交換日記を始めましょ
古き良き交換日記を目指したかったのです。
2018/8/7 誤字修正
<リカの秘密>
この時間だけ、リカは自由だった。
昼休みの図書館。その窓際の席で、射し込む夏の日差しが気にならないほど集中し、使い慣れたシャーペンをノートの上に滑らせる。
驚くべきはその速さであり、手の動きは止まることがない。サラサラというよりもガガガッとかドドドッという濁音の効果音がよく似合うほど勢いよく、強烈に文字らしきものを書き付ける表情は鬼気迫って真剣であり、その剣幕には近くを通る生徒が圧倒されて後じさるほどだ。
学業が本分たる学生としては残念ながら、昼休みを返上して熱心に真剣に勉強している、というわけではない。
真剣に、全力で、何を書いているのかといえば。
ノートの表紙には、よく見ないと読めないほど小さな文字でこう書いてある。『空想日記』。ちなみにこれは6冊目だ。
このノートに向き合う時ばかりは、丁寧で綺麗な文字を書くことなど考えられない。文法なんて構っていられない。ぎりぎり読める程度の文字で、日本語になっているのかいないのかもわからないような文章で、身の内に渦巻く情熱と妄想とあらゆる感情を手に乗せて、思いつくままをひたすらに書く。だってこれは自分が好きで書いているものだし、他人に見せるものでもないのだから。というか、もし誰かに見られたら羞恥で死ぬかもしれない。物知りな友人が言っていた、恥ずかしくて死んでしまうことを、愧死というらしい。
昼休み終了のチャイムが鳴る。
そこではじめて我に返り、慌てて荷物をまとめて猛ダッシュで自分の教室へ舞い戻ったリカは、席についた途端に呼吸を止めた。これ以上ないというほど顔を赤らめ、次いで青ざめる。猛烈な恥ずかしさと絶望で心臓が止まりそうだ。片手にはペンケースをしっかり握りしめているのに、反対の手は空いている。
大事なノートを、図書館に忘れてきた。
◆◇◆
運悪く六時間目の授業が体育だったり、大会が近いからとそのまま部活に連行されたせいで、リカがようやく図書館に向かうことができたのは閉館時間5分前だった。
誰かに見られてはいないか、それだけを心配していたリカだが、よくよく考えてみればノートにはわざわざ『宮村リカ』なんて名前は書いていないし、文房具屋に行けば山積みされているデザインだから、持ち主が特定される可能性は低いかもしれない。筆跡もめちゃくちゃだし、そもそも文字として読める人は少ないかも。
そうやって冷静になろうとすればするほど、不思議とその反対の不安も膨らんで、ぼうっとしていたために体育のバレーボールでは3回も顔面レシーブを決めてしまった。部活でも失敗の連続で体調の心配をされたほどだ。ある意味ではその通りなのだが、理由を言えず笑って誤魔化すしかなかった。
かつてない速度で部活の片付けを終わらせたものの、すでに日が暮れようとしていた。走りながら廊下の時計を確認すれば、閉館時間が迫っている。今日は殊更重く感じる通学鞄を振り回しながら、息を荒げて図書館への階段を駆け上がり、その勢いのまま廊下を曲がった。
「あっ!」
その時、ちょうど逆方向からやってきた男子生徒がいた。真正面からぶつかりそうになったリカは、咄嗟に上履きの底を鳴らして急ブレーキし、ぎりぎり3センチほどの距離で衝突を免れた。
「ご、ごめんなさいっ」
眼前にあるYシャツの第二ボタンに言ってから、ちらりと相手の顔を見上げる。ギロリと鋭く細められた目と目が合い、一瞬で背中に冷や汗が滲んだ。
