第4話、みんなが幸せでありますように、その3
「で? 結局その総会の結論は?」
中村が俺に聞いた。
翌日、いろいろあって、何故か中村と二人で下校していた。
「〇〇庁の指示拒否で全員一致だって。若松さん達には、今から〇〇庁を敵に回すことになるからこの神社の神職を止めても良いと言ったんだけど、逆に一緒に戦いましょうって言われたらしいよ」
俺がそう説明すると、中村が不思議そうな顔をした。
「あれ? でも結局そのSって政治家の演説は受け入れちゃったんだろ?」
「まさか。今朝から父さんは早速、〇〇庁に行ったり県庁に行ったりして神社の独立手続きを進めてる筈だよ」
「だって、Sのポスターには、丁度秋祭りの日に中山神社で演説会を行うって書いてあったぜ。時間も午後5時から5時半ってなっていて、それってあお……若松達の出番の直前だろ」
「うっそ。別の中山神社じゃないか?」
「いや。所在地も間違えなくお前んとこの中山神社だった。演説会は他にも2か所、別の日に別会場で開催するみたいだったけど、中山神社のは間違えなく秋祭りの日だったぜ」
これが井上だったら俺はまだ見違い、記憶違いを疑ったと思う。が、中村の記憶力はなずなが与えた特別なものである。その中村が『間違えなく』というのだから、疑う余地はなかった。
「ごめん、ちょっと電話する」
俺は父に電話をかけた。
「お前も見たか」
父にポスターの話をすると、既に父の耳にはその情報が入っていたようだった。それどころか、これ以外にも複数の問題が発生し、父はてんてこ舞いの様子だった。
「ポスターの件は、Sの事務所に電話したら、既に演説会の準備は進んでおり、今更中止にできない。一方的に中止と言うなら損害賠償を請求します、と言われたよ。
〇〇庁との間で交わした契約書もあるので、裁判になってもこちらに勝ち目はないそうだ。
それ以外にも今日は、〇〇庁へ提出した離脱届は後日追って回答する、と、まともに対応してもらえないし、中山神社に断りなくSの事務所と勝手に契約書を作ってしまった件も〇〇庁に問い合わせたがこちらも詳細を調べて後日追って回答する、と暖簾に腕押しだし、
そのくせ〇〇庁の別セクションからは秋祭りにはNって幹部が訪問するから接待の準備をしとけ、とか言ってくるし、
県への独立宗教法人の申請は、まず〇〇庁と合意を取ってくれと取り合ってくれないし、
何故かさっき突然、LPガス会社が2社も同時に、うちの物件から引き上げたいと言ってきたので代わりの業者を探さなきゃならないし、
今日はまいったよ。はっはっは」
疲れた声の様子からたぶん本当に参っているのだろうと思うが、それでも息子には弱いところを見せたくないのか、無理に作り笑いをして見せた。
「この岩倉不動産って、お前んちじゃね?」
電話している俺の腕を中村が突いて話に割り込んで来た。中村のスマホには岩倉不動産の経営者、つまり父を誹謗中傷する文があふれていた。売国奴だの非国民だの……。
「ありがと、中村。ちょっとスマホ貸して」
俺は中村のスマホを左手に父との通話を続けた。
「父さん、ネットでひどいこと書かれてるよ」
「それも聞いた。たぶん〇〇庁のサイトか関連サイトに何か書かれたんだろうな。自分で調べる時間はないので、そっちは環に調べてもらおうと思ってるが、こっちも一般顧客相手のビジネスをやっている以上、ほっとく訳にはいかない。
そんな訳で母さんには顧客対応、環にはネット対応をお願いする予定なので、うちは誰も手が空いていない。
秋祭りの準備はおまえがやってくれないか?」
「え? 俺?」
「三代目総代。よろしく頼むよ」
父は二代目総代と呼ばれている。そのため順番からするとそうなるのだが……このオヤジ、その時の都合都合で人を女扱いしたり男扱いしたりしやがって……。
「もちろん若松さん達が神饌の準備なんかはしてくれるが、出店の調整などは近所の人達の人間関係、力関係を知らない若松さん達には難しい。本当は俺がやろうと思ってたんだが、この状況じゃ無理だ」
