第4話、みんなが幸せでありますように、その8
私は消火器を投げ捨ると、なずなに正面から駆け寄った。
傍に寄ると、なずなの周りで燃え盛っている炎は、概念や映像としての炎ではなく、正真正銘本物の炎であることがその輻射熱で実感させられた。近づくと全身が、とくに衣服を着ていない顔が、熱い、を通り超して痛かった。
私は痛みに構わず、そのままなずなを抱きしめた。なずなの全身は、真っ赤に焼けた鉄の塊のようであった。
自分の肉が焼けるにおいがした。全身の痛みを伝える神経が、これでもかとばかり、その伝達容量を100%使いきって痛みの信号を脳に伝達していた。こんどこそ本当に死ぬかも、と思った。
「蒼くん……」
なずなの声が聞こえた気がした。私もなずなに呼びかけたかったが、息をするのさえ苦しく、とても声など出せる状態では出なかった。
突然、私達の上に水が降ってきた。水は焼けただれた私達を冷やし、あっというまに護摩木の炎を鎮火した。
消火栓のホースで遠くから我々に水をかけていたのは、姉であった。姉は今日、社務所の方で御札の奉納などのご奉仕――平たく言えばお守り販売のバイト――をしていたが、騒ぎを聞いて駆けつけてきてくれたらしい。
男の一人が火の着いた護摩木を姉に投げつけると途端に姉の巫女装束が燃え上がった。姉は消火ホースを手放し、境内の砂利の上を転がって服の火を消した。消火栓のホースが暴れ、境内にいた人々を濡らした。
この間に私の呼吸は急に楽になった。なずなが私の胸に手を当てていたので、なんらかの治療をしてくれたのだと思う。その時のなずなは、あの綺麗な顔、引き締まった全身の至る所が焼けただれ、血が滲み、でも凛として美しく、やっぱりこの子は神様なんだと実感した。
水が降りかからなくなると、濡れている筈の護摩木の破片が再び燃え上がり、私達は再び炎に包まれた。首だけ振り返ると、男達が火の着いた護摩木を手にしており、再び私達に投げてよこす構えであった。
「やれるもんならやってみなさい」
ほぼ条件反射で私は叫んでいた。言葉が勝手に口を突いて出る感じであった。
「この子はともかく、私は戸籍も住民票もこの川崎にある人間です。私を燃やしたらあなた達は法律上も立派な殺人者ですよ。証拠の映像もここに居る皆さんが撮ってるし」
私がそう言うと、何人かの人がスマホを取り出し、私達や男達を撮り始めた。もちろん中村はバッチリ最初から私達をビデオ撮影している。
「あなた達もそれそれ社会的な立場がありますよね。大切な人……中には奥さん、お子さんがいる人もいるんじゃないですか? みんな、あなたが人殺しになっても平気ですか?」
男達が攻撃を躊躇したのが判った。
え? こんな言葉が効くの? と、逆に私が驚いた。
***
「柿沼、後、撮影任せていいか?」
中村が柿沼に言った。
「ホントは私も行きたいんだけど、誰かが記録しないとね。わかった、行ってらっしゃい」
柿沼に見送られて、中村は私達の方へ駆け出した。
***
「なずなちゃんの傍、行かない?」
彩ちゃんが、井上の頬を濡らしたハンカチで冷やしていた藤田さんに声をかけた。
「だよねー」
藤田さんが答えた。
***
「あおいさん、俺も一緒にここに居るよ」
といって中村が私の隣に来てくれたのを皮切りに、私となずなが関わった人々、氏子の人達やクラスメートがぞろそろ私達の周りに集まってくれた。護摩木の火はかなり衰えたとはいえ、結構熱いのに。
若松さん、美幸さんも来てくれた。なんと、私の母まで加わっていた。
祖父と祖母は、打ちどころがそんなに悪くなかったらしく、元々倒れていた場所で上半身だけを起こして事態を見ていた。
なずなを燃やすためには、ここに集まった30人ぐらいの人達を巻き添えにしなければならない。さすがにそれはこの男達にも無理であるようだった。
「いいのか、お前たち。そこにいる女は人間じゃないんだぞ。正体は判らないが、少なくとも魑魅魍魎の類だぞ。そんなものをお前たちは命がけで守るのか?」
男達のリーダーとおぼしき内藤が言った。
なずなが何かを言い返そうと息を吸ったとき、
「いいえ、なずなは私の娘です。あなた達に手出しはさせません」
美幸さんが言った。
なずなが息を吸ったのまで分かったのは、私がなずなをまだ抱きしめているからだ。なんで抱きしめたままかというと、現状のなずなはほぼ服が燃えてしまって……要は全裸で、とても手放せないというのと、私自身も結構服が燃えちゃって離れられなくなっちゃったというか、なんというか。