誰かと思えば、隣のクラスの橋川シン。制服の下に真っ赤なTシャツを着て、髪の毛はワックスで立ててヘアピンで留めて、先生に注意されてもものともせずに悪目立ちしてしまうタイプ。リカの認識を端的に言うなら、不良。基本的に地味で平穏に暮らしたいリカとは住む世界が違いすぎて、これまで会話したことなどなかった。
そんなほとんど初対面の橋川に睨まれている。前方不注意のリカが一方的に悪いのだが、その迫力は今にも掴みかかられるのではないかと怯えるには充分すぎた。
「……走んなよ」
びくりと身を震わせたリカを避けて、それだけ言って去っていく。良かった、殴られなかった。しばらくそのまま硬直していたリカだが、やがて我に返り図書館に行かなくてはならないことを思い出した。
足音荒く図書館に駆け込むと、ちょうど図書当番の岡本ヨウが戸締まりをしているところだった。他に利用者はいない。なんとか間に合ったことに、リカはひとまず大きく息を吐いた。
「ああ、宮村さん。こんな時間に来るなんて珍しいね」
「う、うん。ちょっと忘れ物。お昼に慌ててたから」
気づいた岡本に曖昧に返し、昼休みに陣取っていた場所を目指す。そこには書きかけのまま開いて放置されたノートが……ない。
消えた。
大事なノートが消えた。
リカの顔から血の気が引く。そのまま貧血で倒れそうなほどショックを受けながら、おろおろと周囲を見回す。リカが座っていたのはこの席だったはずだ。窓際の、入り口からは本棚で死角になる場所。見つけた誰かが持って行ったのだろうか?リカにとってはそれはもう大事なものだが、他人が持っても価値があるとは思えない。そもそもこの付近は古典ゾーンなのであまり利用者は来ないはず、授業で図書館を使ったクラスはあるだろうか、などと様々な可能性を考えながら隣の本棚を見上げた時に、リカは思わず声を上げそうになった。
古びた古今和歌集のハードカバーの隣に、見覚えのある色のノートが並べられている。
見つけた安堵のあまり涙目になりながら、爪先立って手を伸ばす。指先でようやく端を掴まえて引き出せば、まさしく探していたリカのノート。
「よかったあ」
ノートを抱きしめ、その場にしゃがみ込む。とりあえずこの手に戻ってきたことに感謝しながら、新たな疑問が湧いてくる。
「一体、誰が」
リカの背丈では苦労するような高さの本棚に、わざわざ隠すように陳列したのだろう。もちろん、リカが自分で置いたのでないことだけは確かだ。
同時に、その誰かに中身を読まれている確率が高いことにも思い至ったが、どうせリカが書いたということはバレないのだから、深く考えないことにする。机の上に忘れられているノートを見つけた誰かさんは、そのまま放置するのも忍びないと考え、図書委員に届け出ることもせず善意で本棚に置いてくれたのだ。うんそうだ、きっとそう。そういうことにしておこう。めでたし、めでたし。
心の中で一件落着させたリカは、気を取り直して立ち上がる。腕の力が緩んだ瞬間に、ノートの間から半分に切ったルーズリーフが滑り出た。
『おもしろい話ですね。続きが気になります。』
床に落ちた白い紙片を目で追うと、整った文字でそう書かれている。
ひっと息を飲む。もちろんリカには覚えのないものだ。
知らない筆跡。明らかに、誰かに見られた。
見られただけにとどまらず、解読された。
その衝撃に、リカは一切の動きを止めた。
「もう閉めるけど、忘れ物、見つかった?」