「わかった」
「その代わり、直会(秋祭りの打ち上げ宴会)でアルコール飲んでもいいぞ」
「飲まねえよ」
不特定多数の前で中学生が酒飲んだらまずいだろうが。
それはともかく、要は若松さんのサポートなので、不動産顧客のクレーム対応よりは全然楽な仕事である。氏子の人達もいい人ばかりなので、実作業の大半はその人たちがやってくれてしまうだろう。そのぐらいなら中学生の俺でもできるだろうと父が考えたのも判るような気がする。
「なんか大変そうだな。俺でも手伝えることがあったら何でも手伝うよ」
中村がそう言ってくれた。俺のスマホは音漏れが激しく、おそらく父の声も中村に筒抜けだったのだろう。
「ありがとう。たぶんいろいろ頼むと思う」
俺にはこいつらもいるし、大丈夫だ。……大丈夫かなぁ。
***
「なっかむらくん!」
祭りの群衆の中、クラスメートが集団で目の前を通り過ぎたので、つい、私が声をかけて一番反応してくれそうな人の名前を呼んでしまった。
「うわあ! あ、あ、あおいさん? 全然判りませんでした! 巫女さんの衣装を着ると別人ですね」
ほら。
なんだかんだ、秋祭り本番になってしまった。秋祭りの準備は案の定、氏子のおじさんおばさんが積極的に役割を引き受けてくれて、本番当日の私は、神楽殿での奉納芸の司会ぐらいしか仕事が無くなってしまった。あ、もちろん司会をするのは男子の方の私だ。
ただ、事前調整は結構大変で、大人の事情が……その話はいいや。
おかげでこの一週間全然出来なかった巫女舞の練習が本番直前ながらできることになり、巫女衣装に着替えてなずなと一緒に集会室に向かっている所であった。
クラスメートの集団の中では、陽菜ちゃんが最初に私達に気が付いたようだった。彼女に手を振ろうとしたら、彼女のいたずらっぽい目が『あれ? この人達、気が付かないよ。どうする?』と言っていることに気が付いたので、ご期待に応えた次第。
「きゃあ、なずなちゃん」
「なずなちゃん、素敵!」
「でしょでしょ。やっぱり巫女装束っていいよね」
「何言ってんの、いいかげんあんたは自分の風貌を自覚しなさい……」
とたんになずなはクラスの女子に囲まれた。ただ、ちょっと前なら一番最初になずなに話しかけていた陽菜ちゃんは一歩離れた位置に立っていた。
巫女衣装に身を包み、髪を和風にまとめたなずなは、実年齢より5歳ぐらい上の大人の女の雰囲気をまとっていた。名実ともに女神、という感じ。中村以外の男子3名など、なずなを茫然と見つめていた。
「岩倉くんは? 一緒じゃないの?」
「この祭りの主催者代行だから、それなりに忙しいみたい」
なずなが答えてくれた。
忙しい? ヒマじゃん、と思われるのも癪なのでやっぱり一応書いておくと、今日はともかく事前準備は思ったより大変だったのだ。
特に交渉事はすべて私(もちろん、男子の)に委ねられた。……正確には、プロパンの手配にしても、出店場所の交換にしても、既に当事者間では妥協点が決まっているのだが、『総代に言われたから仕方ない』ということにしたいらしかった。暗黙の妥協点とちがう結論を私が提案すると、当事者が二人して首を横に振るのだ。
大人ってメンドクサイ、のである。
「中村くん、こないだはごめんね。なんかひどいもの見せちゃったね」
私は中村に話しかけた。
「あ、いや……あの後大丈夫だったんですか?」
「うん。一緒にいた子に介抱してもらったから」
なずな達と盛り上がっていた彩ちゃんが急に私に話しかけてきた。
「あおいちゃん……だよね。久しぶり。髪切ったんだ」
「うん。ちょっと気が向いて」
彼女と“あおい”の姿で会うのは、なずなの転校初日にマックで会ったのが最初で最後である。
あのときはウィッグを使ってたんだっけ。
「こっちの方が自然でいいよ。前会ったときより、かわいくなってる」
「ありがとう。彩ちゃんの浴衣も素敵」
