第3話、選手選考会で勝てますように、その1
医師は自分の首に絡みついた女性の両手を振りほどこうと試みた。しかし、決して若くはない筈の女性の腕力は恐ろしく強く、男の力をもってしてもビクともしなかった。足で彼女を蹴り飛ばそうにも腹の上に馬乗りに座らており、足が届かなかった。
医師は女性から逃れようと体をひねっったり、上半身を起こそうと試みた。首を掴む力こそ強かったが、女性は小さく軽く、彼女を丸ごと持ち上げることは可能であった。
が、そのたび、体ごと振り回され、床についた手の支えを外された。ものすごい力であった。
遠のきつつある意識の中でもなお、医師はなにが起きているのかを理解できずにいた。まさか自分ほどの人物が、たがが“掃除のおばさん”に殺されようとは……。
***
町田聡子は医師が抵抗をやめぐったりと動かなくなっても尚、念のためそのまま10分間首を絞め続けた。
息が止まる程の強い力を10分も出し続けるなど、男性でもかなり屈強な者でないとできない技である。死体を解剖し死因を特定すれば、聡子などは最初に容疑者から外される筈であった。
何の役にも立たないと思っていた神に与えられた腕力が、まさかこんなことの役に立とうとは……。
***
「なずなちゃんは、力持ちだねぇ」
先月引退した元宮司の佐藤さんが呆れて呻いた。
「任せてください」
高さ1m以上もある菊の鉢を軽々と運びながらなずなはニッと得意げに笑った。
9月9日は、1月1日、3月3日、5月5日、7月7日に並ぶ節句で、菊の節句と呼ばれる。
ここ中山神社でも、今朝は掃除を後回しにして菊祭り(結局、菊を愛でながら氏子と神主が酒を飲み交わすのが主目的らしいのだが)の準備が進められていた。
先月までこちらの宮司だった佐藤さんの指示に従い、たくさんの氏子さんたちが働き、境内に菊の鉢が整然と並べられていく。その横で禰宜の美幸さん(若松夫人)が必死でノートをとっていた。来年は佐藤さんの助けを借りず、若松さん達だけでこの祭りを取り仕切らなければならない。
菊の鉢は大小様々だが、大きなものは普通は男性二人で運ぶものらしい。宮司の若松さんも氏子のおじさん達と組んで鉢を動かしていた。
そんな中、土方風の若い屈強なお兄さんとなずなの2人だけは一人で鉢を運んでいた。屈強なお兄さんはなずなを見ていてプライドに火が点いたようなのだが、なずなとは対称的に顔を真っ赤にし、汗だくになって作業をしていた。
そんなこんなで手が空いているのは私一人であったため、私は若松さんが用意した大量の麦茶をみなさんに配り歩いていた。
私は一息ついたその屈強サンに紙コップに入った冷たい麦茶を差し出した。
「どうぞ}
「お、ありがとう」
「お疲れ様です」
「ねえ、あの子、君の友達?」
別の人にもお茶を配ろうと歩き始めたら、屈強サンに話しかけられた。
「はい。彼女、お父さんはここの宮司さんなんですよ」
「へえ。宮司さんの……あの子はなんであんなに力があるの?」
「あ、そこは気にしないでください」
屈強サンにキョトンとされてしまった。だって、どう説明しろと。
ちなみに話の流れで私も鉢を持たせてもらったが、私の力では鉢はビクともしなかった。
「すごーい! こんなの一人で運んでるんですか?」
私が驚くと、
「いやあ、たいしたことないよ」
とか言いながら、屈強サンは嬉しそうに仕事に戻っていった。
***
前宮司の佐藤さんと美幸さんにも麦茶を手渡すと、美幸さんがふと漏らした。
「あなた達が高校生なら良かったのに」
「?」
たぶん私が不思議そうな表情をしていたのであろう。美幸さんが説明してくれた。
「今、秋祭りを手伝ってもらう巫女さんの相談をしてたの。この近所にはあまり私達、知り合いがいないし、下手な人にはお願いできないでしょ」
「えっ、巫女さんですか? やりたいです!」
自分でも驚くぐらい敏感に“巫女さん”という言葉に反応してしまった。
「こちらのお嬢さんは、なずなちゃんのお友達かな」
佐藤さんが美幸さんに尋ねた。
「はい。あの子が家に来る前からのお友達で、総代さんの姪子さんです」
「おお、それはそれは。……美幸さん、こちらのお嬢さんは逃がしちゃダメですぞ。この子がなずなちゃんと組んでくれれば、鬼に金棒だ」
「はい。もちろんです」
そう言うと、佐藤さんと美幸さんは楽しそうに笑った。
「そういう訳であおいちゃん、労働基準法で中学生にはご奉仕をお願いできないんだけど、高校生になったら絶対うちで巫女やってね。もしも他の神社に浮気したら、おばちゃん泣いちゃうから」
美幸さん、もしかしてもう飲んでます?
