夫)
(わたくしは、選ばれる)
その確信が、どこから来たものなのかを考えることなく。