「もうちょっと寒いけどね」
やべ、中村が寂しそうな目になってる。ただ、彩ちゃんの居る前でさっきの話の続きをする訳にはいかない。
「中村くん、さっきの話はしばらく内緒ね」
「あれ? あおいちゃんって中村と知り合いだったの?」
彩ちゃんが聞いてきた。ま、当然か。
「中村くんはこの前ここの掃除を手伝ったくれたんだよね」
「で、内緒って?」
当然、そうなる。失敗したぁ。
内緒、なんてわざわざ言わなくたって良かったのに。なずなが素っ裸で女の子を張り倒してたよ、なんて、どうせしゃべれない。
「中村くんには最近恥ずかしい所を見られちゃって……ごめん、聞かなかったことにして」
「ふ~ん。あおいちゃんはこんなのが好きなんだ」
「なっ、なんでそうなるの?」
中村、嬉しそうにするんじゃない。私の正体、明かしちゃおうかな。いつのまにかこっちに合流していた陽菜ちゃんは笑ってるし。
なずなは……なんで藤田さんにタコヤキ貰ってんの? 今、白い装束にソースなんかこぼしたら致命傷でしょうが。さずが、神様はやることが違う。
……ええと、今はこんな感じ(?)で、少し落ち着いているが、〇〇庁の維持審査から秋祭り本番までのこの一週間は結構大変だったのだ。
話をさっきの中村との下校直後に巻き戻す。
***
中村と別れた俺は、制服のままその足で父が経営する不動産屋の店舗に向かった。
秋祭りの準備を引き受けるなら、最大の懸念は政治家Sの演説会である。
この件は、ノンビリしていると外堀を埋められてしまう……いや既に埋められつつあるので、一刻も早く手を打たなければならない。……んじゃないかと思う。
父の店に着くと、店の前でセーラー服のなずなが待っていた。
「よっ」
「ええと、諸々の事情は説明抜きでいいのかな?」
「もちろん」
神様は何でもお見通しなのである。
店に入ると父は電話中で、なずなと俺に接客用席の方で待つよう指で指示した。
俺は冷蔵庫から麦茶を出し、2杯汲んでなずなの前に置き、ついでに空になった麦茶用ボトルがあったのでディーパックと水を入れておいた。そろそろ10月とはいえ、まだ残暑は厳しい。
ただ、俺が汗だくなのに対し、なずなはほとんど汗をかいていない。それでも喉は乾いていたようで、一気にコップ一杯の麦茶を飲みほした。
俺も麦茶を飲み干すと、二つのコップに麦茶を注ぎ足した。
「ありがと」
そう言うと、なずなは更にコップ半分程度の麦茶を飲んでしまった。
もしかして、舌から水分を発散してたりして……。
……お姉さん、思っただけで睨むのは止めようよ。
「待たせて悪い。秋祭りの話かな?」
電話を終えた父が接客用席の方に来た。
「Sの演説会の話だけど」
俺が言うと、父が状況を説明してくれた。
「ああ、そっちか。今、まさにその電話をしてたところだ。突然○○庁から電話があって、Sの事務所と直接連絡を取るな、だと。あと、Sの演説会はもう決まったことだから、神社が○○庁から独立するにしてもこれだけは実施するように、とのことだ。
これ以上○○庁に反抗するようだと痛い目に会うらしいが、何をするつもりなんだろうな」
「ご存じの通り、○○庁は実質的に日本中の神社の人事権を持っています。全ての神社の宮司は建前上、○○庁が任命することになっていますので、罷免することも可能です。
本件が長引けばうちの両親は宮司を罷免され、○○庁に都合の良い人がこちらの宮司に任命される可能性はあると思います。
その意味で、○○庁からの独立手続きは急ぐ必要があります」
なずなはそう言った後、俺を振り返った。
「ただどっちみち、昨日説明した通り神社が○○庁から独立したら、そこの神職は資格取り消しだけどね」
「昨日、そんな話したっけ?」
「え~っ、覚えてないの? ほら昨日、高島屋の屋上から真っ黒な富士山を見たじゃない。そのとき……」
「ああ」
「なんだ蒼、昨日はまっすぐ帰ったんじゃなかったのか」