「今はダメなんですか。残念」
「ね? 巫女さん、いいよね」
突然、どこからともなくなずなが現れ、会話に加わった。……ちょっと待て、あんたは神様でしょうが。なずなの巫女さんって、なんか立場的にいろいろ間違ってない?
「ほら、花壇に蝶が舞い降りた。蝶は単独で見ても綺麗だけど、花壇に舞う蝶は別格ですな」
佐藤さんが美幸さんに向かって何か変な事を言い出した。
「あら先生、私は?」
「そんな、美幸さんが綺麗なことは言うまでもないじゃないですか。わは。わはははは」
やっぱり、飲んでる……。
「あおいちゃん、あおいちゃん」
なずなが肩を寄せてきた。
アプリを立ち上げたスマホをこちらへ寄せてきたので覗き込むと、巫女姿のなずなが写っていた。ふだん華やかななずながしっとりとした日本女性になっていた。
「かわいい!」
写真をしっかり見たくて、いつの間にか自分の顔をなずなの顔にぴったり寄せていた。なずなの頬は汗で冷えて少し冷たいけどしっとりとして柔らかかった。相変わらず、太陽のような温かい香りがした。この子、本当は狼の筈なのに、なんだろうこのカンペキな女の子っぷり。
「いいな、いいな。なずな、ずるい」
写真1枚で、立場的にいろいろ間違っていることなどどうでも良くなってしまった。
ちらっと横を見ると、なずなは舌を出して笑った。
大人二人も嬉しそうにこちらを見ていた。
「じゃあ、あおいちゃん。2年後はお願いね」
「はい。是非」
そう答えてから、ふと考えた。さすがに2年もなずなはここに居ないだろう。私自身も2年後、“あおい”を続けられてるかどうか……。
時間がこのまま止まってしまえばいいのに……。
***
“このままの時間”の終わりの始まりは、案外早くやってきた。
その日の夕食後、姉の部屋で話し込んでいると、階段を登ってくる足音が聞こえた。続けてドアをノックする音。
なんとなく居間で母と居ると気まずいし、何故か姉が付き合ってくれるので、最近家に居る時は姉の部屋にいることが多い。
「環、入るぞ」
父の声であった。ちなみに環は姉の名前だ。
「どうぞ」
姉が答えた。
「なんだ、蒼も居たのか」
そう言いながら父は姉の部屋に入り、ドアを閉めた。ドアを開けた時、下の居間から母の好きなTVドラマの音が聞こえてきた。ちなみに祖父、祖母は別に居間を持っている。
「若松さんがお前に、秋祭りを巫女として手伝って欲しいそうだ。引き受けるか?」
父は少し酒臭い息で姉に話しかけた。あ、そうか、菊祭りか。
「うん。いいよ」
姉はちらっと俺を見て答えた。さっきまでその話をしていた所だった。
「よし。じゃあ若松さんにはそう答えておく。おまえの電話番号を伝えてもいいか?」
「いいよ」
「ちなみに若松さんの連絡先は……」
父は口頭でいくつかの電話番号を姉に伝えた。職業柄、必要な電話番号は記憶しているらしい。
「あと、蒼にも話があるんだが……お前の部屋に行くぞ」
「お父さん、もしも朝、神社の掃除をしてる女の子が居るって話なら、ここで話しても大丈夫だよ」
姉が言うと、父は目を見開いた。
