10.修行
「老師。私はハオに勝つために剛拳を捨てる覚悟をいたしましたわっ!」
暗黒料理店での食事を終えた後に、ポリーヌはヤルル老師に正対して拳士の礼をした。
ちなみに、食事代はポリーヌが余裕で支払った。ポリーヌの父方はしがない武術道場であったが、母方は伯爵家の傍流で大商人であった。
「老師! なにとぞわたくしに新たな拳の道筋をお与えくださいっ! ですわっ!」
「ポリーヌ殿。勝利のためなら己の信念も曲げるか。どうしてもハオ殿に勝ちたい理由があるのだな?」
「はいっ! でもその理由はわたくしの口からは言えませんの。どうかお察しください」
フォッフォッフォ、とヤルル老師は笑った。
「口に出して言わぬとも良いですじゃ。あなたのような見込みのある拳士を鍛え直すというのはやりがいのある仕事……」
老師はそこで言葉を切り、普段の穏やかな態度とは打って変わった恐ろしい形相に変わった。
「わしもかつては地獄のヤルルと言われた拳鬼! わしの修行は厳しいぞいっ!?」
ポリーヌは一瞬気圧されたものの、
「はいっ! ですわっ!」
と、すぐさま拳士の礼をして見せた。
それからヤルル老師とポリーヌの修行が始まった。
王都郊外の森には小さな滝があったが、ポリーヌは修行僧の白い服を着て滝に打たれ続けた。
「老師! この修行には一体どのような意味が?」
「意味を言葉で問うでない! 全身の感覚でそれを感じるのだっ!」
ポリーヌは全く意味が分からないながら、その荒行に打ち込んだ。
やがて、身体の感覚が研ぎ澄まされているのを漠然と感じることができた。
冷たく身に降り注ぐ水の感覚、膝まで浸かった水の感覚。足の裏に感じる石の感覚。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻に匂うもの。
まつ毛の先に付いた水滴の感覚までも鋭敏に感じられ、それらのあらゆる刺激が大量の情報となって自分の中に取り込まれてくる。
自分という存在が精神だけのもののように肉体から浮き上がって感じられたかと思えば、確かな肉の感覚をもって、自分がこの世界の一部として確固たる存在であることを思ったりもした。
ポリーヌは目を閉じて、身体の様々な皮膚感覚に心を配った。
覇王拳に打ち込んでいた間、ポリーヌは自分が我欲の塊であったことを悟った。ポリーヌの拳は相手との対話ではなく、ただ己の独り言のような拳であった。
(ああ。世界はこんなにも美しかったのか! ……ですわっ!)
ポリーヌは閉じていた目をカッと見開いた。