リカがようやく呼吸と瞬きを思い出したのは、本棚の向こうから岡本の声が聞こえてきた時だった。
「あ、うん、ありがとう、見つかったよ」
お互いの姿が見えていないのは救いだった。震える声でしどろもどろに返答し、あたふたと紙片を拾ってノートに挟む。さらに厳重に鞄の奥にしまって、ふらつく足取りで入り口に向かう。
岡本は照明のスイッチに手をかけながらリカを待っていた。
「待たせちゃってごめん、岡本くん」
「それはいいけど、なんだか具合が悪そうだよ。大丈夫?」
力なく笑うリカに違和感を感じたらしい。真面目に心配されて居心地が悪くなり、リカは鞄を持っていない方の手を振る。
「ううん、元気。元気だよ。でも部活でシゴかれちゃったから疲れたかなー、あはは」
無論嘘である。リカの演技を信じてくれたのかはわからないが、彼はそれ以上は何も言わなかった。
照明を切り、出入り口の鍵を閉める。それから職員室まで鍵を返しに行く岡本と並んで歩いた。生徒玄関も同じ方向だからだ。
そっと隣を見ると、その視線に気づいたらしい岡本が見つめ返してくる。
岡本ヨウは図書委員で、毎日のように図書館に通うリカは自然と顔見知りになった。真面目で成績優秀、純粋に本好きらしく当番でなくても図書館に居る確率が高い。帰宅部かと思えば運動もできないわけではなく、運動部からの助っ人要請に笑顔で応えたりしている。優しく誠実で人望もあり彼のクラスでは学級委員に推薦されがちで、つまり、リカの持っている情報を総合すればかなりの万能人間ということになる。
ノートを読んだのは岡本という可能性もある。その一点が気になりながら、なかなか話の切り出し方がわからない。だって一歩間違えば、自分が書いたものだと知らせることになってしまうから。
「ところで、忘れ物は何だったの?」
「ぎくっ」
そんなことを考えている最中に素朴な疑問を投げかけられ、リカは擬音が声に出るほど動揺した。
「ぎく?」
「あー、うー、その」
「さっき僕が図書館の戸締まりをしている時には、それらしいものに気づかなかったから、気になって」
ここでリカは違和感を覚える。机の上に放置されているノートを拾ったのが岡本なら、この言い方をするだろうか。いや、そもそも岡本が拾ったのならば、付近の目立たない本棚に置くのではなく、図書館の忘れ物ボックスに丁寧に格納するはずだ。物が物だけに想像するだけで恥ずかしいけれど。
(もしかして、あれを読んだのは岡本くんじゃないのかな?)
忘れ物ボックスから引き取るために持ち主だと名乗り出る場面の恐ろしさを考えたら、拾ったのが岡本でなかったことは幸いとも言えるかもしれない。
心の中ではそんなことを考えながら、リカは頭に手をやる。
「あー、慌ててたらシャーペンをね、忘れちゃって。机の下に落ちてたの」
「そうだったんだ。いつも昼休みギリギリまで勉強していてすごいね」
「え? いやぁ、私の頭じゃ受験ヤバイからだよ」
咄嗟に岡本の勘違いに乗ってしまったが、非常に残念なことに受験についてだけは真実であった。先週返却された夏休み明けのテストの結果がすべてを語っている。
わざわざ披露しなくてもいい真実を明かして居心地の悪くなったリカは、ひとしきり乾いた笑いをこぼした後に別の方向からも確認する。
「ところで岡本くん、今日は他に忘れ物なかった?例えばノートとか」
「今日は特に届いていなかったよ。僕も見つけていないし」
岡本はぱちくりと瞬いた。嘘を言っているようには思えない。