「なんだ、環も知ってたのか」
「うん、まあ」
「今日、若松さんから俺の姪の話が出た。若松さんは俺の姪にベタ惚れで、すなおで真面目、しかも元気ですごくいい子なんだそうだ」
父に姪などいない。前回紹介した父の弟には一人息子が居るだけだ。
「今朝、菊祭りの準備を手伝った人達にも、俺の姪は一様に評判が良かった」
そして、俺がもしも女なら、この家の相続権は父の弟に渡ることになっていた。なぜなら、父の弟の子が男だから。これが、俺が男でなければならない最大の理由であり、母が神社で男の子の出産を祈った理由だ。
俺は何と言ったら良いか判らず、父から目をそらした。
「やっぱりお前か」
父はため息をついた。
「ごめん」
俺は他に言葉がみつからず、取り急ぎ謝った。
「お父さん、女の子の蒼ってすっごく可愛いんだよ。お父さんも一回見てみなよ。自分にはこんな娘が居たのかって驚くから」
「理由は? 何でそんなことをしている?」
何と説明しよう。つい勢いで……とか、つい楽しくて……など、正直には当然答えられない。
何しろ、危ない橋を渡らされているのは父を含めた家族4人なのだ。特に父と母は何も知らされないまま、いつの間にか危ない橋を渡らされていた訳で、その理由が“つい…”では納得できないであろう。
危ない橋……もしも俺が実は女だということになれば、父は相続権を失い、俺たち4人は今の安泰な生活を失う。最悪の場合、俺が化け物であると世間に認知されれば、両親は相続権が欲しくて化け物を飼っていた最低の夫婦として世の中から居場所を失うリスクまで考えられる。
言葉が出なくて黙っていると、姉が助け舟を出してくれた。
「お父さん、蒼は結構無理して男子をやってるんだよ」
いや、決してそんなことはない。そんなことはないのだが、説明としてはその方向で行くしかないかなぁ。
「あともう一つ。お前が仲良くしているらしい若松さんの娘には、お前のことをどう説明してあるんだ?」
父は更に答えにくい質問をぶつけてきた。
「たぶん蒼は知らないと思うが、あの子はつい最近宮司さんの養子になった、言い方は悪いが、どこの馬の骨とも判らない子だ。あまり信用するのは危ないぞ」
そうだよな。事情を知らなければ、そうなるよな。
姉を見ると、姉は笑顔でうなずいた。洗いざらい、全部話しちゃいな、という意味だろう。
「ごめん。なずなのことは今は話せない。ただ、あいつは信用できる。これだけは信じて欲しい」
自分で言いながら、自分で『だめだこりゃ』とツッコミを入れてしまった。全然回答になっていない。なにかもう少しまともな説明はできないのか、俺は。
それでも父は黙って俺の話を聞いてくれていた。
「あと、父さんと母さんを一緒に危ない橋を渡らせてしまったのは悪かった。謝る。もう女性化はしないよ」
そう言った瞬間、頭に衝撃が走った。バサッという音からすると、姉が本かノートで俺の頭を叩いたようだった。
「親の前でいい子になってんじゃないよ! 『もう女性化はしないよ』なんて、蒼がそんな簡単に言える言葉なの?
