聖女は何故かだしがらを求める
「おはようございますクロエ様!」
「おはよう、ルカ。さっきぶりね」
「顔を見てちゃんと挨拶したかったので」
迎えに来る、と言っていたルカはその前に私の部屋の前に来ていたらしい。
私が寝起きだったので、ドアを開けずに挨拶だけして戻っていったとサマンサさんが教えてくれた。いつもは祈りの時間があるので夜明けごろに起きていたので、今朝はずいぶん寝過ごしてしまった……と思いかけて「そうかもうお祈りも義務じゃないのか」と思い直した。
でも明日からはさすがにサマンサさんが起こしに来る前に目覚めよう。……しかしそうすると、ルカはいつからいたのだろう?
「うぅ……嬉しい……」
「え?」
「クロエ様が、ちゃんとここにいるんだなって……昨日の事、夢じゃなかったんだって嬉しくて……」
「ルカは大袈裟ねぇ」
ウルウルしながらもそもそ朝食を食べるルカを見ていると私も思い出してしまう。ルカがまだうちに来たばかりの頃。スラム街でたった一人で生きていたルカは、一人で落ち着いて食事を摂る事が出来ずに物陰で味わう間もなく飲み込むように食べていた。
きっと奪われないようにと身についた経験だったのだろう。人間を警戒する野良猫のように全身で威嚇しているようだった。それが少しずつ私に心を開いてくれて、初めて一緒にテーブルについて食事が出来た時は感激して泣いてしまったくらいだ。
「ど、どうしたんですか? クロエ様……僕の顔ばかり見て。もしかしてお口に会いませんでしたか?」
「ううん。ルカはすっかり、どこに出しても恥ずかしくないくらいの素敵なマナーの身についた男の子になったなぁって思って見てたの」
「そうですか? クロエ様に褒めていただけるなんて、嬉しいです……先代様に、騎士にはマナーと礼儀も大事だって言われてずっと頑張ってたかいがあったなぁ」
褒めてもらった、と子犬のように喜ぶルカに私はたまらなくきゅんきゅんしてしまう。
昨日はバタバタしてたから、ルカと再会できた実感が今頃やっと湧いてきた。ルカも同じなのか、お互いなんとなくチラチラ見ながら食事に身に入らなかったせいで自然ととてもゆっくりした食事になってしまう。
なので2人とも食べ終わった頃には、「お城にこれだけ返してくる!」と書類らしきものを掴んだルカが慌てて走って出て行くほど、陽が高く昇ってしまっていたのだった。
ルカが戻ってくるまでの間、私は暇潰しにサマンサさんの手伝いをしつつご夫婦の話を聞いていた。
なんでもお2人は宿屋を営んでいたそうなのだけど。住居も兼ねているその建物を改装作業をする中ある日火事が起きて仕事と住むところをいっぺんに失ってしまったのだそう。
幸い誰かが亡くなる事は無かったが急遽住むところを探さなくてはならなくなったサマンサさん達はとても困ってしまった。そこでこの住み込みの仕事を見つけたのだという。
「だからお貴族様に仕えた事はないのでクロエ様に何かご不便があったらすみません」
「いいえ。そんな事何も。きっと人気の宿屋だったんでしょうね、ご主人の料理はとても美味しかったし、サマンサさんのおもてなしは心地良くて久しぶり昨日はぐっすり眠れました」
「それならよかった」
サマンサさんは聞くと23歳、年齢も近かった私達はすぐに打ち解けて気安い話もするようになっていた。
聞くとやはりお2人だけでこの屋敷を管理するのは大変で、維持するのも追いついてなさそうだ。少し見た限り古い屋敷を買い取ってそのまま使っているように見える。カーペットやカーテンなどの布製品は大分劣化していて、擦り切れている場所も目立つ。そこも含めてかつての実家に雰囲気が似ているが。
とにかく人だ。さすがに2人は少なすぎる。ルカが戻ってきたらその辺について話をしよう。使用人になりたいとは言ってくれるなと頼まれたので、私の仕事についても相談しなければ。流石に弟にずっと養ってもらうわけにはいかない。
「……ご留守ですよ、勝手に入られたら困ります! 勇者様は……」
「ん? 表が騒がしいですね」
「夫の声だわ……何か焦っているようですけど……」
何があったんでしょう、と私達が様子を見に行く前に、重厚なつくりの正面玄関が大きく開け放たれてそこから私が顔を見知っている方達が入ってきた。
「クロエ様、お知り合いの方ですか?」
私が顔を青ざめさせていると、サマンサさんがとても心配そうに尋ねてきた。
あの方達は……公爵家の護衛達。という事は、この訪問の目的は……
「私に何か御用ですか」
サマンサさんの旦那さんを制止すると、私は彼らの間に入った。酔ったお客さんを仲裁できる腕っ節の強さは聞いたが、貴族の護衛に対しては何も出来ない。公爵家ともなると、その護衛も貴族家出身である事がほとんどだ。何かあったらジェフリーさんの身が危ない。
そう言えばこの家には屋敷を守る人間を含めて門番もいない。ルカは英雄と呼ばれるほど強いがやはり必要だろう、これについても伝えないと。
「ああ、クロエお姉さま。いらっしゃって良かった……! 酷いですわ、何も言わずに私のそばからいなくなっちゃうなんて!」
「っ、アイシャ様……」
彼女の顔を見ると喉の奥が締まるような錯覚を感じた。腕を組まれて、細くて小さくて柔らかい彼女の体が私にぴったりと寄り添いそれは更に強くなる。
周りの護衛の方々は私を厳しい目で睨みつけて、それはまるで「アイシャ様にこんな寂しい思いをさせて」と責められているようだった。
