叔父の話
目の周りが腫れぼったい女の写真だった。正方形ポスターの真ん中にアンニュイな顔して居座っている。顔の周囲にはアルファベットが印字されていて、だが英単語らしくないスペルだ。ここは公衆トイレだった。電球がチラついて照らし、奥の個室へ向かうほど明かりが届かず暗がりをつくっている。汚れたタイルに囲われ、壁は紫と黄色の混ざった不気味な発色をしている。窓もなしに微風が吹いている。どこかに換気扇があるのだろうか。天井の影になった部分を見つめる。換気扇は見当たらないが多分あるのだろう。そのおかげでここのにおいは酷くはなかった。だが決して心地よい空気でもない。きっとそれは長年の刷り込みによるものだろう。いくら綺麗であってもトイレに長居したいとは思うはずもない。そう、長居はしたくないんだ。
僕はトイレを出た。背後で生き物の僅かな息遣いを感じながら、それを無視し去るように扉を強く押し込んだ。背後では何かが床のタイルに腹這いになって蠢いている感じがしていた。ノブを持った手に念じるほどに力をかけていく。すると扉は僕の懸念よりも遥かに軽いものだった。勢い余って、扉の外では一、二歩こけてしまった。
太陽が眩しかった。視界の半分を手で隠しつつも、ここが普段見知った場所でないことだけはすぐに分かった。見渡す限り草花が広がっている。かといって飛ぶ虫はおらず、髪を撫でる涼しさと、相反する夏の匂いがする。天国と聞いてイメージするのに相応しい原っぱに僕は足を踏み入れていた。そういえば太陽は眩しいだけで熱を感じなかった。本格的に死の疑いを覚えはじめる。近くに西洋式の墓石が建っていた。周りにはそれ以外何もなく、それでいて集団墓地にある一つほどのサイズしかなかった。
『Story of My Uncle』
叔父の話。墓石にはそうタイトルが書かれてあって、下へ続く内容はすべてハングルで書かれていた。一応読もうとしてみたが、遠い昔に習った、趣味(취미)、友達(친구)、先生(선생님)といった単語が離れ離れに見て取れるだけだった。少しずつ涼しさが肌寒さに転向しはじめていた。僕は盆の時期の日本にいたはずだった。それがどうしてこんな場所へ来てしまったのか、正直あの公衆トイレの段階からよく憶えていなかった。なんとか推理を広げてみるとしても、例えば、普通は外の公衆トイレには扉がついていないものが多いから、もしかしたら自分はどこか屋内の施設に来ていて、そこの公衆トイレからここへ迷い込んできたのかもしれない。せいぜいこれが限界だった。ポケットを探ったが財布すらなく空っぽで、辛うじて自分の名前は分かるというくらい。有効そうな手がかりは何もなかった。もう一度公衆トイレへ戻ってみる以外に思いつくことはなかった。
僕は扉を引いた。扉の先には、出て行くときに感じていたあの気配を再度感じていた。恐れている分扉を開ける手はむしろはやまる。するとそこには水中からあげられた魚のように跳ねている小太りの男がいた。両腕を自力で横に沿わせ、頭から足までをしならせ一心不乱に暴れている。僕はあっけにとられ動けず、その男と目が合った瞬間すぐに扉を閉じてしまった。
咄嗟のことだった。意識なしに収縮した全身の筋肉が、ついた折れ線を魅せながら体の中に緩んでいく。収まっていく。乳酸により扉の前で倒れ込んだ。扉の奥からもう音がしなくなって、ほっとしていた。
そこへ一艘の小舟が近づいてくる。見間違いじゃない。原っぱに浮いた船が、座り込んだ僕のもとにやってきた。船は無人だった。僕の前で止まって、わざとらしく、操縦士を欲しているみたいだった。無い舌を無い歯に沿わせて舐めずっているのが僕には見えていた。僕には見えていた? そうなのか? 僕が言うのだから見えていたのだろう。だからいいからさっさと乗り込んでしまおう。船は僕を待ちわびていた。
乗った途端に船は動き出した。そういえばオールも備え付けられていない。楽でいい。このまま行こう。船は進行方向を、角度を徐々に大きくして天空を目指していた。太陽の眩しさが今や優しく、まるで僕らを抱きしめようと差し伸ばしているみたいに、温かい。僕は死んでいない。叔父の話。ここに置いていくことを、意味もなく申し訳なく思っているよ。今はそれを思うだけの余裕が出てきたんだ。上から君を見下ろしながら申し訳なさが青空に溶けていくんだ。粉になったような快感。溶けていく瞬間のためだけに生まれた最良の振り分け。人間に生まれた僕では到底この快感に耐えられそうもない。迫りくるとてつもない壁のようだ。顔から何からすべて吹き飛ばされてしまいそうだ。形がなくてもこの感覚さえあれば、むしろそうなってしまいたかった……今すぐ突き落として風を浴びせてくれ。
船の行く角度が収まってきたころ、僕は冷静さを取り戻していた。何で冷静さを欠いたのか、よく分からない。だいたいここに来てから分かったことなどなかった。ここはどこなんだ。どこかも知らない場所の上空に、無人船と一緒に来ていた。こんなに上まで昇ってきたというのに、太陽の大きさは変わっていなかった。
向こうをよく見る。船の進む方角には、箱状の何かが浮いてそこにあった。高速道路の入り口……、箱の中、ガラスの反射越しに人がみえる。こんなところでも誰かが働いているんだ。
「通行料頂きます。」
「はい?」
通りがかりに言われ、僕は疑問を呈したはいいが船の止め方を知らなかった。船は緩やかに進み続ける。チープな電子音が鳴った。僕は船の行くまま料金所の前を過ぎて行った。始めから僕の進行を遮るバーも何もかかっていなかったから、僕はどこまでも止まるつもりはなかったし、特に進むつもりもなかった。意思はなく進みつづけているだけだった。