第十二話 水面に映るもの
◇◇◇
噴水の水音が、いつの間にか朝の喧騒に溶けていた。アリサは黒猫を胸に抱いたまま、ゆっくりと息を吐く。
校舎の窓が開き、遠くで人の気配が動き出す。日常が、何事もなかったかのように戻りつつあった。けれど、アリサの内側はもう、元のままではいられない。
(……祝福は、確かに受け取った)
肩の奥に残る微かな熱。水面に指を触れたときの、あの澄んだ感覚。精霊が消えたあとも、力は静かに、確かに彼女の中に息づいていた。
ふと、視線を感じて顔を上げる。リュシアンは少し距離を保ったまま、彼女を見ていた。
近すぎず、遠すぎず。踏み込みすぎない、その距離が不思議と心地よい。
「……誰かに見られる前に、戻ったほうがいい」
「ええ」
アリサは小さく頷く。
が、立ち上がろうとして、ふらりと身体が揺れた。次の瞬間、視界がぶれ、足元が頼りなくなる。
「――っ」
声を上げるより先に、リュシアンの手が、しっかりとアリサの腰を抱いていた。慌てて離れるリュシアン。
「すまない!思わず……」
「だ、……大丈夫ですわ!」
そう言いながらも、アリサは自分の鼓動の早さをごまかせなかった。自然と頬が染まる。
リュシアンはすぐに手を離し、一歩下がる。その仕草に、妙な安堵と、名残惜しさが同時に生まれた。
(……変ね)
力を得たばかりだというのに、彼の前ではこんなにも心が揺れる。
「精霊の力は、強い。だが、最初は誰でも不安定になるものだ」
彼は噴水を一瞥し、低く続けた。
「焦らなくていい。君は……ちゃんと、自分の足で立っている」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(殿下は、わたくしに同情しているわけじゃないのね……)
力を持った存在として、対等に見てくれている。それが、何より嬉しかった。
そのとき、足元で気配が動いた。黒猫が静かに地面へ降り、少し離れたところにいた白猫へと歩み寄る。白猫もまた、ゆっくりと近づいてくる。
一瞬、互いに立ち止まり、金色の瞳が交わった。次の瞬間、黒と白の毛並みがすり、と優しく触れ合う。尾が絡み、身体をすり合わせる。それは争いでも、警戒でもなく――認め合うための動きのようだった。
(……まるで最初から一対で生まれてきたみたい)
リュシアンも猫たちを見つめ、わずかに目を細めた。
「……こいつら似ているな」
ぽつりと落ちたその一言に、アリサは思わず彼を見る。
視線が重なる。今度はどちらも逸らさなかった。校庭に吹く朝の風が、水面を揺らす。噴水に映る二人の姿は、まだはっきりと重なり合ってはいない。
けれど、確かに――同じ方向を向き始めていた。
水の精霊が選んだ運命と、王太子との静かな絆。まだ名前のつかない感情を胸に、アリサはそっと前を向く。
黒猫と白猫は、並んで歩き出していた。