「まあまあ…… あと、さっき言ってたLPガス会社が取引を止めたいと言ってきた件はどうなった?」
話がそちらに向かうと、親が苦労している間におまえらは何やってんだ、と言う話になっちゃうので、俺は話題をずらした。
「担当者に理由を聞いたら『理由は判らない。上からの指示だ』ということだったから、たぶん何らかの人脈を使って圧力をかけてきたんだろうな。なずなちゃん……」
「ごめんなさい。あたしは個人の行動は追えますが、組織として動かれちゃうと、キーマンが判らないかぎりさっぱり、です」
「神様が恐縮しなくていい。でもこれで大体向こうの手の内は判ったな」
「で、Sの演説会の話だけど」
俺は話を元にもどした。
「困ってる。
強硬手段で演説会を封じる訳にはいかないし、力比べでは歯が立たない。
ネットに書き込んで世論に訴えようにも、向こうには契約書という証拠があるのに対してこちらは何ら正当性を証明できるものが無いから、逆にこちらが悪者にされかねない。
何か、契約書が無効であることを証明できる証拠が無いかな。維持審査の議事録は俺が書いたものだから、いくらでも偽造できるだろうと言われればそれきりだしなあ……」
あれ? 父が俺に対して弱音をはくのは珍しい。なずなが一緒だからか?
「あのー」
なずなが言った。
「頂いたお小遣いで、さっきこういう物を買ってきたんですが」
なずなが手提げの袋から真新しい紙パッケージを取り出した。ICレコーダーであった。
「これでどうするの?」
「ま、見てて」
箱からレコーダーを取り出すと、なずなはさっそくレコーダーをいじり始めた。
「ええと、あれ? 動かないな」
「たぶん最初に電池入れるんだと思うよ。と、いうか、最初に取扱説明書読もうよ」
俺は取説を広げ、レコーダーを貸してもらうとレコーダーを立ち上げて見せた。
「さすが。蒼くんはやっぱり男の子だね」
こらこら、反応に困るコメントをするな。
「で?」
「しっ」
なずなは指を唇に当て、父と俺にしばらく黙るよううながすと、ICレコーダーを父の傍に置き録音を始めた。
5分ほど、俺達3人は黙ってしずかにICレコーダーを見つめていた。父の店は大通りに面している関係上、店の中が静かだと外を通る車の音がよく聞こえてきた。遠くで選挙の宣伝カーががなり散らしていた。
「はい」
なずながレコーダーを止めた。
再生ボタンを押すと、今、録音した音とは全く異なる音が再生された。複数の男性が話をしていた。その中には父の声も交じっていた。
「なずなちゃん、これは……」
「維持審査の時の録音です。お父さんの記憶の中から記録させてもらいました」
録音の中には、“神社維持の条件として”Sの講演が必要だという〇〇庁側の説明と、それに対して難色を示す父の声が入っていた。また、遠くに選挙カーの「今日は選挙戦初日ですが……」という声も入っており、これがこの音声の録音日を証明していた。
この録音は、Sの講演の契約が神社側の主権者抜きで締結されたものであることを証明するのに十分な証拠であった。
「ありがとう。これで契約書に十分対抗できる」
「はい。交渉の方はよろしくお願いします」
さすが、何でもありの神様である。……あれ? でも……
「あれ? これって、わざわざレコーダー買わなくてもスマホのアプリでも良かったんじゃない?」
俺は余計なこと(?)に気が付いてしまった。
「うそ、スマホってレコーダーにもなるの?」
俺はスマホで録音、再生をして見せた。
「て、いうか、なずなも年中動画撮ってんじゃん」
「えーっ。結構高かったのに……」
なずなが落ち込んでいると、父がレコーダーをオーディオ機器につなぎ、もう一度音声を再生した。音楽再生用の機器から聞こえてくる音は、あたかも維持審査の場に居るような臨場感があった。
「やっぱりソニーのマイクは集音力がちがうな。スマホの安マイクじゃこうはいかない。なずなちゃんこれいくらだった?」
「13,000円です」
