第4話、みんなが幸せでありますように、その5
Nは自宅の書斎で牛丼を食べながら、部下に作成させた夕方の会議で使用する資料に目を通していた。
書斎は8畳ほどの小さな部屋である。中央に大き目の机が置かれ、机を挟んで窓側にNが現在座っている自分用の椅子が一脚、入口側に来客用の椅子が2脚置いてある。部屋の左右は本棚、入口のドアの脇にはサイドボードが置いてある。
サイドボードの上は、右端のドアに近い側にコーヒーメーカーと砂糖と粉ミルク、左端にはプラスチックケースに入った市松人形――振袖を着た幼い女の子の人形が置いてあった。
Nがマウスで画面をスクロールしていると、部屋の奥でかたん、という音がした。Nが画面から目を上げると、部屋の奥の市松人形が自分でプラスチックケースの扉を開き、外に出ようとしている所であった。
Nの表情が引きつった。
人形は静かにゆるゆると動いていた。
人形はスツールの隅まで歩くと膝を曲げ、Nの机に向かってジャンプした。しかし目算が狂ったか、若干飛距離が足りず、人形は机の縁に顔をぶつけて床に転がった。
「痛った~」
床の、人形が転がった辺りから、人形の年齢程度の幼い女の子の声がした。
Nは恐怖で動けなくなってしまった。
頭の中では、大声で家族を呼ぶなり、家族に電話をかけるなり、この場を逃れる方法はいくらでも思いつくのだが、そんなことをすればこの人形に殺されてしまうのではないかと思うと何もできなかった。
サイドボードの上、コーヒーメーカーの脇にはさりげなくNのものではないスマホが立てかけられ、部屋の様子を撮影していた。Nはそのスマホには気が付かなった。
***
放送室に置かれた40インチのテレビには、俺のスマホが撮影したNの書斎の様子が映し出されていた。SNS経由で柿沼のスマホが受信した映像と音声を、ミラーリングでテレビに映したものだ。
ちなみになんで俺のスマホかというと、中継できないか、と言い出したのが俺だったから。
神奈川県川崎市にある俺達の学校から東京都渋谷区にあるNの書斎へ俺のスマホを投げ入れたのは、なずなである。
そのなずなは、俺の目の前で顔を抑えてうずくまっていた。
「痛った~」
「こんな遠くでも、痛覚って伝わるの?」
柿沼がなずなに聞いた。
「ううん。痛覚が伝わる訳じゃないけど、なんとなく判るじゃない。あれは痛かったでしょ」
放送委員が立ち去った昼休みの放送室には、なずなと柿沼と俺の3人しか居なかった。放送室には鍵がかかっているので、鍵を持った放送委員か、鍵が無くても鍵を開けられるなずなしか入れない。ほかに人が居ないのは、あたりまえといえばあたりまえである。
あの後、結局柿沼の迫力に俺たちの方が折れて、Nの部屋に直接乗り込むのは止めにした。なずなは卑怯だと渋ったが、遠隔による脅しを試みることにした。
なずなは当初、Nの部屋の空気を直接振動させることで音声メッセージを伝えるつもりだったのだが、投げ入れたスマホがざっと部屋全体を映した時、柿沼が、
「ねえなずな、あの人形操れない?」
と、言い出した。
「脅すならたぶん、どこからともなく声が聞こえてくるより、あの人形がしゃべる方が怖いんじゃないかな。ちょっとステレオタイプだけど」
なので人形が机の縁に顔をぶつけて床に転がった時、柿沼と俺はコケた。
***
Nが固まっていると、市松人形はふわりと舞い上がり、机の中央、モニターの前に降り立った。
殺される……と、Nは思った。
人から恨みを買う覚えは……数えきれないほどあった。
だからこの家は、警備会社によるかなり高価なセキュリティシステムを導入しているし、高名な神職によるお祓いもしてもらっている。
しかし本当に力のある魔物の前では、それらは一切無駄なのだとNは思い知った。
人形が右腕を上げると、それにつれてNの体が浮き上がった。
人形が正面まで上げた右手をさっと横に振ると、Nの体は左側の本棚に叩きつけられた。後頭部が棚の堅い所に当たり、一瞬意識が遠のいた。
