第十話 静かなる覚醒
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朝の学園は、穏やかに見えて、すでに嵐の前触れを含んでいた。リュシアンは回廊を歩きながら、手元の報告書に目を通していた。
王家からの正式な指令——
リヴィエール家の調査、婚約者マリアの行動確認、養女アリサの正当性の確認——これからは全て王家直轄で行われる。
「……これで、ようやく手を出せる」
肩の力が自然に入る。自分の気持ちではなく、王家の名のもとに、法と権力を背負うことになる。
だが、それで十分だ。
「そう言えば彼女、アリサ嬢ですが、何だか雰囲気が変わったと思いませんか?失礼ですが、以前とは違って威厳を感じると言うか」
侍従の問いにリュシアンはわずかに目を細め、微かに笑った。
「……ああ。そうだな」
そっけなく答えつつ、視線の奥にはアリサに対する関心がちらりと光ったのを、侍従は見逃さなかった。
「美しくなられましたよね」
探るようなその言葉にはあえて答えなかった。彼女から感じるほんのわずかな違和感——それが、彼の勘をざわつかせる。けれど、その変化に気付く者がこの学園にどれだけいるだろうか。
一方、アリサは自室で朝の光を浴びながら、鏡に向かって髪を整えていた。黒髪の中で、わずかに光を帯びる深青の色。鏡越しの瞳に、いつもとは違う光が宿った気がして、ふと手を止めた。
(……今、目の色が変わった……?髪の色も、なんだか……気のせいかしら)
ちらりと母から託された黒い猫に目をやる。小さな黒猫——母の聖獣だ。母が亡くなった時から、ずっとアリサに寄り添い、観察している。
それは、形見であり、守護者でもあり、同時に“選別者”の役割も果たす存在だった。
アリサは猫を抱き、静かに話しかける。
「……いつも見てるだけなんだから。まぁいいわ。側にいてくれるだけで」
猫は小さく目を細め、彼女の胸元にすり寄った。
まるで、静かにうなずいたように。
(……猫って、やっぱり気まぐれね。でも、そういうところも悪くないわ)
午後、いつもの噴水のそばで、アリサは黒猫を抱きながら、軽く息を吐いた。胸の奥のざわつき。肩の奥の微かな熱。自分でも気づかぬ力が、少しずつ動き始めていることを告げている。
リュシアンの霊獣も、庭の端からじっと見つめていた。二匹の猫は、互いの存在を確認するかのように尾を揺らす。
アリサは小さく息を吐き、微かに笑った。肩の奥の微かな熱を感じながら、目を細める。
(……今が、動き出すときかもしれないわ)
それは、母の残した形見とともに、彼女自身の新たな道の始まりを告げる、静かなる覚醒の瞬間だった。




