第1話、男の子をお授けください、その1
本作は語り部が一人称で語る形式を採っていますが、作中、語り部が性別をコロコロ変えます。
性別を変えた際一人称を変えるようにしたのですが、それでも読み返してみると語り部の状態が判りにくい箇所がちょいちょい見られましたので、以下の記号を導入することにしました。
この記号以下の文では、語り部は男子です。
この記号以下の文では、語り部は女子です。
小説としてのルールに違反する感がハンパ無いですが、筆者は文章力がありませんのでご容赦を。(居直りっ)
今でも全国に狼信仰の神社は多いのです。読者が登山のとき、何気なく見ている山中の神社や祠に鎮座する石像が、実はいわゆる狛犬ではなくて、狼像だったりするかもしれません。
―――青柳健二「オオカミは大神」山と渓谷社(2019)
西本教授の話で特に興味深く感じたのは、オオカミは護符になる以前から信仰の対象であった可能性が高いということだった。紙でできた護符は、文字が庶民に浸透するようになって生まれたものと思われるが、縄文時代には実際に二ホンオオカミの牙や手足の骨など身体の一部をお守りとして身につける風習があったという。
―――小倉美恵子「オオカミの護符」新潮社(2011)
***
お百度参り、という参拝方法をご存じだろうか。
どうしても叶えたい願い事がある場合の参拝方法で、拝殿と鳥居の間を100回往復し、100回祈りを捧げる参拝方法だ。『吾妻鏡』の記述などから、鎌倉時代初期には既に存在していた方法、らしい。
その時の衣装は白(正式には白装束)でなければならない、とか、お参りの間は言葉を発してはならない、とか、いろいろ決まりがあるらしいが、詳しいことは俺は知らない。とにかく、鳥居と拝殿の距離が長かったり、途中で階段があったりすると大変なことになってしまう参拝方法である。
ところが俺の母はこれを、妊娠初期という妊婦が最も安静にしなければならない時に、山奥の段差の激しい神社でやったらしい。祈りの内容は……
「男の子をください」
……だ。
神様も困った筈だ。と、いうのは、その時母の子宮に着床していた受精卵は、XX染色体(女性の遺伝子)を持っていたから。
ご存じだとは思うが、人間の性は主に受精の瞬間に、卵子がどの精子を選択するかで決まる。
「もうちょっと前に来いよ」
神様はそう言いたかった筈だ。
ところが母が祈りを捧げた大口真神社は、この祈りをとんでもない方法で叶えやがった
その後母は無事男の子を……つまり俺を出産した訳だが、これが全然無事じゃなかった。
……という話を、今から10年前の時点から始めよう。
***
夜が東から明けつつあった。東の空の雲が夜明け前の朝日に照らされ橙に輝く一方、西の空はまだ夜を残し、二等星以上の星々がまだ消え残っていた。シジュウカラやツグミがさえずり始め、新緑に覆われた境内が徐々に明るさを取り戻しつつあった。
まだほの暗い、ひたすら階段の続くほぼ山道と言ってよい大口真神社の参道を、幼い子供を連れた白いワンピースの参拝者が登って来ていた。
年齢から考えて、その参拝者の連れ子は、あの時の受精卵であろう。玉のように可愛い、そのまま女の子でも通じるほど柔らかな雰囲気を携えた男の子であった。
良かった。あの後、健やかに成長してくれたのだ。
彼女はまるで自分の子供のように、男の子を愛おしく感じた。
彼女の娘と1歳違いの男の子。神の座を譲った娘が一番最初に恩寵を施した男の子。……ただ、その娘は現在喉に刺さった骨が取れず、もう3日も食事ができずに苦しんでいた。
お礼参りかな? ――当初、彼女はそう思った。が、その参拝者が最後の鳥居をくぐった瞬間、それがとんでもない見当違いであることに気が付いた。その参拝者の心は怒りで煮えたぎっていたのだ。
まだ人気のない朝の境内である。社務所はまだ開いておらず、朝の早い権禰宜が一人、鳥居の遥か下で掃除をしていた。
その参拝者は辺りを見渡し、他に人が居ないことを確認すると、賽銭箱に両手をかけ、悪態をつきはじめた。
「誰が私に化け物を授けろと言った、このバカ神が。私の子供を返してよ。 ……今すぐこの子を普通の人間に直しなさい。 ……じゃないとこのお社に火を付けるよ。私が何悪いことしたっていうのよ」
そこまで言うと、参拝者は賽銭箱を抱きかかえるように泣き崩れた。
「ごめんなさい。おかあさん、ごめんなさい」
参拝者の後ろで、幼い男の子はただただうろたえていた。
***
……先代の神様目線で見ると、10年前の母と俺はこんな感じだったらしい。(後でご本人から直接伺った)
なんでこんなことになったかというと、話はこの参拝(?)の更に前夜にさかのぼる。
その時母は、幼稚園児の姉と未就学児の俺を風呂に入れていた。
頭を自分で洗えることをホメられて気を良くした俺は、もっとウケようと、自分の陰部を母に向けた。
「見て見て」
「やめなさい、蒼ちゃん」
