不穏な気配
カツン、カツン。
石のタイルが敷き詰められた地下室に華奢なヒールの音が響く。
ランタンの中の魔石の放つ灯りがゆらゆらと壁を、床を照らしてゆっくり移動していく。影は3つ、縛り上げられもがき暴れるものと、それを引きずるように前を行くもの。その後ろを背の低い華奢な影がゆったりとついていく。
「精霊さま、精霊さま……新しいお願い事があるの」
通路の突き当たり、扉を開け放った先の祭壇に鈴を転がすような美しい声が奏上する。まるで自分に甘いと分かりきっている父親に、新しいおもちゃをねだるような可愛らしい声色で。
その声に反して願い事の内容はおぞましく、醜悪で、縛られてもがいていた女は顔を真っ青にしてその重大さに気付いて震えている。
『ふぅん、いいけどぉ……対価はそれでは足りないわねぇ』
祭壇のようなものの向こう、黒いカーテンの向こうからギシギシひび割れたような声が鳴る。
その正体に想いを巡らせ、いっそこのまま気絶してしまいたいほどの恐怖を感じているのが見てわかる。
「高貴な血の、魔力の高い生娘よ?」
『意地悪で言ってるのではないの、それっぽっちの対価ではろくな力が使えないわぁ。それとも貴女が大きなリスクを負うなら天秤は釣り合うけど、どうするぅ?』
「……何を持ってくれば釣り合うの?」
『うふふ、私貴女のそういうところ、好きよぉ。自分が一番可愛いって優先順位がはっきりしてるところ』
少し不機嫌さの滲んだ愛らしい声が咎めるように言う。その後ろでは、もがいて逃げようとした女が引きずって連れてきた女に顔を叩かれていた。
『聖女。聖女まるまる一人くらいは対価が無いとその願いを実現させるのは無理ねぇ。もちろん金で買った聖女じゃなくて、正真正銘の、本物の、聖女の力を持った女よぉ』
「仕方がないわね……」
もしかしたら助かるかも、とほっと息を吐きそうになった女は次の言葉で絶望した。
「……この女だけなら、何ができるの?」
喜色の滲んだ気味の悪い声がカーテンの後ろから響く。最初の願いを叶えることに寄与するようなその内容に、「それでいいわ、契約成立ね」とほんの少し機嫌が上向いた鈴を転がすような声が、この場に不釣り合いすぎて。
支払われた代金のように祭壇にごろりと乱暴に投げ出された女は猿轡を外されても大声をだして助けを求める事を忘れて震えていた。
いやこの地下室の奥深くではどんなに音を立てても誰にも聞こえないだろう。
「あ、ひっ、ひぁ……ああ、とうとき、光よ……っ我らを導く、罪とが憂いを……」
『あら、聖歌? ざぁんねん、それ、私にはちっとも効かないのぉ』
「ひっ、ひぃいいっ!!」
カーテンを捲って現れた姿に、女は喉の奥に絡みつくような悲鳴を上げた。恐怖で息も吸えない、本当に恐ろしい時に人間は全身から力が抜けて立って逃げることも助けを求める声を上げることも出来なくなると彼女が身をもって証明していた。
『だってね、私。悪しき「魔」ではないのだもの』
裂けるように開いた口の中には赤い粘膜に真っ黒い歯がびっしりと並んでいる。金色の瞳がランタンの灯に照らされて、宙に浮かぶように輝いて──
「──っ、は……?! は、はぁ……夢……?」
内容は詳しく覚えてないけど、とても怖い夢を見た気がする。暗い地下室を見た覚えだけうっすら残ってるけど……いや、考えるのはやめよう。だって思い出しても怖い想いをするだけだもの。
「はぁ……」
「クロエ様、おはようございま──あれ、何か、顔色が悪いんじゃないですか? 体調が……」
「うぅん、具合が悪いわけじゃないの。ただちょっと怖い夢を見て」
身支度を終わらせて部屋を出ると、ドアの横にいたルカが挨拶をしてくる。それに私も「おはよう」と返しながら、「いつからいたのだろう」なんて思ってしまう。
物音はしなかった。ドアの横に来たのに部屋の中の私が気付かなかったのか、私が起きるずっと前からいたのか。いや、私が気付かなかっただけだろう。
「怖い夢を……? それでどこか顔色が優れなかったんですね……クロエ様、体調を崩す前に大事をとって今日は家にいてください」
「別にどこか具合が悪いわけじゃないんだから大丈夫よ」
また私に対して過保護な事を言い出したルカに私は笑いながらかわそうとするも、冗談ではなく本気だったみたいで苦笑いしてしまう。
「明星の曜日に約束したのを破りたくないわ。お世話になった人たちなの」
「……せめて僕がついて行けたら良かったのに、お城に行かなきゃいけないなんて……」
昨日この件については話し合って納得したと思ってたが、ルカの嘆きを聞くに私につく護衛が男性だと分かってたら賛成しなかったと、駄々っ子みたいな事を言っている。セドリックさんが「護衛ができる女性を手配しておきますから今日ばかりは……」とすかさずフォローしてきて、申し訳ない。
