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ラインフォード殿下に連れて行かれたリュカーシュの屋敷は何から何まで手が回っていないのが外からも分かった。
庭はさすがにゴミはないが雑草は放置されている。元の屋敷が貴族街の端で買い手のなかったものを廃墟にならないように最低限の管理だけしていたのだからこんなものか。
初めて直接「クロエ様」と顔を合わせて、あまりの普通さにやはりと思いつつこれからの事で胃が重くなってしまう。元筆頭聖女だった彼女の存在だけは一応知っていた。西部に多い黒髪に、複雑な色味の翠の瞳。美しい楚々とした美人ではあるが、それだけ。人が良さそうには見えるが、リュカーシュが「クロエ様」に向けている期待に値するような何かは感じない。
御伽噺の中の「善人」という役か概念上の「聖人」が現実にいたのなら。お腹を空かせた人に自分の食糧を与えて餓死したり、全財産を騙し取られても「それで困っている人が救われるなら」と笑うような、善の尊さを説くフィクションの中の架空の存在ならリュカーシュの怪物を飼いならせたのだろうか。
私が知っているエピソードでは、このリュカーシュという男が「クロエ様」に深く感謝をしてこの人だけ特別扱いする理由になるには薄い。
ラインフォード殿下も聞いていない余程感動的なエピソードがあるのか、あったとしてもそれはリュカーシュの作り出した幻で、理想の「クロエ様」はリュカーシュの頭の中にしかいない可能性が高い。
ラインフォード殿下が「あれを被害を出さずに倒せばお前の尊敬する聖女どのの助けになるぞ」と言葉巧みに転がすところは見ていたが、その聖女が理想と違うと分かってしまって……なんだかこう、そのギャップに「クロエ様はそんな事しない」とかリュカーシュが言い出して今までコントロール出来ていたのも出来なくなってしまう事が私は不安なのだ。
リュカーシュの横で、突然の王子の来訪に困惑している女性を見て私はその思いを強める。この男にすら特別と思わせるような何か……例えば溢れるような慈愛とか、愛情とか、そういった格別した力を期待したがどう窺ってもそんなものはなさそうに見える。筆頭聖女だった頃も含めて特に感動秘話なんて聞かない。あったら教会が利用しそうなものだが。
これはやはりリュカーシュが思い出を美化しているだけか。と、自分の懸念が的中しそうで内心冷や汗をかいていた。
美化であろうと、リュカーシュが「クロエ様」を神のように崇拝しているのは確かなのだ。現にリュカーシュの笑顔を私は初めて見た。その幻想を潰さないように、「クロエ様」にも協力をしていただかないと。
幸い今のリュカーシュは「クロエ様」と再会できた喜びで彼女のやることなす事を喜び全肯定して受け入れている。
……それにしても、実態を知らないから出来るのだろうが、あのリュカーシュに注意したり軽く叱ったりしているアクライア嬢を見ていると見ているだけの私の方がビクビクしてしまう。
リュカーシュの幻想が解けていないうちに周りを固めてしまおう。アクライア嬢本人がうまく演技できなかったとしても、概念上の「聖人」を思わせるようなエピソードを作り出すなんていくらでもわりようがある。
使用人に感謝させたり、「クロエ・アクライア様の指示で」と言わせてリュカーシュを介した形で各方面に援助をしたり、色々。
まずはその前に、リュカーシュの指示した使用人について手配しよう。前回拒否された駒をそのまま使う形でいいだろう、どうせリュカーシュは「クロエ様」以外はまともに認識していない。
軍の計画をリュカーシュに毎回「これで人が助かればリュカーシュのクロエ様も喜ぶぞ、優しい人なんだろう?」などと伝えて、お偉方が協調性のない英雄に対して怒りを向けるのを上手く交わして……常々そうして力になっていたラインフォード殿下を王子と分かっていなかったくらいだからな……
ラインフォード殿下が帰った後、リュカーシュの屋敷付近に待機させていた部下を介して城に連絡してもらう。
急な指示になってしまったがリュカーシュは「帰宅するまでにクロエ様が不便なく暮らせるように」と言っていた。それを反故にする勇気はない。二人の時間を邪魔されそうだと察したリュカーシュの背中から怒りが滲み、「仕事が好きなので是非任せてほしい」なんて心にもない事を口にした私は逃げ出したい本心を必死に抑えて各所の調整をおこなっていった。
人だけではない。物も足りない。消耗品だけではなく家具も。