「仕事用に丁度こういうのを一つ欲しかったんだ。もしなずなちゃんが良ければ、これ、その価格で譲ってもらえるかな?」
「そうかな~と思ってそれ買ってきました。どうぞ使ってください」
神様は何でもお見通しなのである。なんかホッとした顔しているけど。
***
この後父がSの事務所にMP3ファイルを送った所『こちらとしては○○庁より演説会会場使用の確約を得ている。これはそちらの問題だから○○庁と中山神社の間で相談してほしい』と、逃げを打ってきたそうだ。
政治家は人気商売である。中山神社の封じ込めは○○庁に任せ、最悪でも悪役は○○庁に被ってもらおう、という判断のようであった。
***
ところでさっき父が『でもこれで大体向こうの手の内は判ったな』と言っていたが、それが甘い見通しであったことは、その数時間後に判明した。
その日はなずなと別れた後、塾の方に顔を出した。祭りの準備が本格化するともう塾には行けないだろうから、行けるうちに行っておこうと思ったのだがこれがいけなかった。
塾の帰り、一人で夜道を歩いていると、背の高い背広の男性に突然話しかけられた。
「きみ、岩倉蒼くんだよね」
「はい」
警察だろうか? などと思いながらそう答えると、男は俺の腕を強くつかんだ。
「本当はきみのような子供を相手にはしたくないんだが、仕事だからカンベンしてくれな」
言うと男は、俺が向かっていた方とは違う方向へ俺を引っ張った。その方向には後部ドアを開けたワゴン車が停まっていた。
同時に周囲を歩いていた大人達2名が、一斉に俺達と同じ方向に歩き始めた。俺を捕まえた男はきちんとネクタイを締めた普通の社会人風であったが、残り2人は明らかにガラが悪かった。
やばい。
なにがやばいって、俺を捕まえた3人の男達がやばいのはもちろんのこと、それ以上にこの3人に何の異変も起こらないことがやばかった。彼らに現在何も起きていないということは、なずなが現在俺を見てくれていないということだ。
なずなに電話するか? こいつらはおそらく警察に電話しているとみて、アドレスをたぐり始めた段階でスマホを俺から取り上げるだろう。ここは何としても、自力で逃れるしかなかった。
俺の腕を捕まえた男の手を見ると、俺を子供と見てナメてたらしく、親指がかかっていなかった。自力で何とかするとしたら、ここに賭けるしかない。
俺は体をおもいっきりねじって男の手を振り払うと駆けだした。
「あ、きみ、違うんだ。逃げなくていいんだよ」
俺を逃がした男が後ろで叫んでいた。
まともな用事を持ったやつがいきなり腕を掴まないだろうが。
不意をつかれ、一瞬スタートが遅れた3人の男達は、直ぐに俺を追ってきた。どう考えてもクラスで一番足の遅い中学生が、ガタイの良い大人にまともなかけっこでかなう筈はない。
俺は道のすぐ横の竹藪に飛び込んだ。数年前まで秘密基地ごっこをして遊んでいた勝手知ったる竹藪だ。
竹藪を反対側の道路まで抜けると、追っ手の姿が見えなくなった。そこで俺は上に着ていた白いシャツを脱ぎ、下に着ていた黒いTシャツの裾をズボンに入れると女性化した。
女性化するとズボンの腰回りが3段階ぐらい緩くなったのでベルトを締めましし、腰の細さを強調した。
ムースで固めていた髪は指でかき回してボリュームを増した。手にしていたネイビーカラーのリュックには脱いだシャツを被せて丸め、白い手提げ袋風にまとめた。
これで寝ぼけた女子中学生が近所のコンビニに買い物に行くところ、ぐらいには見えるだろう。
スマホを取り出し、アドレス帳を開いた所で男達が竹藪から飛び出してきた。
「あのクソガキ、どこに逃げやがった」
「くそ、トロそうな顔してるくせにチョロチョロしやがって」
「ナメやがって。許せねえ」
「逃がしちまったもんはしゃあねえ。切り替えて、次、いくぞ」
男達は私の目の前で毒づくと、ぞろぞろ歩いて行った。立ち去り際、男達はちらちら私を見ていたので、バレたなかな、と思ったが、そういう訳でも無さそうであった。