「人間じゃなくたって、若松は俺達の仲間だ。お前らはとっとと立ち去れ」
祖父と同じようにその場で動けず座り込んでいる井上が叫んだ。私は初めて井上をカッコいいと思った。
どこからか、綿生地のワンピースが回ってきた。
「はい、男性は後ろ向いてくださーい」
クラスメートの女子軍団がその場を仕切りってくれた。なずなと私は頭からすっぽりそのワンピースを被った。とりあえず、助かった。
被った後、そのワンピースをパンパン叩くと、ボロボロになった巫女服の破片が裾からいくつも零れ落ちた。なずなは意に介さないようであったので、私はなずなの分もかき集めた。だって、黒コゲ血染めの下着だったりするワケで。
藤田さんが手伝ってくれて、その破片をゴミをまとめたビニール袋に詰めてくれた。こうして結局、本番の舞の前に巫女装束はソースまみれになったのだった。
「ありがとうごさいまーす」
なずなが、人々の後ろの方に居る八島さんに手を振っていた。私も八島さんに頭を下げた。
「これ、八島さんの?」
私は小さな声でなずなに聞いた。
八島さんは……ちゃんと年齢を聞いたことはないが、70歳近い筈の女性である。ちょっとこういう、若干体形を選ぶ系の服を所有しているとは思えない。
「今日の昼間、駅前でフリマやってたの知ってる?」
話には聞いていたが、今日はそんな所に行く余裕は無かった。
「そこで八島さんが私達に買ってくれたの。今日、必要になるような気がするって」
え? なずな、八島さんとフリマ行ったの? いつの間に?
「詳しい話は後で」
……良く判らないが、とりあえずこれで私も周りを見る余裕ができた。振り返るってみると、男達はやはり動揺していた。
「内藤さん、これは我々の負けです。少なくともここに居るのは、我々が退治すべき魔物じゃないってことですよ」
「しかしそれではあまりに話が違うぞ」
「考えてみると、本当に魔物だったら、あんなに正々堂々と我々の前に現れませんよね。我々より圧倒的に強い訳でもないのに。
強い誇りが、ゲリラ戦をあの子に許さなかったんじゃないですか。あの力で姿を隠したまま攻められたら、我々は間違えなく全滅してましたよ。
我々はとんでもない存在に手をかけてしまったのでは……」
「改めて自己紹介します」
なずなが再び通る声で言った。
「あたしは御岳山山頂の大口真神社に祭神としてお祭り頂いている狼です。名前はナズナと言います」
うわ、言っちゃった。この大群衆の前で。何よりも若松さん達の前で。
大半の人はなずなが何を言っているか判らずポカンとしているようだったが、一部の人はなずなに手を合わせていた。御岳講のメンバーだ。
前にも書いたっけ? この地域では毎年春になると人々が集まり、代表者数名を決め、その人達が御岳山を参拝する(代参と呼ばれる)。そして、その人たちが持ち帰った狼の描かれた御札を各家の玄関前に掲げる。……実際には家によりいろいろな所に掲げているが、玄関前が正式らしい。これを御岳講という。
なんで全員で行かず代表者かというと、結構金がかかるからだ。単に日帰りで参拝する訳ではなく、宿坊と呼ばれる御岳山山頂の宿に宿泊し、御師と呼ばれる人の案内で参拝するのが正式ルートだ。宿泊するからには当然、直会……宴会も伴う。
岩倉家はこの御岳講の講元も務めている。というか、中山神社の氏子と御岳講のメンバーはほぼ重複している。
この御岳講は、神奈川、東京、埼玉、千葉の至る所にあるが、川崎は特に多いらしい。それはおそらく、御岳山を含む奥多摩地域がこの地域に恵と災いをもたらす多摩川の水源のお山だからだ。
だから大口真神社の名前は、この地域の人達には絶大だ。祖父は事態が呑み込めずポカンとしていたが、祖母と母もなずなに手を合わせていた。舞の師匠である佐々木さんも八島さんも手を合わせていた。
が、誰よりもなずなの告白に動揺していたのは、さっきまでなずなを退治しようとしていた男性集団であった。全員顔色が青ざめ、一斉になずなに対して土下座をしていた。
「失礼しました。まさかこんな所にオイヌ様がいっしゃるとは思いませんでした。この罪はどう償おうにも償いきるものではありません。どうぞ何なりと罰をお与えください」
内藤が震える声で言った。
「え? え? なんでそうなっちゃうの?」