しかし勇者の屋敷で使うと言えば王宮と取引のある店は喜んで駆けつけるだろうが、私の関知していないところで営業に来られてリュカーシュに勝手に声をかけられては困る。英雄の本性、その事情は全て話せないが余計な事をしないわきまえた業者の中で数時間以内にこちらの要望を叶える手配をしてもらわなければならない。無理を聞かせることになるがリュカーシュは金だけならある、最終的な不満にはならないだろうし、悪いが聞いてもらおう。
問題なのは1日だが先にここで使用人として働き始めている夫婦の事だ。こちらが手配している人員は所属上第一王子の直属、当然皆貴族かその近縁になる。
彼らもプロなのでそこは上手くやるだろうが、このご夫婦が気を揉まないかが心配だ。すでにアクライア嬢とも親しくなり始めているので、後から来た人間が上についたら彼らが遠慮するだろう。
正確に言うと、アクライア嬢と親しくなった夫人の方……サマンサ殿が遠慮するようになったら、それを見たリュカーシュが新しい使用人達に怒りを向けそうで怖いのだ。
……使用人としてここに入れる者たちには素性を隠して民間人のふりをさせても良さそうだな。一応平民を演じさせるとラインフォード殿下にも方針を報告しておこう。
あのリュカーシュの少ない指示から希望を汲み取る形で何とか全て叶えた後、二人は帰ってきた。リュカーシュの本性を知らなければ仲の良さそうな恋人同士の幸せな一幕に見えるだろう。
夕食はいらないと言った通り外で食べてきたようだが、頼みたいことがあると言われてやっと家具の入った執務室で初めて業務の話を行うことになる。
当日中に手配できる机や書類棚を入れただけで、部屋の大きさに合わせてオーダーしたわけではないのでイマイチしっくり来ない。リュカーシュはここで私や私の後任に配属されるだろう秘書が整えた書面にサインをするだけになると思うので、そんな事気にしないだろうからまぁいいか。
アクライア嬢の祖父母の話だと言うそこには当然のように手を繋いだリュカーシュが隣にいて、私は極力そちらを気にしないように必要な確認をしていった。
しかしあんまりしっかりアクライア嬢に向かうと明らかにリュカーシュの目に嫉妬が宿る。なんて物騒で面倒な男だ。業務上のやりとりだぞ。
二人との対話をやっと終えた私は精神的にクタクタになって執務室の隣の部屋に戻った。
そこまで高位の貴族の屋敷ではなかったここは、屋敷の主人の執務室が簡易的な応接室を兼ねている。隣は文官の執務室、そのさらに隣が資料室だったらしい。床と、残っていた古い絨毯の跡から推測した限りだが。
ああ、アクライア嬢が「クロエ様」とそこまでかけ離れた人物じゃなくて良かった。これならそこまでこちらが苦労しなくても「クロエ様」を作り出せそうだ。なるべく協力関係は早めに結びたいが、リュカーシュがべったりで彼女と二人きりになるのはまだ難しいし、しばらくは様子見でいいだろう。
先程聞いたアクライア嬢の祖父母については簡単にだが知っていた。貴族としての家が無くなっているのも。しかし公爵家の後見で貴族御用達の病院に入院してるとは知っていたがラプツィヒ療養院か……ただの口が堅い病院でもあるが、高額で依頼すれば事情のある貴族籍の患者をほぼ監禁してくれる場所でもある。
廃嫡されて病気療養となったご子息だったり、結婚前に男遊びでどこの種かわからない子供を孕った令嬢など、まぁ色々。
ここは背後を調べておく必要があるな。
アクライア嬢を最優先しつつ、リュカーシュの望みを叶えるために立ち回らなければ。お金を使わせたくないアクライア嬢に対してリュカーシュは全力で「自分の思うクロエ様の幸福」を実現したがっている。
アクライア嬢は家賃の安い安全な地域に部屋を借りて、ここすら引き払って祖父母と……と思っていそうだがリュカーシュの望んでいる事は「この家に引き取ってまとめて面倒を見る」だろう。
アクライア家の先代夫婦を他所に住まわせた場合の見舞いに出かける時間すら与えたくないのが見える。
彼女は相手の気持ちを無下にしてまで高価な贈り物を拒否するタイプではないので、アクライア嬢の謙虚さを無視した形で勝手にお祖父様とお祖母様の部屋を用意してしまえば恐縮しつつも最後には受け入れてくださるだろう。
会話から察するに、アクライア嬢のご家族もリュカーシュの本性は知らない。リュカーシュが普通の人間……どころか「クロエ様を慕うルカ」演技をしなければならない相手が増えるほど私達の安全も保障される。これは早急に整えなければ。
好きだと全身で表現して、物を贈って。絶え間なくそんな事をしていなければ離れていきそうで不安だと、そう見える。
あんなに、ラインフォード殿下を含めて周りの人間の反応なんて気にするそぶりも見せなかった怪物なのに。