電話をかけると、なずなは直ぐに出た。
「もしもし、なずな?」
「蒼くん、早く男に戻った方がいいよ」
可笑しそうになずなが言った。それは、私だって、こんな100%男服で女性化しているのはいやだ。しかし……
「けど、あいつらまだ見える所に居るんだけど」
「聞かせてあげる」
なずながそう言うと、スマホからさっきの男達の会話が聞こえてきた。
「発育のいいガキだったな。小学生か?」
「けどあれだけ胸があったら、ちゃんと下着を着けないとイタいよな」
「そうか? あれは美味しい……」
俺はそこで通話を切ると急いで男性化した。腹の締め付けがありえないないほど急にきつくなりゲロを吐きそうであった。げっ。
そういえばTシャツの下は何も着ていなかったっけ……。
直ぐになずなから電話が掛かってきた。
「ごめんごめん。……落ち込まないで」
「別に落ち込んでなんか……」
「今、町田聡子が神社に来てるの。そっちを見てたんで蒼くんまで意識が回んなかった。ごめん」
「いや、それはいいんだけど、あいつら、何者?」
「う~ん。背広の男が持ってる名刺からすると、ヤクザかな?」
さらっと言うなよ。やっぱり、だけど。
やっぱり○○庁の差し金だろうか。でも、一応ちゃんとした組織の筈なのに、ヤクザなんか雇うのか?
「それだけ蒼くんのお父さん、高く評価されてるんだよ。しっかり叩き潰しておかないとヤバい奴だって」
うれしくない。
きっと本人にその評価を伝えても喜ばないだろう。
……あれ?
「あいつら、『次、いくぞ』って言ってたけど、『次』って……この時間に帰ってくるの、もう姉ちゃんしかいないんだけど」
「どうしちゃったの? 今日の蒼くん、冴えてるじゃない」
「あのな…… なずな、姉ちゃんをお願いできるか」
「もちろん。 ……あ、でも、もしも町田聡子が暴れだしたら、そっちまで手が回んなくなっちゃうかも」
「わかった。町田聡子は俺に任せろ」
***
……とは言ったものの、何か良い作戦があった訳ではない。
とりあえず町田聡子が見ず知らずの少年に話しかけられて心を開くような社交的な人物には思えかったので、彼女が見知った方の私の顔、“あおい”に着替えることにした。姉の帰宅までまだ多少時間もあったし。
町田聡子は境内の隅のベンチに座っていた。
「こんばんわ、町田さん」
私が話しかけると、町田さんはビクッと反応した。
「あなたは、あの……あたしが怖くないの?」
「もちろん怖いですよ。横に座っていいですか?」
町田さんが右にずれて一人分の空間を空けてくれたので、私は町田さんの左に座った。
「そうか。あなたにはあの神様がついているものね」
「彼女は神様修行中なんです。町田さんのことも、ずっと、なんでこうなっちゃんだろうって悩んでますよ」
町田さんは失笑した。
「神様に悩まれてもね」
「私は全知全能で十戒を上から押しつけてくるような神様よりも、悩んでくれる神様の方が好きです」
「あなた、変な子ねえ」
町田さんが笑顔を見せた。その笑顔は思いのほか優しかった。
「このベンチはお好きなんですか?」
「このベンチというより、あたしは昔からこの神社が好きなの。ほら、神社って普通、手はこう清めろ、とか、2礼2拍とか、ここは入るな、とかいろいろルールを押し付けて来るじゃない。でもここは参拝者を信頼して、自由にやっていいですよ、という感じで」
「そうなんですか? 私は他の神社をよく知らないんですが」
「それはもったいない。この辺はいい神社が結構あるのよ……」
町田さんという人は、意外とおしゃべり好きで、意外と普通の人であった。又、べつに暴れるつもりも無さそうであった。
なんとなくだらだらと話し込んでしまい、気が付くとそろそろ姉が帰宅する時間であった。少なくとも今日の町田さんは目を離しても大丈夫。
「うわぁ~、時間になっちゃった。失礼します」
「あ、門限?」
