菜月の御部屋
「.....っっ! 無事かっ?!」
薄暗がりに眩しい光が射し、その光よりも眩しい男性が肩で息をしながら開け放たれた扉の前に立っていた。
彼の名前は、リカルド・ヴェイザー。この地下室のある御屋敷の当主である。先日、父親が亡くなり、爵位を襲名した。
そこで彼は、何年も前から閉じ込められた少女の存在を知る。譲られた家督のなかに、その少女も財産として記録されていたからだ。
本当に居たのか.....
思わず絶句し、信じられないような眼差しで、青年は目の前の少女を見た。
「.....誰?」
何の鷹揚もなく呟く娘。
彼女がジメジメした地下室に閉じ込められて五年。ようやく少女は独房と変わらない部屋から助け出されようとしている。
真っ黒な髪に真っ黒な瞳。まるでお人形さんのように、ぽてりと座る彼女の名前は花田菜月。
異世界召喚などというベタな展開によって、地球から拉致られたのだ。菜月が八歳頃の話である。
しかも、ラノベテンプレな聖女とか勇者とかを求めてではなく、生け贄として喚ばれた切なさよ。
この世界は魔法や魔物が蔓延る世界。当然、地球とは異なる文化や理がある。その一つが形代だった。
特定の人物を不幸にすることで、その人物に起きるはずの幸運を横取りし、こちらの不幸を背負わせる呪術。
形代が不幸であればあるほど良いとされ、その対象として喚ばれた菜月は、薄暗い部屋に閉じ込められて一日一回の残飯の差し入れで生きていた。
死なれては困るため、最低限の御世話はされる。綺麗な水の入った水瓶や、キチンと洗われた着替えと手拭いなども用意され、月に一度は清掃やリネン換えも行ってくれていた。
ただ、誰も菜月と言葉を交わしてはくれない。
清掃時も、横の小さな小部屋に押し込まれ、事が終われば扉を開く。戻った部屋は綺麗になっているが、人はいなかった。
差し入れられる残飯も、要は使用人達の食べ残し。ゴミとか腐っているとかいうわけではないので、美味しくはなくても食べられるモノである。
いないモノとして完全に無視され、最低限の暮らしで、ただ生かされているだけの少女。
人と交わらねば人間性は失われる。
薄暗い闇と孤独だけに支配されていた菜月は、言葉を失い、思考を失い、全ての感覚が麻痺した。.....はずだった。通常であれば。
だが、彼女は通常の人間ではなかったのだ。
いきなり召喚されて地下に閉じ込められ、唖然とする菜月。
何が起きたのかも分からずに、呆然としていた彼女へ、その日の残飯が差し入れられた。
その如何にも、あり合わせをスープにブチ込みましたよ的な器を見て、少女の瞳は歓喜に彩られる。
御飯だっ!!
慌てて器に顔を突っ込み、ガツガツとソレを貪る菜月。ほろほろ泣きながら食べる彼女の顔は喜色満面だった。
「御飯..... 美味しい。三日ぶりだぁ」
えぐえぐと喉を詰まらせつつ食べる彼女の耳に、何かの物音が聞こえる。
ふとそちらに眼をやると、御飯の差し入れられた小さな戸口にコップが置かれていた。綺麗な水がなみなみと注がれた木のコップ。
それを急いで口にして、彼女は喉に詰まった御飯を、胃の腑に流し込む。
そうして、皿まで舐めるように綺麗に食べ終わり、久々の御飯で、ぼうっと夢心地な菜月。
何もしてないのに御飯がもらえるなんて、ここは天国かしら?