Nの体はそのまま本棚に張り付いた形になった。身動きは一切できない。目玉さえも動かせなかった。
突然、左右の指先から強烈な痛みが走った。直接見れないので確認はできないが、生爪を剥がされているようだった。
Nは叫び声を上げようとして、声も出せないことに気が付いた。声を出そうとしても息が喉を通るだけで何の音も出せない。
全ての指の爪を剥がし終えると、次は指が強烈な力で引っ張られた。指を一本一本、力任せにもぎ取っているようであった。
Nはあまりの痛みに気を失った。すると、腹部に殴られたような衝撃が走り、意識を無理矢理戻された。気を失うことすら許されないようであった。
人形は、Nの全ての指をもぎ取り終えると、次は手そのものを、次いで腕をもぎ取っていった。Nが意識を失う度に、腹部を強烈に殴られた。
この苦しみは耐えられない。殺すならじらさないで早く殺してくれ……本気でNが死を願ったとき、突然、Nの体を本棚に押し付けていた力が消え、Nは床に落ちた。床に落ちる際、Nはとっさに手をついていた。
床に座り込み、改めて手を見ると、腕どころか爪の一枚たりとも傷ついていなかった。痛みもいつの間にか消えていた。人形は、Nの体には傷を付けず、痛みのみを与えていたようであった。
意識が正常化してくると、Nは自分が荒い息をしていることに気が付いた。
「御気分はいかがですか」
頭上から幼い女の子の声がした。
見上げると、人形が机の縁に立ち、Nを見下ろしていた。
「ああ、失禁されてしまいましたね」
人形に言われて、Nは自分のズボンがぐっしょり濡れていることに気が付いた。おそらく痛めつけられている時に漏らしてしまったのであろう。
「これはあなたが中山神社に対して行った行為に対する罰です」
「ううっ」
Nがうめき声を漏らした。声もいつの間にか戻っていた。
「ヤクザを雇い子供を襲わせ、中山神社に関係のない方の人事を脅しの材料に使い……あなたのしていることは悪魔の所業です」
「知らん。私は具体的な方法までは指示していない。全て部下が勝手にやったことだ」
そう言うと、Nの左の親指に強烈な痛みが走った。見ると、親指の爪が剥がれ落ち、とめどもなく血液があふれだしていた。
「……」
Nは悲鳴をあげた。いや、あげようとした。が、再び声が出なくなっていた。
痛みに耐えながら、何らかの止血をしなければと左手を持ち上げると、驚いたことにじゅうたんにしみ込んだ血液が浮き上がり、はがれた爪の後に逆流してきた。最後には床に転がっていた爪が浮き上がり、元々爪があった指先に収まり、何事も無かったかのように元の指先に戻っていた。ただ、痺れるような痛みだけは残っていた。
もしかしたら、さっきも本当に指をもぎ取り、腕をちぎっていたのかも……そう思うと、足の付け根の辺りが再び温かく湿ってくるのを抑えることはできなかった。
「何言ってんですか、部下の行為の責任は全てあなたにあります。あなた自身、いつもそう言って管理職の人達を叱りつけていますよね」
見上げると、市松人形は机の縁に短い脚を組んで座っていた。
「中山神社が小さい神社だからといって、その祭神に力がないと思ったら大間違えですよ」
「ちょ、ちょっと待て。待ってくれ。私はこれまで神や神道の為に尽くしてきし、中山神社の件も神と神道の為に良かれと考えて行ったことだ。
何故私が神の罰を受けなければならないのだ?」
***
そのとき、なずなのスマホが振動した。
なずなが黙ってカバンごと俺に差し出してきたので、俺はカバンからスマホを取り出した。俺の父からの電話だった。
「父さん?」
「……あれ? 蒼か? ごめん間違えた」
電話を切りそうな雰囲気だったので、慌てて、
「これ、なずなの携帯だよ」
と、俺は言った。
「……んん? なずなちゃんは?」
「なずなは今、取り込んでる。伝言なら伝えとくよ」
「いや。ただ様子を確認したくて電話したんだが……お前たち、今、何してる?」
「ええと……」