「いえ実は……姉の帰宅の時間なんですけど、どうも姉はヤクザに狙われているらしくて、例の神様に護衛をお願いしたんですが、彼女だけに任せるのも悪いので、私も行こうかなって」
「へえ、あたしも一緒に行っていいかしら」
「へ?」
***
「岩倉環さん?」
「はい?」
姉は、突然話しかけてきたその背の高いネクタイを締めた男を最初、不動産の顧客の一人かな、と思ったそうだ。
しかし、次の瞬間、別の男が後ろから姉を羽交い絞めにしたので、そんな甘いものじゃないことを理解した。姉は家まで近道をしようと人気のない道を選んだことを後悔した。
姉は悲鳴をあげ……ようとした。ところが、息を吸い、最初の1音が出始めたところでネクタイ男の拳が姉の腹を襲い、姉は息ができなくなってしまった。
「おとなしくしてれば、命までは奪わない」
男は姉にそう言った。
そんな脅しに怯むような姉ではない。姉は再び悲鳴をあげようと短く息をすった。その瞬間、男が鋭い反射神経で、再び姉の腹部を強く殴った。強烈な気持ち悪さがこみ上げて、おかしくなりそうであった。
男達は姉をすぐ傍に停めてあった白いワゴン車の後部ドアに押し込むと車を走らせた。
到着したのは周りには比較的何もない、高速道路沿いの丘の上の廃屋。
そこで男達は姉を床の上にあおむけに倒し、2人が足を、1人が両手を抑えつけた。
残りの一人、ネクタイを締めた背の高いが鉄パイプを持ち、姉に言った。
「本当はきみのような子供にこんなことはしたくないんだが、仕事だからカンベンしてくれな。おとなしくしててくればすぐ済むから」
言うと、男は鉄パイプを振りかぶり、姉の右足に狙いを定めた。姉は意図的でない本当の悲鳴をあげた。
***
町田さんの運転する軽でなずなの案内する廃屋についてみると、姉の悲鳴が聞こえてきたので私達は慌てて廃屋のドアを開けた。……いや、町田さんがドアノブをもぎ取って開けたので、ドアを壊したというべきかも。
ドアを開けると3人の男が姉を押さえつけ、さっきのネクタイ男が鉄パイプを振り上げていた。
「キャー!!」
私が叫ぶのと、町田さんが駆けだすのとがほぼ同時だった。
「何だババア」
ネクタイ男は改めて鉄パイプをふりかぶると、駆け寄ってくる町田さんに振り下ろそうとした。
しかし、町田さんの動きは男の想定以上に早かった。男が鉄パイプを振り下ろす前に町田さんは男の懐に飛び込み、男の襟首を掴むと男を持ち上げ、男を横の壁に叩きつけた。この間、町田さんの動きが早すぎて男は何の抵抗もできなかった。
それを見て、男3人が姉から手を放し、立ち上がった。
町田さんの動きがさらに加速した。
町田さんは男3人を右手一本で次々と投げ飛ばし、床や壁に叩きつけた。小柄な町田さんが大柄な男達を次々に投げ飛ばす様は、まるでCGのようであった。
姉は男達の手が離れるとすぐに立ち上がり、私に駆け寄ってきた。さすが、姉である。こんな状況でも怯えて動けなくなる、などということがない。
「蒼……」
ただ、さずがの姉も、あれは怖かったらしい。私は生まれて初めて姉に抱き着かれてしまった。姉は、私の胸で泣いていた。
「お姉ちゃん、遅くなってゴメン」
私は姉の頭に右手を添えた。
「町田さん、あたしの友達を守ってくださってありがとうございます」
いつのまにか、なずなが到着していた。町田さんに投げ飛ばされた男達に触れ、状態を確認しているようだった。
「左腕だけで良かったの? あたし、右手だけでも十分人殺しができるみたいよ」
町田さんがなずなに言った。
「そうですね。4人とも頸椎を損傷しちゃってますからこのままなら少なくとも半身不随ですね。ちょっと可愛そうなので、頸椎だけは直しときます」
4人の男の首に、順番に手をあてがうなずなを町田さんはじっと見ていた。
「あたしも今、自分の在り方に悩んでいる所なんです。どちらが先に自分の生き方を見つけられるか、競争ですね」
なずなはそう言って町田さんに笑顔を向けた。町田さんは黙ってなずなに頭を下げた。