大口真神社の名前の威力に、逆になずなが動揺していた。
「我々山伏はお山の力を頂いて修行を行う者。そのお山のご眷属様に害をなすなど、絶対にあってはならないことです。殺されても文句は言えません」
「なずなさん」
佐々木さんが口を挟んだ。
「あなたがもしも本当に大口真神様なら、ご自分のお立場をもっと自覚なさるべきです。
オオカミ信仰は、日本のこの辺り、現在の地名で言えば、群馬、栃木、埼玉、長野、東京、神奈川といった地域で古代より脈々と受け継がれ、深く根付いた信仰です。
古代、というのは決して誇張ではなく、発掘調査によれは縄文時代には既に二ホンオオカミの牙や手足の骨など身体の一部をお守りとして身につける風習があったといいます
狛犬は通常ライオンをモチーフとしてますが、これが狼になっている神社がこれらの地域には点在していることも、オオカミ信仰の根の深さを示しています。
それでいて信仰形態は地域によりバラバラ、お札に描かれるオオカミ像も怖かったり可愛かったりと統一感はありません。
これらのことは、オオカミ信仰が上から与えられたものではなく、民衆の間から自然発生的に湧いたものであることを示しています。
すなわち、オイヌ様は人々が求める日本神道本来の意味での神の一人です。しかもオイヌ様は山の象徴であり、実質的に山岳信仰者の信仰対象そのものです。この者達が恐れおののくのは当たり前なのです」
「佐々木さん! あたしは…… 判りました。ありがとうございます。とにかくみなさん、頭を上げてください」
なずなが言うと、男達が頭を上げた。
「私は14年前に母から大口真神を引き継ぎました。しかしすぐに、自分はあまりに何も知らないことを自覚しまして、我儘言ってこちらで勉強させて頂いています」
言いながらなずなは男達の集団の後ろまで歩き、未だに身動きできない最初に倒した男二人のうなじに順番に手を当てていった。なずなが手を当てると男達は起き上がり、その場でなずなに頭を下げた。
「……そうだ、あなたの姿を見たとき、すぐに思い出すべきでした」
突然、内藤が語りだした。
「私が青梅の山奥で修行をしていた20年前、山に似合わない垢ぬけた、西洋人形のように美しい女性と出会ったことがあります。綺麗なのに気さくで、優しくて、ちょっと抜けてて可愛い所もあり、恥ずかしい話ですが私はその方にすっかり夢中になってしまいました。
もう一度会いたくて、本来歩かなければならない修験道を外れて何度も同じ道を歩いたのですが、その後二度とその方に会うことはできませんでした。
あなたはあの方と雰囲気が似ている。私は先代の大口真神様とお会いしていたのかもしれません」
「母は、あんたはやっちゃダメよと釘を刺しながら、若い登山者や山伏をからかって遊んだ話をよくしていました。山の中は楽しみがあまりないもので……ごめんなさい」
内藤は少なからずショックを受けているようだった。血は争えん。
「一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
内藤の横の男が言った。
「何でしょう」
「こちらの神様にN先生が脅されたと○○庁で伺ったのですが、本当でしょうか?」
「その前にまずは、あなた達が○○庁でこの神社について何を聞かされたのか教えて頂けますか? Nと直接話をした訳ではないのですか?」
なんか、なすなっぽくない。妙にカシコイ話の運び方である。
もしかして……と陽菜ちゃんを見ると、私と視線が合った瞬間、陽菜ちゃんがウインクをした。
あんなにイヤがっていたなずなの読心を受け入れたらしい。さすが陽菜ちゃん。
……に、しても、陽菜ちゃんもウインク上手だな。私もやっぱり練習しよ。
「いえ、N先生には直接お会いしていません。
○○庁ではこちらの神社は現在魔物に乗っ取られている、または祭神が元々魔物で、最近本性を現したのではないかと言われています。
氏子達に反神道精神を吹き込み、○○庁の指示には一切従わせず、少し強めに指導すると、その魔物が○○庁のトップの一人であるN先生を暴力で脅してきた、とのことです。
その魔物の脅し方が正に悪魔的で、最初に先生の指の爪を一枚づつ剥がし、次に指を一本づつ引きちぎり、しまいに手を千切り、腕を千切った後、これらを修復して暴力の証拠が残らないようにしたそうです。さらにこれだけでは飽き足らず、お腹を切り、腸を引きずり出して踏んだり蹴ったりした後、再び腸を腹の中に戻して再び証拠が残らないようにした、とのことです。