この時母は笑っていた。この時までは。
ところが俺が、男の子のそれを女の子のそれに変化させ、
「ほら、女の子」
と、言った瞬間、母の俺に対する態度は豹変した。
……一番肝心なことを書き忘れていた。俺はいつでも女になれる。腕を曲げるように、息を吐くように、ごく普通の動作として。この件は後でもう少し詳しく書く。
とにかくこの頃の俺はバカだったので、性転換は人に自慢できる特技だと思っており、いいチャンスだと思って母に自分の特技を初披露したのだった。
だから、喜んでもらえると思った母から表情が消え、その後次第に鬼の形相へと変化していった時には心底びっくりした。
それ以来、母は俺を避けるようになった。実は今も……。
思えば「蒼ちゃん」と母に呼ばれたのも、10年前のあの時が最後だったかも。
この後、俺と、何故か姉もとばっちりで説教を受け(姉はその場で「蒼、すごい! すごい!」と喜んだことが母のカンに触ったらしい)、とにかく俺の体質のことは、父を含めた4人以外には言ってはいけないことをきつく言われた。特に一緒に住んでいる祖父と祖母には。
その後俺たち姉弟は早めに寝かしつけられ、母と父は何かをずっと話し込んでいた。……が、午前3時頃、何故か俺だけ母に叩き起こされ、車に連れ込まれた。行先は、御嶽山山頂の大口真神社であった。
大口真神社へは、ふもとの集落まで車で1時間、その後まだ薄暗い山道を徒歩で登ること1時間ほどで到着した。
まだ鳥しか起きていないような早朝の上り坂の参道を、母は手水舎で身を清めることもせずズカズカ進み、拝殿の前で周囲に人が居ないことを確認すると、賽銭箱に両手をつき、神様に悪態をつき始めた。
「誰が私に化け物を授けろと言った、このバカ神が。私の子供を返してよ。 ……今すぐこの子を普通の人間に直しなさい。 ……じゃないとこのお社に火を付けるよ。私が何悪いことしたっていうのよ」
そこまで言うと、母は賽銭箱を抱きかかえるように泣き崩れた。
とにかく俺は、急に鬼のようになってしまった母が怖くて、この間ずっとうろたえっ放しであった。
母はしばらく賽銭箱にしがみつき泣いていたが、涙が収まると立ち上がり、拝殿に向かって、つまり神様に向けて捨て台詞を吐いた。
「特別に一週間、猶予をあげる。その間にこの子を普通の人間に直しなさい。いいわね」
それだけ言うと、母は俺を来た道を引き返すよう促し、自分も俺の後について参道を下り始めた。
10年後の今、思い出してみても、こんな無茶苦茶な参拝はない。手水で身を清めることも、賽銭を入れることも、手を合わせることすらなく、ただ拝殿で毒づいて帰るなんて。しかも神様に対して“猶予”って何? 訳が判らない。
とにかく、この時心底思ったことは、もう母の前で性転換はやっちゃダメだということだ。じゃなきゃ母は本当に放火犯になりかねない。
階段の続く参道を下り始めると、鳥居を出た辺りで毛並みの綺麗な若い犬が俺たちに近寄ってきた。いや、実は狼だったんだけど、ニホンオオカミは素人目には犬と区別がつかない。ちょっと気を付けて観察すれば、その均整の取れた筋肉質の体、鋭く誇り高い目は、飼い犬のそれとはまったく違った筈だが、当時の俺にそんな知識は無かった。
「蒼、野良犬よ。近寄っちゃだめ」
母はそう言ったが、俺が立ち止まるとその犬は俺とピタリと視線を合わせ、「クウーン」と甘えるような声を出しながら近寄り、俺の前で座った。
「お母さん、この犬、僕たちに何か訴えてるよ」
「蒼……」
母はそう言ったっきり黙ってしまった。
犬は口を大きく開け、また「クーン」と甘い声で泣いた。
口の中を覗くと、大きめの針のようなものが喉の奥の方に刺さっているのが見えた。
「そうか、お前、これを取って欲しかったんだね」
犬の喉の奥のものを取ろうと犬の口に手を差し入れると、母が悲鳴をあげた。
「やめなさい! やめて!!」
そう言いつつも、母は俺に近寄ろうことはしなかった。母は何かに怯えているようであった。
「大丈夫だよ、お母さん」
大丈夫、の根拠は無かったが、犬は明らかに俺に助けを求めていた。邪険にする訳にはいかなかった。
大きめの針のようなものは、触ってみると骨の破片のようであった。軽く引いてみると、犬が痛そうな声を上げた。骨はカギ状にささくれ立って喉の肉に絡んでいるようで、軽く引くだけでは抜けなかった。
「ちょっと痛いけどがまんしな」
俺は犬にそう声をかけると、骨を前後左右に揺さぶった。犬が声にならない悲鳴を上げて、痛みに耐えていた。右斜め奥に動かしたところで骨が抜けそうな感触があったので、そこで思い切って力任せに骨を引き抜いた。血まみれの、意外と大きな骨の破片が出て来た。
犬は痛みで声も出ないようであった。うずくまり、ただ耐えていた。
「よくがんばったね。もう大丈夫」
俺は犬の頭を撫でようと犬の頭に手を伸ばした。が、犬は首を振り、頭を撫でられるのを拒否した。今思えば、狼としてのプライドだったか?