奥には粗末な硬い寝台と、薄い毛布。だが、ちゃんと洗ってあり清潔だった。
綺麗な寝床..... 埃まるけの押し入れの隅で踞って寝なくても良いんだぁ。手足を伸ばして寝られるなんて何年ぶりだろう。
この邸の主が不遇と判断する菜月の生活環境は、彼女にとってまたとない厚待遇だったのだ。親に虐待とネグレクトを受けていた菜月には、夢のような天国である。
くふくふっと顔を綻ばせて、彼女の気儘な獄中ライフが始まった。
誰にも怒鳴られないし、殴られない。美味しい御飯が食べられて、着替えや掃除もしてくれる。
嬉しくてたまらず、菜月は歌を口づさむ。
まだ、祖母が生きていて幸せだったころ、彼女はたくさんの歌を教わった。
ほんの数年だったが、祖母が亡くなるまで菜月は普通に暮らしていたのだ。
それが一変したのは祖母が亡くなってから。彼女が四歳の時だ。
生まれてすぐに祖母へ預けられた菜月の前に、母親だと名乗る人物が彼女を引き取りに来たのだと現れる。
「んもぅ、面倒臭い。お母さんが死ぬなんて予定外だわ」
苦々しげに呟く女性。
ここから菜月は、凄まじい虐待とネグレクトの嵐に見舞われた。
殴る蹴るは日常茶飯事。食べ物も滅多にもらえず、母親は菜月のことを目障りだと罵り、押し入れに詰め込んだ。
母が怖くて物音もたてられない彼女は、じっと外の気配を伺う。そして母親がいなくなったのを見計らっては押し入れを出て、僅かな食べ物や水にありつく毎日。
母親の癇癪に怯え、常に小さく縮こまる暮らし。たまに母親が置いていく菜月用の食べ物を、少女は貪るように食べて過ごした。
菜月に纏まった食べ物が手に入るのは、週に一回ていど。それでも心から感謝して、彼女は大切に食べていた。
そんな悲惨極まりない暮らしにも慣れ、ひっそりと押し入れに潜む生活が四年ほど続いたが、しだいに母親の機嫌が酷くなってゆくのを菜月は感じる。
今日も誰かが訪ねてきて、何度も母親と口論していた。その度に激昂し、不機嫌さを増していく母。
「ああっ、もうっ! 学校ですって? そんなんに通わせるお金なんてないわよっ!」
学校.....? なんだろう、それ?
少女は、ぼんやりと母親の癇癪を聞いていた。
就学年齢にもかかわらず、菜月が学校に通っていないため、その地区担当の民生委員の訪問があったのだとは知らない菜月。
こうして、ジリジリ追い詰められた菜月の母親は、とうとう彼女を置いて部屋を飛び出し、二度と戻らなかった。
何も知らない少女は、ただひたすら母親を待つ。
機嫌が良い時の母は、菜月にお菓子などもくれた。ジュースを置いていてくれたこともある。
だから彼女は母親が必ず戻ると信じていた。一日、二日、母が家をあけるなどよくあることだ。
しかし、三日たち、四日たち、大切にしていた食べ物がつきた頃、ようやく菜月も理解する。
自分が母親に捨てられたのだと。
だが、それもまた彼女にとって幸せだった。怒鳴られも殴られもしない平穏は少女を安らがせる。
ただ、問題は食べ物だ。水は水道が動いているので何とかなるが、食べ物ばかりは何ともならない。
チラリと玄関を見た菜月の脳裡に、母親の怒号が飛ぶ。
『絶対、外に出るんじゃないよっ!!』
ぴゃっと背筋を震わせて、押し入れの隅に踞る少女。
出ませんっ! だから、怒らないでっ!!
このままではにっちもさっちも行かなくなるとも知らず、菜月は母親の幻影に怯えながら、埃まみれの押し入れで震えていた。
そんな彼女が異世界召喚されたのは僥倖とも言えよう。
食べるに困らず、住むに困らず、彼女はようやく自由を満喫する。
ここが何処かは分からないが、御飯は温かくて美味しいし、御布団は綺麗だし、着替えももらえるし、何より静かで、いわれなき暴力に襲われない。なんと幸せなことか。
青い眼のお人形を口づさみつつ、菜月は心から安心していた。
地球での暮らしが過酷過ぎたため、この地下監禁に至福を感じる少女。
なので、当然..........
「そなたを助けに来たと言っているであろうがっ!!」
「いやーっ! 出ないーっ! やだやだ、離してーっっ! ここが菜月の御部屋なのぅーぅっっ!!」
菜月を地下室から出そうと奮闘する青年と、地下室から出されまいと必死に抗う少女。
御互いの認識と価値観が違いすぎるために起きる、ハチャメチャ物語は、ここから始まる。
なんとなく書いただけなので不定期です。気が向いたら続き書きます。まったり御笑覧下さい。