菜月の御部屋 〜そのニ~
「いーやーっっ! 出ないーっっ!!」
粗末な寝台をバリケードにしてキャン×キャン吠える少女。
何がそこまで彼女を頑なにさせるのか。
「こんな薄暗くて小汚ない部屋に置いておけるわけないだろうっ! 何故分からぬかっ!」
柔らかな金髪を掻きむしり、青年は灰青の瞳を据わらせる。
なぜにこれほど聞き分けがない? こんな薄暗い地下で粗末な服を着てて? 寄せ集めの食べ物を与えられるだけの毎日に嫌気はささないのかっ?!
しかめっ面で頭を掻き回す伯爵を、じっとり藪睨みする菜月。
「記録によれば召喚された当時は八歳だったようです。かれこれ五年ほどでしょうか。こんな地下室で会話もなく孤独に生かされてきたのです。精神になにがしかの影響があってもおかしくはないですね」
ペラペラと手元の書類をめくりつつ、したり顔で呟く執事のカイル。綺麗に撫で付けた灰色の髪から落ちた一筋の房がしゃなりと揺れた。
困惑しているのだろう。彼もお疲れ気味のようだった。
どうしたら良いのか分からず、手詰まりな男性陣を押し退け、侍女があるモノを片手に地下牢へ入っていく。
「失礼いたします、御当主様」
そう言いつつ出てきたのは侍女のメルダ。彼女は手に持った何かを差し出しつつ、地下室の扉あたりにしゃがみこむ。
「贈り物です。どうぞ?」
メルダがそっと床に置いたのは、両手サイズの熊の縫いぐるみ。それを見て、菜月の瞳が輝いた。
ぬいぐるみ..... 良いなぁ。
キャン×キャン吠えるのをピタリとやめて、じっとヌイグルミを見つめる少女。
その幼げな姿に、当主様は首を傾げる。
記録によれば、彼女は今年で十三歳になるはずだ。こんな子供騙しなオモチャに興味を持つわけはないと思うが。
訝る当主に、侍女の小さな呟きが聞こえる。
「この方は誰とも関わらずに五年を過ごされました。.....つまり、八歳で時間が止まっていると思われます」
それを聞いて、当主はどくんっと大きく心臓を鳴らす。知らず垂れた冷や汗が、つぅ.....っと頬のなだらかな曲線を辿っていった。
メルダの言うとおりだろう。
.....なんということだ。父上は、とんでもないことを。
言葉も交わさず、学ぶこともなく、一人孤独に生かされてきた少女だ。心の成長が止まってしまっていても、おかしくはない。
形代のために余所の世界から子供を拐うなど許されることではない。
おずおずと寝台の後ろから出てくる菜月。どうやら、ヌイグルミが気になって仕方ないようで、まるで幼子のように無邪気な顔だ。
そうっとヌイグルミに手を伸ばして、菜月は周りを警戒しながらソレを手に入れる。
柔らかな感触を堪能して抱き締め、ほにゃりと笑う少女。
その姿があまりに痛ましく、伯爵は思わず胸がひきつれ、くっとくぐもった声をあげた。
途端に、びくぅっと大きく震え、脱兎のごとく寝台の裏へ逃げ込む菜月。ちゃっかり、ぬいぐるみは抱えたままである。
入り口に背を向けて小さく丸まる少女。その切ない後ろ姿を見て、それぞれに三種三様の沈黙が漂った。
「あまり刺激はしないほうが宜しいでしょう。少しずつ気長に慣らしていく他ありますまい」
右目のモノクルを指先で上げ、カイルが溜め息まじりに呟く。
「子供の好きそうなモノを用意して、不自由のない暮らしを心がけます。まずは食事からですね」
床に置かれた質素な器を見て、メルダは慇懃に眼をすがめた。見ればカトラリーすら与えていなかった様子である。
きっと動物のように顔を突っ込んで手掴みで食べていたに違いない。
文明の欠片も窺えない無慈悲な地下牢は、おそらく少女を動物に変えてしまったのだ。
そう思うといてもたってもいられず、伯爵は、今すぐにでも此処から逃げ出したくなる。あまりの申し訳なさに謝罪の言葉も紡げない。
「.....頼む」
カイルとメルダに頷き、当主は後ろ髪をひかれつつ、脱兎の如く地下室を後にした。
「なんてことだ.....」
悲痛に顔を歪めて、彼は執務机に突っ伏す。
年齢に見合わぬ幼さ。癇癪を起こす子供のように泣きわめき、その瞳に浮かぶのは得体の知れない何かへの恐怖。
あそこから出されたら殺されるとでも言いたげに、少女は顔をひきつらせ、我々を拒絶していた。
彼女を、あんな風にしてしまったのは、きっと父上だ。酷いことをして、脅したに違いない。形代が不幸でないと、この呪いは成立しないのだから。
あちらの幸福を奪い、こちらの不幸を背負わせる形代。
なかには、死なない程度に痛め付けて、形代に虫の息な暮らしをさせる貴族もいると聞く。
彼の父親は、さすがにそこまではしていなかったようだが、年端もいかぬ少女を湿った地下牢に閉じ込め、陽の目も見せずに孤独で貧しく暮らさせるのも十分虐待だ。
ゆえに数十年前の国王により、禁止された呪術である。時の国王陛下が、呪術の生け贄にされかかった少女と恋に落ち、異世界からの拉致拐取と形代の虐待を厳禁としたのだ。
今では召喚術そのものが禁忌とされている。
だが蛇の道は蛇。権力を持つ者の欲望は際限がなく、それに纏わりつき甘い汁を吸おうとする者も途絶える事がない。利害の一致した馬鹿野郎様どもがやらかすのは、ままあること。