あんた、1年半前、泣きながらこの部屋に来て、女物の制服を貸してくれって私に頼んだよね。私はあれがあんたの本音だと信じたから、いろいろと……そんな簡単に、姉が弟に自分の服を貸すと思う?」
姉がこの場に居てくれて良かった。俺は心から感謝した。
「そうか……」
父が、つぶやくように言った。
「……」
俺は、なんと言ったら良いか判らなかった。
「ただ、あの若松さんのはしゃぎ様からして、親父にこの話が伝わるのは時間の問題だな。環……」
「私は大丈夫」
姉が、さらっと何でもないことのように言った。そんな……。
「そうか。じゃ、後はお母さんだな。蒼、今から一緒に下に行って、お母さんに土下座するぞ」
「ちょっと待って」
姉が父を止めた。
「そんなことしたらお母さんまた気が狂っちゃうよ」
「環……」
父は何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「ねえ蒼、なずなちゃん何かいい知恵貸してくれないかな?」
姉が言った。
「そうだ。蒼、その若松さんのお嬢さんはどう思ってるんだ?」
父がさっきの質問を繰り返した。
どう言い訳けをしよう。どうしたらなずなに最も迷惑をかけずに済むか……。
必死に考えていると、俺のスマホが鳴った。なずなからだった。
「ごめん、今とり込んでるからかけ直す」
「お父さんに替わって」
どうやら俺達の会話を聞いていてくれたらしい。たまに、頼りになる神様である。俺は父にスマホを差し出した。
「本人が父さんにって」
「本人?」
父は不思議そうに俺のスマホを受け取った。俺のスマホはあまり高級でない為か、音がダダ洩れである。
「もしもし…なずなです。先ほどは通り一遍の挨拶で失礼しました」
「あ、ああ、なずなちゃんか。さっきはお手伝いありがとう」
父は冷静を装おうとしていたが、動揺は隠せなかった。そりゃそうだろう。普通ならこんなにタイミング良く電話が入ってきたりしない。
「あとそれから、あたしが生まれた15年前、貴司さんはわざわざ川崎からあたしの『御産立』にご参加頂いたんですよね。今更ですが、ありがとうございます」
貴司は父の名前だ。又、御産立とは狼のお産見舞いで、狼のお産の鳴き声を山に暮らす百姓が聞きつけ、寺社に知らせてお産のあった場所に供え物を捧げる、狼信仰に関連する古い風習……だ、そうである。(あとで父に教えてもらった)
父は言葉が継げず、黙り込んでしまった。なずなの、なんだかんだ言っても少女の声質と古臭い因習の話の間には、大きな違和感があった。それよりなにより、話が飛びすぎである。
「申し遅れましたが、あたしは貴司さん達に毎春、御嶽講で参拝頂いている大口真神社の狼です。14年前に母の後を継ぎました」
父の顔色が変わってくるのが判った。酒の影響もあり赤みがかっていた父の顔が、蒼白に変化していた。
「あと、蒼くんですけど、奥様と『蒼くんは神様からの預かり物』ってお話をされていますが、それは違います。蒼くんは間違えなくあなた方の次女です。
あたしは蒼くんに男の子になる能力を与えただけです。男の子になるか女の子に戻るかは蒼くん次第ですが、彼女は今、自分の意志で男の子をやってます。あたしが言っていることの意味、解りますよね」
父は、なずなの問いかけには答えず、ただ固まっていた。
そうだよなぁ。急に近所の女の子が『私、神です』と言い出したときに、簡単に『はい、そうですか』と飲める人はいないよなぁ。
「あの、あんまり緊張しないでください。肩、こってますね」
父の背中の方からかすかな衣擦れの音が聞こえ、父の顔にじんわりと血の気が戻ってきた。遠隔肩もみ? 相変わらず何でもありの神様である。
「あ、ありがとう……ございます」
「あの、敬語はやめてください。神として祭っては頂いてますけど、しょせんは15歳のちょっと魔力を持っているだけの狼ですので」
変な謙遜である。魔力を持った狼って、十分凄いと思うけど。
それよりなずなって、俺より1歳しか年上じゃなかったんだ。もっと全然上だと思ってた。
「それから、蒼くんは、本人は自覚していませんが男子を続けることでストレスが溜まっています。なので最近、半強制的に女子化させることでガス抜きをしています。無断で蒼くんをお借りしちゃってすみませんでした」
「蒼を、よろしくお願いします」
父はまだ茫然としたまま、その中で一生懸命言葉を紡いでいるようであった。
姉が俺に耳打ちした。
「あんたの女服持ってきな」
***
俺が着替えを持って姉の部屋に戻ると、扉の前に父が立っていた。
「環に部屋を追い出されたよ。部屋の前で待ってろって」
そう言いながら、父は俺にスマホを返してきた。
「あと神様は、お前がお母さんに説明してくれるだろうと言ってたけど、大丈夫か?」
……あの野郎。
「うん。ありがとう」
ここはそう答えるしかない。俺はスマホを受け取り、姉の部屋に入った。
「ほら、とっとと着替える」
部屋に入るとさっそく姉がせかした。
「お姉ちゃん、あの……」
一応今、女同士と呼べる状態にはしたが、やっぱりジーっと見られているのは、ちょっと……。
「しょうがないなぁ。お姉ちゃん後ろ向いてるから早くしなさい」
「あの……ありがとう」
「いいから、早く」
着替えは、最近一番のお気に入り、リボンのワンピースを持ってきた。急いで着替えると、姉が服の乱れや髪の乱れを手際よく直してくれた。
「お父さん、いいよ」
姉が扉に声をかけた。
扉を開けて入ってきた父は……生まれてこの方、私には見せたことのない優しい笑顔を見せた。男親はなんだかんだ言っても息子よりも娘の方が好きなのかもしれない。
「はい。お父さんの娘です」
姉が言った。
「お父さん、あの……」
さて、私はここで何と言うべきなのだろう。
「……手間のかかる娘ですが、今後もよろしくおねがいします」
あれ、お父さん泣いちゃった。なんで?
