羊と鋼の森~ピアノと調律師の物語~
フェルトに一目針を刺すごとに、ピアノの表情が変わっていく。(※1)
今年も開催されているショパンピアノコンクールは、その出身地であるポーランドの首都ワルシャワで5年に一度行われ、30歳以下の若手のピアニストたちが、技術と曲の世界観を競い合う。
2015年に行われたコンクールに「出場」したのは、スタインウェイ・アンド・サンズ、ヤマハ、ファツィオリ、カワイのピアノメーカー4社。演奏時には、演奏者とともに使用メーカー名も高らかに場内に響き渡る。演奏するピアノは自由に選択することができ、有名なコンクールの場で自社のピアノが選ばれるのは名誉なことだ。ましてや優勝ともなれば、その名が世界に知られることとなる。コンクールでの活躍は、若きピアニストに名声をもたらすだけでなく、メーカーにとってもビジネスチャンスなのだ。だからメーカーは、曲やホールの特徴に合わせてピアノを調整する。
出場者を客席後方から見つめる調律師たちの目は鋭い。4台のピアノを試弾していく様子から、出場者がピアノに何を求めているのかを敏感に感じ取らなければ、自分たちの出番はないからだ。出場者は正直だ。気に入らなければ、すぐ別のピアノに移ってしまう。
イタリアのファツィオリ社のピアノを選んだ女性は、「FAZIOLI」の綴りを確認しながら参加票に記入していた。新興メーカーである同社は、結局彼女一人だけにしか選ばれない。ショパンの曲調に合わせて柔らかい響きにセッティングした日本人調律師だったが、他の出場者には受け入れてもらえない。硬質だがクリアに鳴るスタインウェイが、やはりここでも好評だった。唯一、ファツィオリを選んでくれた彼女のために、調律師は、まるでオーダーメイドのようにピアノを調律する。その出来如何でコンクールの結果も左右される。
魂に響く音楽を奏でるため、ピアノに正面から向き合う日本人調律師。全身全霊を傾け調律を行うその後ろ姿は、崇高な輝きを帯びていた。
るみ子さんは意地悪な人だ。(※2)
鍵盤中央のA音を、ほんのわずかに外しておく。他の音は完璧で、客には全く聞き分けられない。調律が終わり、晴れやかな笑みで握手しようとする客。手袋をはずして差し出されたるみ子さんの右手には、人差し指と中指が無い。るみ子さんは時計の針のようなお辞儀をし、玄関を出ていく。
穏やかな容貌、確かな耳、また調整が必要になるピアノ。るみ子さんに、調律の注文は絶えない。
年季が入ったグランドピアノは、白髪の老人が住む邸宅の居間に置かれていた。杖を突くその目は、ほとんど見えないようだ。「ご冗談でしょう?」、「全然音が違っていますよ」、という老人の言葉に、調律を終えたるみ子さんは頬を打たれたような表情になる。A音も念入りに合わせたるみ子さんに、老人は告げる。「これじゃあピアノがかわいそうです。あなたは本当のところ、ピアノのことが、あまりお好きではないようですね」。
ふさぎ込むるみ子さんのもとに、小包が届く。十年前、転覆した電車の中で助けた相手から送られてきたチョコレートケーキと礼状。それは、やけどが安定し、調理師免許を取得した「今、私ができるせめてものお礼」だった。るみ子さんはステレオの前に座り、古いレコードを取り出す。きらきらと光を振りまくように、ピアノは、それぞれが違う輝きを放つ。甘いものが嫌いなるみ子さんだが、ケーキをつまんでみる。
るみ子さんは再び、老人のピアノの前にかがみこむ。「他のピアノにはない響き、それぞれの音が見せる表情を一瞬でも聞き逃すまいと息をひそめて」。るみ子さんが最後のA音をはじくと、老人は視力のない目に深い笑みを浮かべて朗らかに述べる。「ああ、うちの音だ。やっとうちのピアノの音になった!」
28歳の時に事故に遭い、ピアニストの夢を諦めざるをえなかったるみ子さん。その不幸と憂鬱をぶつけるように、わざと一音、調律を外していた。それに対し、自分の指を犠牲にして助けた小学生は、今、調理師の道を歩き始めている。自分も新たな一歩を踏み出さなければならない事に、るみ子さんは気づく。ピアノと音楽への愛を、るみ子さんは取り戻す。
老人の求めに応じてるみ子さんは、子供時分に習った短い練習曲を軽やかに奏でたのだった。
「森の匂いがした」。(※3)
北海道に住む十七歳の「僕」が体育館から出ようとすると、「ひどく懐かしい何かをあらわすもののような」ピアノの音が響いてくる。調律師が鍵盤を叩くと、「僕」は秋の夜の「森の匂い」に包まれる。
「僕」は調律の専門学校を卒業し、あの調律師がいる楽器店に就職する。先輩達と触れ合うことで、ピアノは、「調和のとれた」「美しい」「森」であり、「ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた」ことを悟る。「音叉を鳴らす」と「ピアノのラ音がそれに共鳴」する。その時ピアノと自分はつながっていること、ピアノと世界はつながっていることを実感する。
「僕」は何度も調律に失敗する。先輩の整音の様子を見て、「いつかこんなふうに自分で音を作れたら」と夢見る。
彼は学ぶ。家族の「幸せな記憶」を「再現」するために、その「ピアノが本来持っていた音を出して」やること。「依頼主の頭のイメージを具現化する」のが自分たちの仕事であること。「人にはひとりひとり生きる場所があるように、ピアノにも一台ずつふさわしい場所がある」こと。
ピアノによって、人の心は開かれていく。「僕」は遠ざけていた弟と心がつながる。双子の姉妹はピアノによって再生し成長する。
「羊と鋼」で作られた「森」は、ピアノであり、そこから生まれる音楽だ。そこでは、人と人とがつながり、人と世界とがつながる。
調律師は調律によって、豊かに音楽を奏でているのだ。
※1…NHKBS1スペシャル「もうひとつのショパンコンクール
~ピアノ調律師たちの闘い~」 2016年8月28日放送(何度も再放送されています)
※2…「調律師のるみ子さん」(いしいしんじ『雪屋のロッスさん』新潮文庫)
※3…宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)