ただ、その眼光鋭い目は「ありがと」と言っているように俺には見えた。
***
――と、いうようなことが、10年前にあった。
いや、4歳児がこんなにしっかりとしゃべる筈はないので、かなり記憶バイアスがかかってしまっていると思うけど、細かいところはご容赦を。
俺は今、中学2年生で、ここは夏休み明けの朝の教室。
夏休み明けは、みんながみんなに話さなければならない報告が溜まっており、教室はおそろしく賑やかだった。俺の島では井上が夏の伊豆半島には抜け道があるという話を力説していたが、突如、中村が別の話題を突っ込んできた。
「そうだ、今朝職員室にすげえ美人が居たんだけど、もしかして今日の転校生かもよ」
誰が仕入れてたのか、今日、転校生が来るらしいという話は夏休みの間から学生の間に知れ渡っていた。
「へえ、どんな子?」
俺がそう聞きくと、残り2人も井上を無視して中村の方に食いついた。
井上、ごめん。男子中学生にとっては、抜け道よりも美人である。
「それが……」
と、中村が言いかけた所で教室のドアが開き、担任が入ってきた。生徒達はしぶしぶ各自の席に戻った。席に戻りつつも一部の生徒、特に女子は会話を途切れずにいたが、先生の後ろから転校生が教室に入ってくると、教室は急に静まり返った。
みんな、その子に釘付けになっていた。それほど綺麗な子だったのだ。
背はそれほど高くないが、目鼻立ちが整っており、少し大人びて見えた。肩の下まで伸ばした長い髪は先端まで軽やかで、彼女が少しでも動くと、彼女の動きに少し遅れてさらりと揺れた。うぶ毛のような可憐な前髪、姿勢の良い立ち姿。それでいてその動きは軽やかかつ柔軟で、ネコ科の猛獣を連想させた。細くて形の良い手足には明らかに良質の筋肉が詰まってた。
何よりも、眼光鋭いその目は自信に満ちあふれ、彼女を輝かせていた。そしてその、透き通るような白い肌、柔らかく妖艶に膨れた唇……ここまで書くともうバレバレだと思うけど、俺も釘付けの一人だった。
日直が号令をかけ、朝の挨拶をしている間も一部の生徒は彼女から目が離せないらしく、今朝はみんなの動きが変だった。
驚いたことに、彼女は教室の生徒一人一人の顔を確認していた。誰かを探しているようだった。
人前でも緊張しないんだ。すごいな……と、感心しながら俺は彼女を見ていた。
彼女の視線が、たぶん中村の辺りを通った時、一瞬表情が曇ったように見えた。
担任が転校生を『若松なずな』と紹介した後、本人が挨拶を始めた。
若松? 何か聞き覚えが……どこで聞いたんだっけ?
「『若松なずな』です。ただし、『若松』という苗字は最近決まったばかりなので、まだ自分でもしっくり来ていません。私を呼ぶときは『なずな』でかまいません。よろしく」
挨拶の様子を見ていて、俺は少々ムカついた。こいつは少し顎を上げて話すのだ。
感じが伝わるだろうか。顎を上げてクラスを見渡すと、みんなを見下す形になる。なんかエラそうなのだ。
美人だけど、ヤなヤツだな。近づくのは止めとこう。……と、俺は心の中でつぶやいた。
挨拶を終えると、彼女は生徒の顔確認を再開した。が、途中俺と目が合うと、ここまでほぼ無表情だったヤツが急に嬉しそうな笑顔を浮かべやがった。まるで懐かしい友達に再会でもしたかのように。
え? え?
教室内の複数の場所から、唸りのような「おーっ」という低い声が沸いた。不覚にも、俺はその笑顔を『かわいい』と思ってしまったが、「おーっ」と言ったやつらもおそらく同じ思いだったろう。
井上、中村、他数名が俺を睨んでいた。
知らん。俺はこんなヤツ知らないぞ。