***
もちろん、このあとなずなには改めて電話を入れた。
「『神様は、お前がお母さんに説明してくれるだろうと言ってた』って、どういう事だよ」
「ゴメン。お父さんに何かカッコ良いこと言いたかったんだけど、何も思いつかなくて、つい……。蒼くんなら何とかしてくれるかなって」
神様の御言葉とは思えない返事が返ってきた。大口真神社を心から信奉している父には聞かせられない……。
***
「でね、男に戻ってもお父さん優しいの。なんか気持ち悪い」
例によって朝の神社掃除である。
今朝は一方的に私がしゃべっていた。昨夜の電話でも話しまくったのだが、伝えたい事柄が多すぎて、それだけでは伝えきれなかった。父が理解を示してくれてホッとした事で、いままで我慢していた何かが切れた感じだった。
今朝のなずなはお姉さんモードで、ニコニコしながら私の話を聞いてくれていた。
「あとあの『神様は、お前がお母さんに説明してくれるだろうと言ってた』だけど、あの後考えたんだけど、やっぱりなずなの言う通り私が自分で説明すべきだと思う。結局私がこのあとどう生きていきたいかってことだもんね」
「でしょ。やっぱり」
ホントにそう思ってた?
「あ、ごめん。今日は急用があったんだ。悪いんだけど、ほうき片づけておいてもらえる?」
私はまだ話したいことがいっぱいあったのだが、なずなは突然私の話を遮り、ほうきを手渡してきた。
「え?」
「あと、ほうき片づけたら今日はそのまま帰っちゃって。じゃ、また学校で」
何? この態度の急変。
「こらこら、ちゃんと理由を説明しなさい。もしかしたらあの人?」
私は参拝を終えて帰ろうとしている女性を指さした。
彼女は、私達が掃除をしている間中、拝殿と鳥居の間を何度も往復し、何度もお祈りをしていた。たぶん、お百度参りというヤツだ。
「おはようございます」
と、私は声をかけてみたが、完全にスルーされた。あとでなずなに聞いた所では、お百度参りの間は口をきいてはいけないのだそうだ。
「へぇ、あおいちゃんにしては珍しくカンが……」
むっ! なずな、私の評価低すぎ。
「……ごめん。あおいちゃんの言う通りなんだけど、あの人は危ないから、今日は帰って」
「お断りします。参拝の人と会うときに付き合えって言ったの、なずなじゃない」
「もう……、しょうがないな蒼くんは」
なずなは肩をすくめた。しかし、蒼くん……ま、いいや。
なずははその参拝者を集会所に案内する、という話だったので、私は急いで掃除道具を片付けると、集会所に向かった。集会所は、玄関を上がると20畳ほどの部屋があり、その奥に簡単な調理室とトイレだけを備えた簡素な建物である。直会と称する神社の飲み会はほぼ毎回ここで行われる。
集会所に行くと、なずながその女性に座布団を勧めている所だった。
部屋にはなずなと女性しか居なかった。内緒話をするには絶好の部屋である。
「あおいちゃん、お茶淹れて」
集会所の玄関を開けるとなずなに言われた。
「はーい」
実は子供の頃から氏子の掃除会でこの建物は年中掃除していたので、私にとっては勝手知ったる台所だったりするのである。やかんに水を入れて火にかけると、なずなと参拝者の会話が聞こえてきた。
「この辺の人達は、小さな普段のお願いはこちらの神社で、大きなここぞというお願いは御嶽山の上のにある神社にお願いするんですよ」