「そ、そう。友達がノートなくした!って騒いでたからさ、気になって」
「それは大変だね」
「うん。ほんと、大変」
リカは息をつく。誤魔化してばかりだ。
職員室の前で岡本と別れ、独りで帰路につく。独りになってようやく、リカは笑顔を引っ込める。人前ではできるだけ笑顔でいるように努力しているけれど、それはリカであって本物のリカではない。いつの間に、こんな風になってしまったのだろう。
日中はほとんど夏と言っていいほど残暑が厳しいが、夕暮れにはこうして涼しい風が吹く季節になった。その風に髪とスカートを揺らしながら、リカはノートを拾った『誰か』のことを考える。
『おもしろい話ですね。続きが気になります。』
鞄からルーズリーフの切れ端を取り出し、まじまじと目の前にかざす。
綺麗な字だな、という感想と同時に、自分でも判断できない感情が湧いてくる。
「アンタ、またくだらないものばかり書いて!そんな暇があるなら勉強しなさい!」
頭の中に母親の怒鳴り声が木霊する。リカの成績に怒り狂った母親は、リカの手元から一冊目のノートを奪い目の前で破り捨てた。
「リカちゃんって、いっつも変な話ばっかりするよねー」
続いて、小学校のクラスメイト達の陰口が聞こえる。クスクスと笑って同意する複数の声。一番の友達だと思っていた女の子が、リカをあざ笑っていた。
空想することは好きだ。でも、それをそのまま周囲に伝えたら、最終的には自分がとても傷つく羽目になる。
そう悟った時から、もう誰にも本当のことは言わないとリカは決めた。書いているもののことは、トップシークレット。
家では母親から隠すため極力ノートを開かない。何を言われても笑顔で過ごす。
かつての友人達とは別の中学校に分かれたため、学校にはリカのノートの中身を知る者はいない。教室では新しい友達に合わせてアイドルの誰それがカッコイイとか流行の可愛い服の話をして過ごし、昼休みだけこっそりと図書館へ急ぐ。
リカにとっては隠すことが日常で、他人にノートを読まれることは、単純な恥ずかしさももちろんあるけれど、それよりももっとずっと危機的な出来事であるはずだ。目の前が真っ暗になるような思いをしながら、しかし同時に、温かい気持ちが湧いてくるのも事実だった。
「おもしろい、か」
他人からそう言われたことはなかった。それは隠し続けてきた本物のリカに、一瞬だけ日の光が当たったような。慣れない感覚に、ぶるりと身を震わせる。
もしも。もしも、このメモがリカに向けたメッセージであるならば。もしも、このメモの内容が真実であるならば。
リカの書いたものを、おもしろいと言ってくれる人がいる。ほんの少しだけでも期待して、続きを待ってくれる人がいる。そんなことは初めてだった。
空を見上げる。薄青から濃紺に染まりつつある宵の空に、きらりと一つ、明星が輝いている。その光を映して、リカの両目も強く輝く。
「変な感じ」
そう声に出して、リカは笑った。
◆◇◆
<その人が誰かなんて知らなくても>
翌日の昼休み、リカは図書館のいつもの席で、いつものようにノートに走り書きをしていた。昨日の岡本の言葉を受け、カモフラージュ用に数学の参考書も一緒に広げている以外にはこれまでと同様の光景である。
今日は何を書こうか。かぐや姫が自分で蓬莱の玉の枝を探しに男装して船に乗り込んだけど嵐に巻き込まれて中国どころか東南アジアまで行っちゃって、そこからさらに砂漠を越えてギリシャまでたどり着いて、そこで神話の神様たちに出会う、っていうのはどうだろう?