その魔物はこの日本の滅亡を望んでおり、天皇をさんざん侮辱した、とも聞いています。
このままこの神社を放置すると反神道精神を周辺に広げ、最終的には本当に日本は滅亡してしまうかもしれない…… というのが、我々が○○庁で伺った話です。
権威ある省庁がわざわざ我々に魔物退治を依頼し、説明してくれた内容でしたので、まあ日本滅亡はともかく、退治すべき妖怪の類が住み着いてしまっていることは間違えないだろうと、つい頭から信じてしまったのですが……実際は何が起きたのでしょうか?」
「こちらの氏子さん達は、信仰に政治が絡むのを嫌っています。いえ、信仰以前に、この神社は近所の人達が集まる場なので、意見の対立を呼ぶようなものを持ち込みたくない、でしたっけ」
氏子のベテラン組何人かがなずなの言葉にうなずいた。
「問題の発端は、こちらの選挙区から立候補しているSがNに、こちらの神社で秋祭りの日に演説会を行いたいと依頼してきたことでした。Sの所属する保守系与党に恩を売りたかったNは、こちらの神社に確認することなくその依頼を承諾してしまいました。
Nとしては、地方の小さい神社は当然○○庁の指示に従う物、という思いがあったようです。
それでも一応念のため、絶対にSの演説会を断れないよう、○○庁の維持審査の条件として、Sの演説会を中山神社に押し付けてきました。
ところが、Sの演説会は絶対に受け付けられないとした中山神社……こちらにいらっしゃる氏子のみなさんは、○○庁からの分離、独立を選んでしまいました。
慌てたNは、まずはこちらの総代の稼業を妨害する形で圧力をかけてきました。そしてそれが効かないとみるや、やくざ者を雇い、暴力により圧力をかけてきました。地方の神社ごときがNに従わないことがSの所属する政党に伝わってしまいますと、○○庁の権威が落ちてしまう、と思ったのだと思います。あるいは面子の問題だったかもしれません。
そのあたりまではそれぞれあたしもお手伝いして個別に対処してきたのですが、最後にNは、こちらの宮司ご夫妻の実家の神社の人事を脅しのネタに使ってきました。こちらの宮司の奥様のお父さんは別のもっと大きな神社の宮司なのですが、宮司を首にすると言い出したのです。
そこであたしがキレまして……その……あなたが〇〇庁で聞いた方法で、中山神社にちょっかいを出すのはもう止めなさい、とNを脅しました。
その際何故か、Nと天皇制についての議論になりまして、Nがこの日本という国が生まれて以来、ずっと2000年以上天皇が日本のトップだった、なんてことを言うものですから、現在の天皇制は薩長同盟が明治維新の道具として作ったものじゃないですかって言い返したのですが、そこはずいぶん歪んで伝わっているようですね」
なずながそう言うと、突然内藤が笑い出した。
「いや、お若い。あなたが皆さんに慕われている理由が判りました。
ただ、あなた自身先ほどおっしゃっていたように、もう少し人間について勉強された方が良いようですね。N先生のような方に、天皇制は薩長同盟の創作物、なんて言っちゃダメですよ」
そういうと、内藤はまた笑った。
「たぶんあなたが直接Nに会い、ご自分の正体を明かされれば何も脅さなくてもNはあなたの言うことに従ったと思いますよ。
我々山岳を信仰する者にはあなたの一族は絶対的な存在ですが、神道に関わる者であれば誰でも一目をおくべき存在ですから。
とにかく、この場は私が全面的に悪かった。謝ります。
神様は私を断罪してくださらないようだから、みなさんが私を断罪してください。
今、我々が殴った方、特に御高齢の方は、骨折させずに脳震盪を起こすぎりぎりの加減で殴った筈ですが、これによる医療費、および慰謝料は私に請求してください。焦がしてしまった拝殿の修理費も持たせて頂きます。
あと、○○庁には私の方から、こちらの神社にはオイヌ様が関わってらっしゃるから失礼なことをしてはいけないと説明しておきます」
そういうと内藤は再び土下座した。
パトカーや救急車等、複数の緊急車両が神社に近づいて来る音が聞こえた。
「ところで、なぜあなたはこちらの神社を選ばれたのですか?」
最後に内藤がなずな聞いた。
「それは……」
なずなが回答を躊躇していると、
「愚問……でしたね」
内藤が私を見ながら言った。