まさが人を脅している最中とは言えない。
「くれぐれも、危ないことはするなよ。しょせん、たがが地方の一神社なんだから、お前たちの安全の方が……最悪の場合、中山神社なんて潰しちゃってもいいんだからな。なずなちゃんはともかく、お前だけは無理するなよ」
「わかった」
そう言って俺は電話を切った。
「ほら、私だけじゃないでしょ」
俺の横で聞き耳を立てていた柿沼が言った。
***
「私の氏子達を苦しめたからです。そんなことまで説明しなきゃ解らないんですか」
机の縁に座った市松人形が言った。
「それはあなたの氏子達の理解が足りない。あなたの氏子達は間違った方向に進んでいるので、私はそれを直してあげようとしているだけだ。
自分の間違えを認めるのは誰でも苦しい。でも苦しみのあと、ちゃんと正しい道に進めれば、あなたの氏子達は私に感謝する筈だ」
「『直してあげ』るにしては、ずいぶん乱暴な方法ですね」
「それはあなたの氏子達のレベルに合わせた為だ。理解力の低い生徒は、体罰を使わないと判らないからな」
Nの言い分を聞いていて、俺はムカムカしてきた。
何様だこのオッサン。
「『間違った方向』とは何ですか」
「神道とはそもそも神の道であって、日本民族が祖先以来大切にしてきた生活原理だ。
日本民族は皇祖、天照大御神の御神徳を歎美し、奉ることをもって生活の原理とし、国家の理想としてきた。
そして、その生活原理が天御中主神、もしくは国常立尊に淵源する神の命であると信じ、天照大御神の御子孫たる日嗣の御子、すなわち天皇に奉仕することによって実現されるものと信じ、天皇もまたその御神徳を継承し恢弘することによって、天つ神の命が全うされる、これが神道の本来あるべき姿だ。
ところがあなたの氏子達の信仰は、このあるべき姿から大きく逸脱している」
「それ、時代時代の権力者が自分達の権力を確立する為に便利に使った方便ですよ。最初が大化の改新推進チーム、最近では明治政府など。あなたは、そうですね……山縣有朋辺りに踊らされていると知るべきです。
幕末の長州、薩摩辺りの下級武士達はクーデターを起こすに当たって自分たちを正当化する為の物語が必要でした。それが無いと、徳川に歯向かう単なる反逆者、吉田松陰になってしまう。
だから自分たちは本音では敬意どころか単なる手札だと思っている天皇を『尊王攘夷』『王政復古』『大政奉還』といったキャッチコピーで飾り立てて民衆を騙し、まんまと権力の座を奪い取った。 ……と言うと明治維新の志士が悪党になってしまいますが、もちろん彼らはご存じの通り彼らなりの正義感に基づいてクーデターを起こしました。ただし彼らの“正義”の中に天皇が含まれていなかったことだけは覚えておくべきでしょう」
「何をたわけたことを。天皇が皇祖皇宗の神によって授けられた国を継承たまうという伝統的な信仰と、君民一体となって神祇を祭り、それが国家生活の基本となるのだという信念とは、日本国家を一貫する基本原理として神道が守り続けてきたもの、少なくとも戦後、GHQが『神道指令』を発令しこの国の伝統を壊すまでは守られてきたものだ」
「だから、その思想は歴史上一貫なんかされてません。
例えば江戸の庶民達は、神職も含めて“天皇”なんて知りませんでした。でも神社は江戸中至る所にあり、彼ら、彼女たちはやっぱりそこで手を合わせてた。
彼女達は誰に祈りをささげてたんでしょうね」
「江戸時代の神道は仏教と交じってしまっていたからな。まあ、あんたの言う通り、実際には皇室にも浮き沈みがあったことは認めよう。それにしても万世一系の二千数百年の血筋をお持ちの御家系であり、日本の正当な王家であることには変わりはない」
「一地方勢力に過ぎなかった大和政権を全国区にまで引き上げたのは蘇我家の功績であったことが、最近の研究で明らかになりつつあります。その優秀なリーダーを暗殺し、権力を横取りしたのが現在の天皇家です。それを正当な王家と言うならそうなんでしょうね」