参拝の女性がなずなに説明していた。30代ぐらいでちょっとくたびれた感じの、でもごく普通の女性である。なずなが言うような危険な感じは全くない。
「でもお百度参りって、ここぞというお願いをするものですよね」
どうやらなずなは、今のお参り何ですか、教えてください……とかなんとか、無知で無邪気な中学生を装って、女性を集会所に誘ったようだった。
「ううん。今日のは本当につまらないお願いなの。ちょっと朝早くて時間があったから、何回か往復してみただけ」
「ちょっと時間があっただけで98回も往復されたんですか?」
すこし間があった。
「100回ね」
「いいえ98回でした。あと2回あるなぁと思ってたら、町田さんが帰り始めちゃうんで、慌てて呼び止めたんですから」
また、少し間があった。
本当は音を立てたくなかったが、茶筒を開ける際、ポンッという間抜けな音を立ててしまった。
「あなた、誰?」
「自首してください、町田聡子さん。あなたの今日のお願いは、次も殺人を成功させて欲しい、でしたよね。
神社の神様は、そういうネガティブなお願いは聞かないんですよ」
このなずなの言葉の直後にドサッという、重たい物が床に倒れた音がした。
「無駄ですよ、町田さん。あなたにあたしは殺せな……」
再び、沈黙が訪れた。
会話だけ聞いているとどうもこの町田という女性、なずなの正体を知らないで無駄な抵抗を始めたらしい。人間が神にかなう筈はないのに。
ただ、話がこうなってくると、お茶を淹れても誰も飲まないな。
私は確認の為部屋を覗き、驚愕した。
先ほどの女性が狼の首を絞めているのである。狼は苦しみ、前後の足を空中でバタバタ振り回していた。
「死ね、化け物」
女性のつぶやきが聞こえた。
私は咄嗟にお湯の沸いたやかんを手に持ち、二人のそばに駆けつけると、お湯を女性にぶちまけた。
「あちっ!」
女性の握力が緩んだすきに狼は女性の手を振りほどいた。とっさに女性が5mほど後ろに飛びずさり、狼と私は女性とにらみ合う形となった。
女性はじりじりと後ろへ、集会所の玄関へと下がっていった。が、狼の側にそれを阻止する気配はなく、ただ女性を睨みつけているだけであった。私は……間抜けなことに、やかんを持って、変な構えをしたまま固まっていた……んじゃなかったかな。よく覚えてないけど。
女性は玄関へ到達すると、そのまま凄い勢いで逃げていった。
女性の足音が十分遠ざかるのを待って、私はやかんをテーブルの上に置いた。
「なずな、大丈夫?」
私は狼を抱きしめた。
狼は人間の娘の姿に変身し……つまりいつものなずなに戻り、私の胸に顔を埋めた。
「怖い。怖いよ。怖い。蒼くん、怖いよ」
なずなの話では、狼は山ではどんな魔物よりも強い存在であるとのことだった。なずなはこれまで自分より強い者に出会ったことはなく、そんな者が存在するとすら思っていない筈であった。ましてや殺されかける経験など皆無な訳で、なずなが今感じている恐怖は容易に想像がついた。
なずなが肩を震わせていた。こんなに弱々しいしいなずなを見るのは初めてだった。私はなずなを強く抱きしめた。
それにしても、あの町田という女性の力は元々なずなが与えた力だった筈。なのになぜ本家のなずなより力が強く、かつ、なずなが取り消すこともできず、更にはなずなのいつもの遠隔力も彼女には効かなかったのは何故であろうか。