「ねぇ、私クロエお姉さまが気にいらないような事を何かしちゃいましたか?」
「そんな……」
「やっぱり、ランスロット様と私が婚約しちゃったからお怒りですよね? ごめんなさぁい、私はクロエお姉さまに悪いからって思ったんですけどぉ……」
ああ、まただ。また。
謝罪しているアイシャ様を許したいと言う気持ちが持てない。
サマンサさんもジェフリーさんも心配そうに私を窺うものの、相手が貴族だと気付いたようでそれ以上何も出来ずにいるようだ。
「ねぇクロエお姉さま、私は急にいなくなった事は怒ってませんから、教会に戻ってきてください。カーラにもお姉さまを尊重させて洗濯や掃除なんかはさせないようにきちんと言っておきますから」
またあそこに戻らなければならない、と意識した途端に呼吸がうまく出来なくなる。私の心は真っ黒に塗りつぶされたみたいに悲しみで覆われた。
「だから……ね? 昨日伝えた通り私の侍女になってくれますよね?」
だって気付いてしまった。心から慕ってくれるルカを見て……アイシャ様が、私に好意なんて向けていないのを。
いや、今まで理解したくなくて考えないようにしていたのかもしれない。それを認めてしまったらもっと苦しくなるからと目を背けていたのだ。
……ああ、アイシャ様は、こんなに蔑みに満ちた目で私を見ていたのか。
悪意は無いのかもしれない。こうおっしゃってくださるのも同情からなのだろうか。その根底にあるものが私への好意ではないだけで。
「すぐ帰りましょう、お姉さま。私クロエお姉さまにご相談したい事がたくさんあるのよ、ランスロット様と出かけるデートでどんな服を着たらいいのかとか、たくさん。ウフフ……」
「申し訳ありません……私は、戻りません」
「え……? ああ、勇者様には後で伝えておくから大丈夫ですよ? クロエお姉さまが望んで私の所にいると分かれば昨日みたいな事にはなりませんわ」
「いいえ、……もちろん、ルカ……勇者リュカーシュ様に何も伝えず行く事は出来ません」
今朝、帰ってくるまで待ってると話した。その約束を破りたくない。けど、何より。
「それだけではなく……私が、ルカの元に居たいと思っているのです」
「何よ、それ……」
「聖女の力を失った私を付き人にして、厚遇していただいた御恩は忘れません。ただ、もうその聖女の名前すら無くなった私は筆頭聖女のアイシャ様のお側には相応しくありませんし……お側にいた時も、私が十分にアイシャ様のお役に立ててたとは思えません」
「私が良いと言ってあげてるのに? どうして?!」
「……申し訳ございません」
首を縦に振らない私の腕に細い指が食い込む。愛らしいアイシャ様のお顔が怒りに歪んでいるのが見えてしまって私は恐怖に震えそうになった。
アイシャ様の護衛の方達からは表情が窺えない角度で、でも眉が吊り上がって鼻に皺が寄ったアイシャ様はたしかに私を睨みつけていた。
こんな……こんな取り柄のない女が離れただけなのに、アイシャ様は何故これほど私に執着されるのだろう。どうしてここまで私を取り戻したがるのだろう。
屋敷に入ってきた顔ぶれから目的が私だとは分かったが、その理由についてはさっぱり分からない。心当たりすら無かった。
「ひどい……クロエお姉さま、どうしてそんな酷いことをおっしゃるの……? そんなに私の事が憎いのですか……?」
一瞬前まで私を睨みつけていたように見えたアイシャ様は、私から一歩離れると宝石のような綺麗な涙をポロポロとこぼしながら泣き始めた。
さっきまでの姿とまったく結び付かなくて、びっくりした私は固まって何も喋れなくなってしまう。
「え……あの……」
「おい! お前、アイシャ様のご好意を無下にするなんて何様のつもりだ!」
護衛の中で一番身分の高い、確か侯爵家の分家の男が私の肩を掴んだ。恐怖で胸の内が支配されそうになるが、どうしても従いたくないと拒絶してしまった私はこの提案を受け入れる事だけはしない。
それに、そもそもランスロット殿下と婚約されるという事はアイシャ様は将来王妃になられる。聖女との兼任だから王妃としての政務は難しいが、それもご実家のバックアップがあれば問題ないだろう。私と違ってアイシャ様はランスロット殿下の名実ともなった妻となられる。
しかし今の私は貴族令嬢とすら言えない身分。伯爵以上の貴族の夫人や令嬢が勤める王妃殿下の侍女は出来ない。昨日私などを侍女にしたいと主張されていたが、いったいどれだけの無理を通されるつもりなのだろうか。
「申し訳ございません、ですがどうかご再考を……痛っ、」
護衛の男に強く掴まれて、アイシャ様の指とは比べ物にならないその力に思わず声が漏れる。しかし身を捩っても逃れる事は出来ない。アイシャ様の涙を見た護衛の男達が私への苛立ちを強めて「いいから連れて行っちまおう」という声にいよいよ焦っていると、アイシャ様が来た時からきちんと閉じる者がおらず半分開いていた玄関から現れた姿があった。
「クロエ様、ただい──何をしている? お前、お前! その汚い手をクロエ様から離せ!!」
「きゃっ……」
つい助けを求めるように見てしまった私は、その後目にも留まらぬ速さで私の横を駆け抜ける影だけを感じた。
比喩ではない、本当に、何かが目で追えない速さで飛んでいったのだけ視界に映ったのだ。私の肩を掴んでいた男は一瞬で壁まで移動して、その胸ぐらを掴んで壁に押し付けているのは……さっきまで玄関扉を開けて立っていたルカだった。