まさか自分の父親が、その馬鹿野郎様の一人だとは思いもしなかったが。
いったい、どうやって償ったら良いのだろうか。
彼は深い慚愧に身を委ねる。
亡くなった前伯爵はとんでもない事をした。彼は、そう思っていた。
しかし、事実は小説より奇なり。
地下牢の少女が、実は幸せに監禁暮らしをしていたなどと、彼には思うよしもなかった。
こうして思い違いや勘違いが入り乱れ、菜月の監禁ライフは充実していく。
「..........」
部屋の片隅に縮こまる菜月は、カイルとメルダの様子をじっと窺っていた。
翌朝、再びやってきた二人は、数人の使用人が運ぶアレコレの設置を細かく指示している。
「寝台はこちらに。古い方は片付けてください」
「テーブルセットはここへ。.....少し小さかっただろうか。机はあちらだ」
テキパキと指示を出し、菜月の地下牢はガラリと様変わりする。
冷たく固い石材の床には暖かなオレンジ色の絨毯が敷かれ、質素な金属製のベッドは木製の豪華なベッドに。
蚊帳のように吊られた天蓋のついた可愛らしいベッドは、薄い桃色でフカフカしていた。
そしてクリーム色のテーブルセット。猫足の丸テーブルや椅子は、やや小さめで菜月に使いやすいサイズである。
同じ色合いのクローゼットも持ち込まれ、模様替えの終わらせると使用人たちは部屋から出ていった。
呆然と見送る菜月に微笑み、メルダは檻の外に用意してあったワゴンを部屋に入れる。
その間にカイルがテーブルにカトラリーを並べていた。
「今日から、真っ当な暮らしを御約束いたします。暖かな寝床に美味しい食事。.....聞けば、今までは湯浴みもなく、お湯の入ったタライのみだったとか。わたくしが御側につくからには、今後、御不自由はさせません」
設えられたテーブルの椅子を引き、カイルも優しく微笑んだ。
しかし、柔らかな雰囲気の二人を前にしても菜月は隅っこから動かない。
ぎゅっと熊のぬいぐるみを抱き締めたまま微動だにせず、彼女は無言だった。
「.....お腹が空いておられるでしょう? さ、食事にしませんか?」
何の反応もしない菜月にめげず、メルダはワゴンから食事の皿を取り出して並べていく。
スープやパン。温野菜のサラダに焼いた腸詰めや卵。湯気が立ち上る美味しそうな皿を幾つも並べ、辛抱強く菜月が動くのを待つ二人。
これでもかという刺激的な匂いが少女の鼻孔を擽っていたが、それでも菜月は二人を警戒して動かない。
.....いや、動けないのだ。
地球では散々虐待されてきた彼女である。こちらに来てからも人間と言葉を交わしたこともなく、気楽な監禁ライフを送ってきた少女に、いきなり給仕つきの食事はハードルが高すぎた。
祖母と死に別れてからというもの、彼女は大人の悪意にしか触れていない。人との交わり方も知らない、言葉の交わしかたも分からない。ないない尽くしの箱入りネグレクト娘。
そんな短くも波乱万丈な菜月の人生は、彼女を極度のコミュ症に変貌させてしまっている。
頑なに縮こまる少女を見て困り果て、カイルとメルダは顔を見合わせた。どうしたら良いのか分からないのは二人も同じだった。
「.....人がいては食べられないのでは?」
「ずっと御一人でしたものね。怖がらせているやもしれません」
二人の脳裏に、昨日の絶叫する菜月の姿が浮かぶ。死に物狂いでベッドの陰に隠れる彼女は、まるで恐怖に怯える野生動物のようだった。
それでも差し出した縫いぐるみを受け取ってくれたのを思いだし、メルダは嬉しげに少女を見る。
そのぬいぐるみは、今、菜月の腕の中にあった。
「急かしてはなりませんね。徐々に慣れていただきましょう」
小さく頷きあい、カイルとメルダは静かに牢から出ていった。そして少し離れた階段近くに隠れ、こっそりと牢の様子を窺う。
しばらく見守っていると、そろっと菜月が動きだし、恐る恐るテーブルへと近寄っていった。
そして満面の笑みを浮かべ、置かれていた料理を食べ始める。
その姿を微笑ましく見守りながら、カイルとメルダは軽く瞠目した。
なんと菜月はカトラリーを使って食事をしているではないか。辿々しい感じは否めないが、フォークもスプーンもキチンと使えていた。
この世界は、地球で言えば中世になりかけな未開の文明だ。王侯貴族ですらも、切り分けられたモノを手掴みで食べ、ナフキンで拭う世界。
カトラリーなどが広まり始めたのは、ここ数年である。
手を汚さずに食事が出来るカトラリーは画期的な発明として、あっという間に上流階級に広まった。
それを事も無げに使う菜月。
日本であれば、幼少なほど使うのがフォークとスプーンである。当然、菜月も慣れ親しんだ道具だ。
幸せそうに食事をする少女は、物陰から窺う驚嘆の眼差しに、全く気づいていなかった。
後日、それを知った伯爵が、大慌てで彼女の元へ駆け出したのは言うまでもない。
「カトラリーが使えるなら、外の世界でも十分にやっていけるぞっ? さあっ、街に出掛けてみないかっ? 美味しいモノや綺麗なモノが沢山あるし、何でも買ってやるぞっ!」
「いーやーぁぁっっ! 絶対、出ないぃぃぃーっっ!!」
喜色満面で飛び込んできた伯爵に心底怯え、今日もまた地下牢に菜月の絶叫が谺する。