リカは思いついたことをそのままノートに書いているので、同じ話が続く日もあれば、毎日違う話を書くこともある。他人が見ればあまりの雑多さに混乱するかもしれない。それでもまったく構わない。だって見せることはないのだから。
「宮村さん」
「はいっ」
突然声をかけられ、リカは椅子から文字通りに飛び上がった。
「ごめん、驚かせた? もうすぐお昼休み終わるよ」
今日は図書当番ではない岡本が、本棚の隙間から顔を見せる。おそらく昨日の経験から親切心で声をかけてくれたのだろう、それは大変ありがたいけれど、集中の糸をぶった切られたリカは自分の心臓を鎮めることに必死で十分に感謝を表すことができなかった。
「ありがとう、私も教室に戻るね」
無理矢理に微笑んで手を振る。岡本は頷き、それから離れた机まで歩いてそこで突っ伏している男子生徒を揺り起こす。
「おーい、橋川。うちのクラスは5時間目体育なんだから、もう行かないと」
橋川はむくりと顔を上げ、目を細めて岡本を見た。
「おー岡本、さんきゅ」
返事する口調はのんびりしたものだったが、その声を聞いたリカは身を縮ませた。昨日ぶつかりそうになって至近距離で睨まれた記憶が蘇り、これだけ距離があっても緊張してしまう。
橋川が図書館で眠っている姿は以前からよく見かけるのだが、彼がいつ来ていつ去っているのかは知らなかった。周囲に無関心だなどと言うなかれ。限りある昼休みを有意義に過ごすことに全力を傾け、集中し始めたら周囲が見えなくなるのはリカの長所であり、短所でもあるのだ。
立ち上がった橋川はひとつ伸びをして、岡本の隣に並ぶ。
「今日は陸上だったな。岡本、50メートル走で勝負しようぜー」
「ええ、それ橋川が得意なもの選んでるじゃないか」
「そりゃ当たり前だろ。勝ったら英語のノート写させて」
「イヤだよ」
身勝手な提案を却下しながらも、岡本は笑っている。二人は正反対のタイプに見えるが、意外なことに仲は悪くないようだった。なおも食い下がる橋川を岡本がいなしながら図書館を出て行く。親しいクラスメイトといった様子の彼らの背中が十分に遠ざかったことを確認し、やっと緊張を解いたリカは近くの椅子を引いた。
冷静に考えれば、これからとてもリスキーなことをしようとしている。これまでのリカならば自分の正気を疑うような行動だ。
(もしも、昨日のメモが本当のことだったとしたら)
昨日までよりも、今日は少しだけ丁寧な字で書いた。話の内容は変えられないけれど、少しでも読みやすくなるように改行を入れた。
本棚の前で椅子を踏み台代わりに立ち上がる。小柄なリカには新鮮な高さだった。そこから手にしたノートを、古びた古今和歌集のハードカバーの隣に並べる。さらに隠すように、少しだけ奥に押し込む。
馬鹿なことだ、危険なことだと自分を諫める声と、それに抗って甘い希望を語るもう一人の自分の声が響く。人の心の中には天使と悪魔がいるそうだが、今日はどちらの声が天使でどちらの声が悪魔かわからない。希望に燃える天使の言うことを聞いているのかもしれないし、ひょっとしたら悪魔に誘惑されて、おかしなことをしているのかもしれない。たとえそうだとしても、今は自分を止めることができなかった。
そうしてリカは、何事もなかったかのように椅子を戻して教室に帰った。
大事なノートは、本棚に置いたまま。
◆◇◆
今日も給食が終わってすぐに図書館にやって来たリカは、いつもの席にペンケースと数学の参考書を置いた。それから人が見ていないことを確認し、椅子に乗って本棚に手を伸ばす。古びた古今和歌集の隣には見慣れたノートがあった。素早く席に座って開けば、栞のようにルーズリーフが挟まっている。
ああ、今日も読んでくれたらしい。
『また読めてよかったです』
『この流れは予想できませんでした、まさか蘇った織田信長が関ヶ原の戦いに乗り込んでくるなんて』
『クレオパトラが長い旅の末に日本にやってくるのは、いつかのかぐや姫の話と対になっているのでしょうか』
『今日の真田十勇士もいいですけど、昨日の八人目の騎士はその後どうなったのですか?』
『すっかり秋めいてきましたね』
『週末ですね。二日も続きが読めないと思うと寂しいです』
手のひらに何枚も積み重なる、『誰か』の言葉。
