飛び出す絵本・その2
妹の希奈が、遊んでいる最中に木から転落して大ケガをし入院生活が始まって、俺を心配させていた。「大丈夫だよ、お兄ちゃん」今年の秋に5歳となる年の離れた妹は、いつも明るかった、頭と頬、右手右足に包帯やガーゼが施されていた。これら全部がとれるようになるまで、あと何週間か、何か月くらいかかるのだろうか、遊び盛りなのに不憫でならない。
何か、妹が喜ぶ物はないだろうか?
すぐに考えついたのが、絵本を与えることだった。つい先日に頼まれて本屋で物色していたことを思い出したのだ、それでいいだろうと俺は納得し早速、学校の授業が終わった後に気持ち急いで本屋へと駆け込んで行った。
高校生の、しかも男が児童書のコーナーにいるだなんてどう思われるんだろうかと恥ずかしくも思うが、ここに来たのは近日で2度目だ、もう慣れたことにしておこう、あまり気にはそんなにしていなかった。
幸いに誰もいない。
俺は店の奥にある絵本コーナーの前で、本棚に並ぶ絵本の背表紙群集を眺めて腕を組んでいた。『みんなの動物園』、『羽の生えた賢者たち』、『おおきくなってねくまごろう』……選ぶのが面倒で、もうどれでもいいような気がしてきた、その時だった。
『飛び出す絵本シリーズ7・幽霊』
幽霊? 俺は心のなかで問いかけながら静かに本棚からそれを引き抜いていた。シリーズと書いてありながら、あったのはこれ1冊だけだったようで、裏表紙を見てみると出版された順にシリーズ名が並んでいたのだった。1は1のままで次から順に名が付いている、虫、花、動物、家族、小笠原権左衛門……って、何だその権左衛門というのは。冗談なのか? 飛び出す小笠原権左衛門。落ち武者が井戸から出てくる光景を想像してしまった、どうでもいいことだ。
まあいい、三つ目のお化けイラストが描かれている、この本のことが気になっていた。
「どういうことなんだろうな? ……開ければ分かるか」
言いながら、表紙の大きさがA4サイズくらいになるその幽霊とやらが飛び出す絵本を、ゆっくりと開いていった……
ぎいいいい……
木の軋んだような音が聞こえた、と思ったが、それは幻聴だったようだ。本から一瞬だけ注意が逸れて空中や上を見上げ、周りを見るために振り返った、だが客も店員も誰もいる気配は全然なく、本当に気のせいだったようだ、と認識した。
「……?」
再び、本の中身へと視線を運ばせる。だが奇妙なことに内容どころかその本、何も書かれてはおらず、真っ白なページが2、3ページと繰り返されるだけのものだったのだ。
「どうなってるんだ? 人をおちょくってんのか?」
表裏をひっくり返してみても何も変わらない本を、俺は閉じて黙って元の所へと返していた。納得のいかない俺の気は治まらず、「こんなもの買わせて騙すつもりか、何処の出版社だよ……まったく」と不満をこぼしながら出版社名を確かめていた。『なななななななな』出版、らしい。そう背表紙の下部に書いてある。「意味わからん!」
俺は速やかに立ち去った。絵本は諦めて、月刊の少女雑誌と週刊少年雑誌を購入して帰った。少年雑誌は週読しているわけではないのだが、少女雑誌を買うカモフラージュになるかと思ったから一緒に買っただけだ、もちろん、少女雑誌を読むのは希奈で、俺ではない。
とりあえずそんでいいやと、本屋をあとに俺は夕方の町なかへと消えて行った。
現れたのは、俺のあとを揺れながらついてくる奴だった、残念ながら俺は全く気がついてはいない。
……
病院へ着いたら、妹のいる病室へと直行だった。ゆっくりと引き戸を開けると、ベッドから半身を起こして小さな携帯ゲームをしている希奈が顔を上げてこちらに目を向けた。「あ、お兄ちゃんだ。それ持っているの何ー」クリクリとした興味津々の目で俺が片手で抱えている雑誌の入った袋を見ていた。「希奈に買ってきたよ」そう言うと希奈はとても嬉しそうな顔をする。「やったー!」
和やかなムードで、俺の機嫌はすこぶる良くなった。此処に至るまでは妙に足取りの重い、不快感、とまではいかなくとも、ぬっとりと後ろに何かが貼り付いているような気味悪さがあった。しかし振り返ってみても誰もいないし、背中に何かが付着していたわけでもないようで、まあ気にしすぎだ神経過敏にでもなっているだけだろうとどうにか理由をつけて自分を納得させていただけだった。
「おミカンもらったの、いる〜?」
希奈が俺から渡された雑誌を受け取る時に、そばのイスの上に置いてあった袋入りのミカンを指して言っていた。「んじゃ、1個」俺は袋を取ろうと手を伸ばしたのだが。
希奈は続けて言った。
「お友達にも、1個〜」
満面の笑顔で、希奈は俺の横へと取ったミカン1個を差し出している。
俺の隣には誰もいない、俺はひとりで来たつもりだった。
希奈は何を言っているのか。
「……希奈」
俺の、張りつめた声が頭のなかで反芻している。「ん? あれえ、違った」
「え?」
希奈が不思議そうに俺の後ろを見ようと体を左右に傾けるので、俺はとうとう我慢ができなくなって背後に振り返りしっかりと人の所在を確認した。個室のカーテンが開いてはいるが窓から吹き込むそよ風に揺れているだけで人影はなく。
「誰もいないよ希奈」
と、自信を持って言ったのだが。
「ひとりじゃなかったんだ。『お姉ちゃんたち』、だあれ?」
……聞いた途端、背中に寒気が走り、足が震え出してきていた。無垢な我が妹なるこの子どもこの素朴な謎かけを前にして、俺の自信の塔は自身の地震でトウッ! ……と、崩れ出していった。思考力が低迷で、頭痛さえしている。
希奈の言うことは信じられなかった、仕方がないだろう、俺の『目』には見えてないのだから。だが……気分は悪い、俯いて背中を丸めて固まってしまっていた。
「でも、どうして右のお姉ちゃんは頭に赤いジュースをつけているの? 左のお姉ちゃんはお顔が風船みたい、お手ても無いし、おかしいのお〜」
俺はさらに耳を塞いでいた。「ひいいい」俺の口籠っていた小さな悲鳴に、希奈はケタケタと愉快そうに笑っていた。「お兄ちゃんてば、何でそんなに震えているのよう」
あっけらかんとして見たままを言っているらしい希奈だが、兄として男として、そんな簡単に動揺してはいけないと気をどうにか張った。それから俺は膝にこぶしで気合いを叩き込んで、勢いよく背筋を伸ばしてみた。「希奈」「なあに?」「もし伝えられるなら……お姉さんたちに言っといてほしい」
希奈は、うん、と俺の次の言葉を待っていた。
俺の言いたいことはひとつだった。こちらの要求が伝わって、スムーズに実行してくれたらいいと願う。俺は堂々とひと言だけを希奈に命じて伝えてもらった、ひとつだけ、それは。
『どうか本へとお戻り下さい』