「いや、天皇家自体は大化の改新以前から延々と続いているぞ」
「蘇我家が王として掲げていた用明、推古という人達と、中臣、藤原家がが王として掲げていた天智、天武という人達は別の血族だと言われています。で、なければ、乙巳の変なんてクーデターは起こしません」
「そんな変な説、聞いたこともないぞ。あんたは何を根拠にそんな不敬な戯言を並べている?」
「天皇の家系図が実は複数の家系図を繋ぎ合わせたものであることは、多くの研究者が指摘しています。
いずれにしても、ご自分の思想が絶対に正しいとは思わない方が良いですよ。
ましてやそれを根拠に他人の思想を間違っていると断罪したり、ご自分の思想に基づく政治活動を強要するのは神道以前に人の道に反しています」
「あんたの言う人の道って、もしかしたら西洋人の発明した『基本的人権』のことか? あんな平民までもが権利を主張する我儘な思想を導入したことが、この国をおかしくしてしまったのだ」
「もういいです。あなたと意見の一致を見ようとは思いません」
人形がそう言うと、Nの腹部に強烈な痛みが走った。Nのワイシャツの腹部があっという間に真っ赤に染まり、ワイシャツのボタンとボタンの間からNの腸がぬるぬるとはみ出してきた。
「わ、私は一貫して、にほ、日本国の誇り、神国日本を取り戻すために……ひい……」
Nは泣きべそをかいていた。
人形は机から飛び降り、床に転がったNの腸の上に飛び降りた。Nは更なる痛みを予想して歯を食いしばったが、腸には神経が走っていないのか人形が腸を踏んだ直接の痛みは無かった。その代わり腸の出口となっている腹部の切れ目が腸に引っ張られて物凄く傷んだ。
「とにかく中山神社からは一切手を引きなさい。さもないと、次は殺しますよ。判りましたか?」
血で赤く染まった人形が言った。
Nは微かにうなずいた。
***
柿沼は画面から目を逸らして下を向いていた。確かに女子が見る映像ではない。
俺も目を背けたかったが、なずなに「やれ」と言ったのが俺である以上、目を逸らす訳には行かなかった。
「ねえ蒼くん……」
柿沼が俺に尋ねた。
「もしかしてなずなって、他人の頭の中まで覗けるの?」
俺は驚いて柿沼を見た。何を今更……。
「やっぱり」
そう言うと、柿沼は俺からも目を逸らした。
***
……ええと、秋祭りまでの「結構大変だった」は、だいたいこんな所だろうか。
この後すぐ、○○庁より父に連絡があり、中山神社の離脱届は受理されることが決定した、したがって維持審査時の要件3件は施行必須ではなくなった、と連絡が入ったそうだ。
またSのポスターは、翌日には、中山神社の演説会予定の上にシールが貼られ、元々何も無かったかのごとく修正されていた。
あ、そういえば謎の正義感に燃えた男によると思われる、岩倉不動産の物件に対する放火事件もあったけど、こっちはなずながすぐ気が付いて消火してくれたんだっけ。
***
「なずな、そろそろ行こうよ」
「了解」
口の周りをティッシュで拭きながらなずなが言った。あんたはもう……タコヤキに飽き足らず、じゃがバターもチヂミも食いおって……勇気ありすぎ。
「そのティッシュ、捨てとこうか?」
「ほんと? さんきゅ」
藤田さんはなずなを甘やかし過ぎだと思う。と、いうか、藤田さんに餌付けされてる?
「じゃあね」
「じゃ、また」
巫女舞の直前練習の為、みんなに分かれを告げると、
「あおいちゃん、頑張って」
彩ちゃんがガッツポーズで見送ってくれた。
「うん。がんばる」
私はガッツポーズで返事を返した。
みんなから十分離れると、なずなが突然私に、
「だって、美味しかったんだもん」
と、言った。 ……ええ? あ、餌付けの話ね。
「あたしね、甘えていいよって言ってくれる人には甘えることにしたの。“あおい”ちゃんを見習って」
「私は巫女衣装でタコヤキなんか食べません」
「あの、そこじゃなくて……この話はまた今度。それよりあおいちゃん、集会所に今、意外な人が来てるから驚かないでね」
意外な人?