第九話 カイゼル髭
数分前と違い、今は虫の鳴き声が鮮明に聞こえるほどに静かな夜を取り戻していた。
この教会を最初に見た時は、こんなにボロボロに老朽化した教会のあるのかと驚愕したが、今現在はさらにボロボロになってしまった。壁には大きな穴が二つ開き、壁には氷のデコレーションまで付いた。数少ない木製の長椅子も隅の方に裏返ったり、縦に床に立っていたりしている。
肩や腕、腰に足と全身が痛む中、床を這いずる形で、俺は目の前の床の窪みを目指していた。多分、床に血を塗りたくって進んでいるかもしれない。
前に進むたびにギィギィと床が鳴くが、這いずり状態で自重も分散しているから床落ちの心配はないはずだ。
時間をかけて目的の穴まで行くと、床下では目と口が閉ざされ、腕と足が拘束された白髪の女の子が蠢いていた。
「怪我は……ないか?」
声を発したら脇が痛み、言葉の途中で声が詰まった。
声が聞こえてきて、女の子がより一層に暴れ始める。
「怖がらなくて大丈夫だ。俺は君を酷い目にはしないから」
俺の言葉を聞き、女の子は暴れるのをやめた。
とりあえず女の子の今の状態をどうにかしないといけないと思い、女の子に指示を出した。
「そのまま上方向に近づいてくれるか?そう!もう少し」
素直に指示に従ったくれた。
腹這いのまま、左腕を床穴に入れる。腕を精一杯に伸ばし、女の子の目を覆っていた布切れを下方向(額側)に引っ張った。布で隠れていた紅色に輝く瞳がぱちぱちと二回瞬いた。
吸い込まれそうな紅い瞳は上目遣いで俺を見ていた。
女の子が、んー、んー、と何か言いたそうだったので、次は猿轡を外そうとしたところで俺は意識を失った。
※※※※
教会の尖った屋根部分の頂点にて、姿勢を正しく直立不動で佇む男が一人。
白い肌が月で照らされ、鼻下で整った八の字の形をしたカイゼル髭の両端が風で少し揺れる。頭に被る黒のソフトハットの端も風で激しく揺れていた。
ぱたぱたと黒いスーツの裾を風で靡かせ、右手に持つ黒羽ペンでスラスラと左手にある小さなノートを開いて何かを書き込んでいた。ノートへの書き込みを終えると、手首をスナップさせて右側にポイっと黒羽ペンを放り捨てた。捨てられた黒羽ペンは黒い塵となって跡形もなく消えていく。
左手に持つノートを閉じ、完璧に着こなした黒スーツの右側の内ポケットに仕舞った。
ちらりと下を見る。
男が視線を送る先には、直径二メートルほどの穴があり、その奥には腹這いで意識を失ったジークと、視界が解放されて目の前で意識を失ったジークをどうしたらよいのか焦っている白髪の少女の姿があった。
二人を助けることもなく、無表情な顔で一言だけ呟いた。
「頑張りましたね」
ダンディーな声の男は、流れる風と共に一瞬でその場から姿を消した。