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元々、アイシャ様は私が国一番の聖女だった頃に定期的に治癒を行っていた患者の一人だった。一度治しても元からの体質もあって再び悪化する病気というのは数多く存在する、アイシャ様もそんな病気を患っていたのだ。初めてお会いしたのは私が12歳の聖女になってすぐだったから、アイシャ様がまだ8歳の頃だったからもう8年にもなるのか。
しかし同じような私の担当する患者さんはたくさんいて、治療について必要なやりとりはあったが当時は特別言葉を交わす事はなかったから……こうして気にかけて親しくしていただくようになったのはアイシャ様が聖女の力に目覚めた1年半ほど前からの話だ。
その時にお世話になったからと、たったそれだけの事で今も私と祖父の後見をしてくださってるアイシャ様とそのお父上のフローレンス公爵様には頭が上がらない。
それまでは、彼女が私の事を「クロエお姉さま」と呼んで、こんなに慕ってくれるようになるなんて思ってもいなかった。
父が突然事故で亡くなり、それに合わせて発覚した大量の借金に祖父は体を壊してしまって。その時聖女としての力がどんどん衰えて教会内での立場を失った私は、しかし教会から出て行く事も許されずお祖父さまのろくな力になれなかった。
一番大変だったあの時に、私に唯一残された家族のそばにいられなかった、それについては今でも後悔が残っている。
経営する者のいなくなった領地と潰れた店の後始末をした上で、倒れたお祖父さまを手厚く看護してくれる病院を手配してくださって、アイシャ様とフローレンス公爵から差し伸べられたご厚意は本当にありがたかった。機会があるたびに心から感謝をしているが、返せるものがない私は心苦しいばかりだ。
だしがらになった私は聖女の名はそのままだが、聖女の給与とも言える謝儀は受け取れないので当然辞退している。そのためフローレンス公爵家がアイシャ様の付き人として雇っていただいている給金に甘えさせていただいている状況だ。
それだって今祖父が入院しているひと月の料金には及ばず、フローレンス公爵家が「娘の付き人の大切な家族だから」と特別に計らっていただいているからこそ成り立っている。
18まで聖女の仕事しか知らず、他の事は何もかも半人前な私では教会外に出ては仕事をしてお金を稼ぐことなんて無理な話だろう。
お優しいと言われるアイシャ様のおしゃべりの相手をするだけ。洗濯や掃除は私が事あるごとに勝手にやっているだけだから、本当に仕事内容と言えばそれだけなのだ。
クロエお姉さまにはお世話になったからと、アイシャ様がそう望んでくれたからこんなに優遇された仕事を与えてもらっている。
きっと代わって欲しいと思う人はたくさんいるし、実際他にもっと大変な仕事の方が多いのは世間知らずの私だって分かっている。
なのに……自分はこんなに恵まれているというのに、「できたら違う場所で働きたい」と事あるごとに考えてしまうなんて。私はとんでもない恩知らずだ。
ご友人の聖女様方と違って、アイシャ様だけは私の事をだしがらと呼ばない。だからお優しい方なのに、一緒にいると喉が詰まったような居心地の悪さを感じてしまう。
「ねぇクロエお姉さまぁ、アイシャ、お姉さまの淹れた紅茶が飲みたいなぁ」
「紅茶を……? カーラさんがいますのに……?」
「クロエお姉さまに淹れて欲しいの。でも嫌ならしょうがないです……クロエお姉さまが私のためになんか淹れたくないって言うなら私、我慢しますわ」
「そんな、嫌だなんてめっそうも……カーラさんのような美味しいものは難しいですが、喜んで承らせていただきます」
「わぁい、嬉しい」
妖精のような愛らしいお姿のアイシャ様は天真爛漫で、誰にでも優しく救いを与えるお心も清らかな名実伴う聖女だと皆さまが言う。
同じ女性の私から見ても、とても可愛らしく美しい方だと思う。白金のふわふわの髪、お肌はミルクのように白く滑らかで、長いまつ毛はびっしりとピンク色の瞳を縁取っている。頬は宗教画の天使のように柔らかく膨らみ、まるで紅を指したような艶やかな唇と一緒に目を惹く。
16歳という年齢の、幼さと女性が同居した輝かしい美少女だ。
そんな彼女に両手の指を組んで可愛らしくおねだりされて、断れる人間が存在するのだろうか。
私は専属侍女のカーラ様のような一流の紅茶はサーブできないと前置きをした上で、その場にいる人を数えて、お湯を沸かすために給湯室に向かった。
今は他の聖女の方達も集まって、アイシャ様がいかに素晴らしい聖女なのか、その功績や行いを讃えるいつも通りの茶会の時間だ。
煌びやかなサロンから出て給湯室に入ると、私は誰にも聞こえないように小さく息を吐く。
今日も付き人として、各地で聖女の活動を行うアイシャ様の活躍を誰より間近で見続けている私はその語り部としてあの場に同席していた。……毎日お茶会を開けるのなら、聖女として活動する日をもっと増やせるのではと思いかけてしまった私は慌ててその卑しい考えを頭から追いやる。
2年前までの自分が毎日聖女の活動ができるほど健康で恵まれた体を持っていたからと、お体の弱いアイシャ様に同じ事を勝手に求めてはいけない。さんざん周りからたしなめられたと言うのにまだ無意識にもこんなに乱暴な事を思ってしまうとは。
そもそも私が聖女だった時に、アイシャ様をきちんと治療できてなかったから、アイシャ様はまだ完全に健康なお体を手に入れられていないのだと私こそが責められるべき存在なのに。
私は心の中で強く反省していたところ、火にかけたケトルが立てるシュワシュワという音で我にかえった。
気を取り直して今日使うようにと渡された茶缶を確認するために封を切って蓋を外すと、嗅ぎ慣れない香りがする。
「どうしよう、淹れ方を習ったことのある茶葉じゃない……」
手のひらに茶匙でほんの少し乗せて噛んでみる。香りもそうだが味も私の知らないもので、発酵が強い……そこにわずかに果物のような甘い香りがする以外はわからない。
茶葉は品種によって使うお湯の温度や蒸らす時間が変わるため、これではアイシャ様をはじめ貴族家出身の、アイシャ様と親しくされている聖女の方々のお口に合うものが淹れられない。発酵の強いタイプなら高めのお湯を使うのが普通だが、そもそも普通の紅茶の茶葉じゃないようにも思える。
初めて使う茶葉なら、そう教えてくれれば……そう思いかけた自分をたしなめる。いいえ、確認しなかった私のミスだ。きっとアイシャ様にとっては淹れ方を知っているのが当然で、わざわざ言っておく必要も感じないようなものなのだろう。
カーラさんならきっと世界各国の茶葉の扱いも完璧に出来るのだろうけど、サロンでアイシャ様に給仕されていたから呼び出すのも難しい。
それに今回みたいに普段誇りをもってされている仕事を私が中途半端に手を付けたとお怒りになって、しばらく口を聞いてくれなくなってしまうので助言をお願いするのはどうせ難しかっただろう。
しかしアイシャ様が求めてくださったのに最初から諦めるわけにはいかず、他に茶葉に詳しい方はいないだろうかと給湯室の近くの貴族家出身の聖女様を探して声をかけた。
「あら、もちろん良いわよ。私茶葉には詳しいの」
「ありがとうございます、どうかご教授ください」
快く受けてくれた彼女に感謝して、ほっと息をつく。挨拶くらいしかした事のない方だったけど、こんなに良い人だったなんて。後で改めて何かお礼をしないと。