第一話 君、猫は好き?
◇◇◇
「君、猫は好き?」
突然背後から声をかけられ、アリサは足を止めた。この学園で、アリサに親しげに話しかける友人はいない。まして、この声の主は論外だ。
小さく息を吐き、覚悟を決める。振り返るより先に、影が落ちた。
近い。思わず、息を詰めた。
(……やっぱり)
王太子リュシアン・ルミエール。
学園中の視線を一身に集める、完璧な王子様。長い脚に無駄のない体躯。鍛え上げられた体は制服の上からでもはっきりわかる。剣の稽古帰りなのだろう、微かに革と金属の匂いがした。
どうして彼が。必要以上に目立ちたくない。彼と関わるだけで、嫌でも噂の中心に放り込まれるから。
——無礼にならない程度に早く、立ち去ろう。
そう決めて、視線を上げないまま短く答える。
「……あんまり」
そっけないその言葉は、紛れもなく本心だった。我ながら、可愛くない。けれど。
「……俺もだ」
一拍おいて、真面目くさった声が響いた。思わずアリサは顔を上げてしまう。澄んだ金色が、まっすぐこちらを見ていた。王家の血を示すその光に、反射的に体が強張る。
だが、次の瞬間——リュシアンは、ふっと笑った。完璧な王子様の仮面が、ほんの一瞬だけ外れたような笑み。つられて、アリサの口元も緩む。
「だって、……猫って、可愛いだけじゃないでしょう?」
気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。自分でも驚く。僅かな沈黙が落ち、失言だったかもしれない、と後悔しかけたそのとき。
「……そうだな」
リュシアンは、少しだけ間を置いて答えた。
「気まぐれで、勝手で。それでも、なぜか目が離せない」
まるで、誰かを思い浮かべるような声音だった。
「それってもしかして…」
アリサが思わず口を開いた次の瞬間。
「——何をなさっているのですか、殿下」
鋭い声が、空気を切り裂いた。
振り向かなくてもわかる。マリア・リヴィエール。公爵家の嫡子として扱われている少女。この学園で、アリサが最も近づいてはいけない存在。
「王太子殿下に、ずいぶん親しげですのね」
取り巻きを従え、ゆっくりと歩み寄ってくる。その視線は、露骨な敵意を帯びてアリサに突き刺さった。
「たまたま話しかけられたからといって、いい気になっているのではなくて?」
「マリア、言い方を——」
リュシアンが低く制しかける。だが、その声を遮るようにマリアは言葉を続けた。
「身の程をわきまえなさい。あなたは、ただの養女でしょう?」
そのひと言で、空気が凍った。周囲の生徒たちがそっと視線を逸らす。誰も助けない。助けられない。
——慣れている。
アリサは静かに一礼し、その場を離れた。
背後で、何か言い争う気配がしたが、アリサは一度も振り返らなかった。
◇◇◇
その夜。自室の窓辺で、アリサは黒い猫を抱いていた。いつの間にか現れて、いつの間にか消える、不思議な猫。細い指で喉元を撫でると、猫は小さく喉を鳴らす。
「……いよいよ、ね」
猫は何も答えない。ただ、金色の瞳を細めている。
——可愛いだけじゃない。
アリサは、昼間の会話を思い出す。
(猫みたいに気まぐれな神様に、
たまたま選ばれただけなのかもしれない)
けれど。
霊獣たちは、ちゃんと選ぶ。相応しい者を。
黒猫は、ゆっくりと尻尾を揺らした。まるで、すべてを知っているかのように。
窓の外、遠く王城の方角で、白い影が一瞬だけ月明かりを横切ったことを、アリサはまだ知らない。
——物語は、静かに動き始めていた。




