90.闇に生きるもの
男は王宮の廊下を歩いていた。
侍女達が前から歩いてくる。
「ヒッ……」
男の顔や姿をみると恐怖に引きつった声をあげて
避けるように足早に通り過ぎてゆく。
(久しいなこの感じ……)
男は苦笑しながら静かに歩き続けた。
額からは血が滲んでいた。
それが仮面を伝わり廊下へと落ちた。
(役に立たない下賤なものか……)
何故かその時に、あの人型聖女の言葉が胸に過った。
“獣人様がそんなにも偉いものなのですかね!?
みんなそれぞれ意思があって、大事な人がいて。
他人がどうこうしていい人なんて、一人もいないからね“
(フ……世迷言を……らしくもない)
また一つと雫が廊下に落ちた。
それは血液なのか涙だったのかはわからない……。
「人型聖女の奪還に失敗しただと!!」
セラフィンはその一言に憤った。
「申し訳ございません。
思わぬ邪魔が入りまして……」
コウモリはひざまづきながら、頭を垂れた。
「行先には心当たりがございます。
今しばらくの猶予を頂けましたら、必ず……」
そう言い終わる前に、顔面目がけて壺が飛んできた。
うまくかわしたつもりだったが、尖った部分が軽く
当たってしまったようだった。
(相変わらず癇癪をすぐ起こす方だ……
まるで子供だな……)
顔には出さなかったが、コウモリは内心呆れていた。
「何のためにお前のような者に高い金を払っていると思う。
こんな所で油を売っている暇があったら……
今直ぐに人型聖女を取り戻せ!!」
最後の方は叫ぶように喚いて当たり散らした。
「このような事でしか、お前のような下賤の者は
役に立てないだろうが……
せいぜい俺様の為に役に立ってみせろ!!」
そう言って、机や椅子を蹴り倒した。
「…………、御意」
コウモリはそのまま闇に溶けて消えた。
心結はラウルと別れた後……
シレーヌの部屋にいた。
「落ち着いたかい……」
「はい……」
心結はシレーヌの顔を見た途端、静かに泣き出した。
何が起きたのか悟ったが、シレーヌはただ黙って
心結が泣き止むまで抱きしめていた。
(大泣きされて罵倒の一言でも言ってくれた方が
どんなによかったか……。
こんなにも静かに泣かれる方が、よっぽど胸にくるよ……)
「…………っ」
銀氷の悪魔よ……バカな男だね……。
このままだと心結は本当に遠いところにいってしまうよ。
あれほど忠告したのに……。
「ミユウはそれでいいのかい?」
心結は泣き腫らした目でコクリと頷いた。
「後悔はしないかい。
一時の感情だけで行動すると取り返しのつかないことに
なることもあるからな」
ぽろりと涙が溢れた。
そして静かに呟いた。
「もう……信じることに疲れたみたいです」
シレーヌはその言葉に目を見開いたあと……
悲しげに微笑んだ。
「酷い男ですね……。
そんな男……私が忘れさせてあげますよ」
それは突然のことだった。
いつの間にか心結の後ろに闇が広がり男が姿を現した。
そして片手で心結の腰をがっちと後ろから抱いた。
「…………!!」
「コウモリ!! 何故ここに」
シレーヌは手の中からトライデントを召喚させて構えた。
「愚問ですな、シレーヌ様。
私はコウモリですよ……。
港が近くなって結界が緩みましたか?
対象物の座標を捉える事ができたら……
何処へでも侵入できる事くらい
あなたが一番よくわかっているでしょう」
そう言っていやらしくニヤリと笑った。
「私の商品を引き取りに来ましたよ。
今まで大切に預かって頂き、感謝いたします」
心結は逃れようと、必死にもがくがびくともしなかった。
只ならぬ気配に狼が、そして副料理長が部屋に飛び込んできた。
「コウモリ!!」
「おやおや……いつぞやの泥棒狼の登場ですか。
何処の飼い犬かわかりませんが……。
ご主人様の元に帰りな!」
コウモリが発生させた光の玉が狼に直撃した。
(ラウルさん……!!)
心結は心の中で叫んだ
数秒後目を開けてみると、狼は傷一つなく無事であった。
「ほう……、ただの飼い犬ではないようですね」
にぃと愉快気に笑った。
「ミユウをどうするつもりだ!」
武器を構えながら、シレーヌは叫んだ。
「依頼主の元へお送りいたしますよ。
それが私の仕事ですから……」
「コウモリ、お前本当にそれで……」
シレーヌの言葉を、コウモリは遮った。
「らしくないですね、あなたが私に説教ですか。
ハッ……綺麗ごとはたくさんなんですよ」
その間にも、心結を捉えながら狼と魚人を相手に
コウモリは一人で戦っていた。
「そろそろ港に着きますね。
では、皆様ごきげんよう……」
そう言うとコウモリは心結共々……
闇の中に消えていこうとしていた。
そのとき切羽詰まった声で狼が叫んだ。
「心結!! 行くな!! 心結!!」
ラウルは必死に叫んで心結に向かって手をのばした。
心結は泣きそうな顔でただラウルを見つめているだけだった。
しかしあともう少しで届くというところで……
二人は闇に消えた。
「あんなに必死に叫んでいるのに……
かまわないのですか?」
心結の髪を一房掴んで弄びながら……
コウモリは楽しそうに、心結の耳元で囁いた。
「悪い女だ……」
「…………」
心結は言葉を返す事もなく静かに遠くを見つめていた。