慣れない仕事だから心細いのか、なんだか子供の頃よりも寂しがり屋になってる気がするわ……再会して私も嬉しかったから、構いすぎたのかしら……。
でもルカの冗談を待ち受けるわけもなく、セドリックさんに頼まれたように「自分の事なんだから、ちゃんとお話してらっしゃい。今夜はルカの好きなご飯作ってあげるから」と送り出すと上機嫌になっていた。
……セドリックさんが絶対効果があるからって言ってたけど、オムレツがこんなに効くなんて……お菓子に釣られて変な人についていくような事がないように、一緒に街を歩く時は私が気を付けないとだわ。
たしかルカが今日登城するように呼ばれたのは、先日の「遠征で活躍した褒美何もいらない」発言の収拾をつけると言うものらしい。
ルカがそう言っても何もあげないというのも国として出来ないらしく、でもルカは「爵位とかはめんどくさいし今はいらなくなったから欲しくない」「お金もこれ以上は別に」とそもそも興味がないようだ。
でもルカに褒美を渡さないというのはいくら本人が望んでも、やっぱり国としては採用できない。教会の外の声を聞くと、ルカの人気というのはすっごい高いのだ。そんな事をしたら一般市民から見ると、「魔」の脅威を退けてくれた一番の英雄がないがしろにされているように見えてしまう。
なのでそれについては(何故か)私も話に混じってルカと国の都合のすり合わせに参加した。その結果、報奨金を受け取りはするがそのお金で大掃討の戦地になった元隣国に接していた辺境の地を中心に、復興支援と開発をおこなうことになった。
普通の仕事ができなくなった傷病者の働き口を用意したり、家族のいなくなった子供を保護したり……ルカは「別にいらないお金だから」なんて言ってるけど、人のためになるならってこの大金を一切未練なくぽんと出せるなんて、やっぱり優しい子だと思う。
ルカも昔私の家に来るまでは辛い思いもたくさんあったみたいだから、出来るだけ救いたいと思ってるのかな。
この登城は、あの日全部いらないと宣言してしまったルカに改めて褒美を公式の場で与えるためのものらしい。ルカは私にもついてきて欲しがったのだが、居候でしかない私には当然そんな事はできない。セドリックさんは「いえお付きの人として連絡すれば問題ないので是非」と言われたが、どう考えても急すぎて迷惑だし辞退しておいた。
でも無関係な私用で外出する私にまで護衛がつくことになってしまうとは、なんだか大事だ。勇者の弱点として狙われる恐れがあるから、と説明されたけどやっぱり慣れない。でもルカは優しいから、私が人質にでもなったらとても苦しんでしまうだろう。
ルカのためにも自分の安全をしっかり守らないと。護衛の人の言葉に従えば大丈夫と言われているので、お任せするばかりになるが。
「クロエ様、ありがとうございます。こうしていつもお代もとらずに奇跡を施してくださって、本当に感謝しております」
「そんな、大げさですよ。今の私が治せるものなんて軽い傷と風邪くらいなんですから」
「大げさなんかじゃありません! 軽いうちに治せるからこそ悪化せずに済んでいるんですよ。仕事も休まなくて済むし、毎年風邪を拗らせて亡くなる人はいるんですから」
約束通り治療をしに洗濯場の近くの空き地に訪れた私は治療の他にすでに聖女では無いこと、今はもう教会に所属していないがここで治療をかねた鍛錬を行うことは続けていきたいことなどを話した。
治してくれたのは私だが肩書きは関係ない、と言ってく
ださった方が多くてじーんとしてしまう。
そんなに感謝されると恥ずかしいけど、少しでも力になれるなら良かったとぽかぽかした嬉しい気持ちになった。先週の、感謝されても素直に自分を誉めてあげられなかった私は随分余裕がなかったんだな。
つい先日まで本当に、自分の事が何の取り柄もない役立たずとしか思えてなくて。なのに感謝されてしまうなんて申し訳ないと思っていた。でも今なら「少しだけど誰かの役に立てる力があって良かった」と思える。
「だからむしろお代を取ってくださった方がいいのにって思ってた位なんですよ」
「お代……お金を?」
「そうですよ。タダってのはありがたいですけど、でもクロエ様になんだか悪い気がして……商売としてお金を受け取っていただいた方が、気兼ねなく頼れますから」
「もう教会は関係なくなった訳ですし、これを仕事にしたらどうですか?」
聖女として仕事で奇跡の力は使ってきたけど、力を使った患者から個々に対価を受け取った事の無かった私は今まで全く考えたことのない視点に驚いてしまって。
私はフワフワと「聖女の力を仕事にする」、それについて頭の中で思いを巡らせ始めていた。