今までの分をひとしきり読んで、リカはその不揃いなルーズリーフをお気に入りのファイルに仕舞った。リカにしては珍しいことに、ちゃんと日付順に並ぶよう気を遣って保管している。
纏めればそこそこの厚さになった紙束を眺めていると、自然と頬が緩んだ。
あの後、名前も性別も年齢も知らない『誰か』は、本棚に置いたリカのノートを見つけ、中身を読み、再びメッセージをくれた。短い一言だ。しかし、リカにとってはそれで十分だった。自分が書いたものに対して反応を貰えることが嬉しくて、その次の日も同じ場所にノートを置いた。
それから、ほとんど毎日のように書いた話に対してコメントがある。
かれこれ二ヶ月が過ぎ、リカは昼休みがますます楽しみになっていた。その言葉は半分に切ったルーズリーフや、時にはノートに直接書き込まれている時もあり、最近は感想だけではなく雑談めいた内容も含まれている。それはまるで感想というより。
(まるで、交換日記みたい)
ふと浮かんだその単語に、リカはぶんぶかと首を振った。少し恥ずかしくなって、もう一度ファイルの中身を見る。
習字でも習っているのだろうか、整った文字。こんな字を書ける人が、よくも作者匿名のほとんど殴り書きの文章を読めるものだと感心してしまう。
もちろん、心理的にはかなり親しくなったような気がする『誰か』の正体が気にならないわけではない。きっと放課後か朝の始業前に読んでくれているのだろうとは思うけれど、わざわざその時間に突撃してまで確かめる勇気はなかった。だって顔を合わせれば、このノートの持ち主がリカだと知られてしまうかもしれないから。脳裏に昔の友人の笑い声が蘇り、リカは額を押さえる。それだけはダメだ。あの真っ暗な絶望を繰り返すのは嫌だ。
おっと、こんなことしている場合じゃない。貴重な昼休みを浪費していることに気づき、慌ててシャーペンを取り出す。どんなに精神が乱れていようとも、この体勢で書き始めれば三秒で空想の世界へ旅立つことができるのはリカの才能だろう。他人に誇れるかどうかは別として、自分では便利だと思っている。
今日は何を書くか、朝からとっくに決めていた。仲良し四人姉妹の末っ子エイミーがひょんなことから魔神が棲むランプを手に入れ、何を願うかで姉達との仲違いし、和解を経て成長し、ランプの魔神とも友達になり、最後により一層絆が深まった姉妹達はその後も穏やかに暮らしました。めでたし。
「なに書いてんの?」
「はいっ?」
絶好調でシャーペンを滑らせていたところに後ろから声を掛けられ、リカは飛び上がった。
恐る恐る振り返った先には橋川が立っている。これほど近づくのは二ヶ月ぶりだが、相変わらずのリカを見る目の鋭さに、一瞬で息が詰まるように感じた。
集中を切られた驚きにうるさく響く心音が、別の意味でも激しくなる。怖い。あまりに怖い。その眼力の強さは本当に同じ年齢かと疑ってしまうほどだ。
蛇に睨まれた蛙のような、とはまさにこのことだろう。一切の動きを止めたリカを、瞬きすらしない鋭い目が射抜き続ける。
いつもの場所で眠っていればいいのに、今日に限ってわざわざこんな奥まった場所まで来て、一体なんの用事だろうか。私、何か気に障るようなことした?前に正面衝突しそうになった件?ちゃんと謝ったし二ヶ月も経つのだからそろそろ時効にしてほしいけれど、ひょっとしてまだ許してくれてないのかな、困ったな。
「え、ええっと。数学の、勉強?」
いつまでもこうしているわけにはいかない。書きかけのまま貴重な昼休みが終わってしまうのが惜しくて、とにかく何か返事をしなくては、早く去ってもらわなくてはと、しどろもどろに返す。疑問形になってしまったのは仕方がない。
その答えに橋川は首を傾げ、ゆっくりとリカの手元を指差す。
「参考書、逆だけど」
「ひえーっ」
カモフラージュを一発で見破られ、リカは情けない悲鳴を上げた。
「これは、これはね、あの、逆の方がよく読めるっていうか、ほら、ここの図とか、逆から見るとおもしろい形で、こっちのグラフは数値の相関が感覚的に理解できるような気がしなくもなく」
「ふうん?」
必死に言葉を重ねて誤魔化そうとするが、残念ながらもはや自分でも自分の言っていることがわからない。これ以上身を守るもののないリカは、舌だけを意味なく回転させながら、どうか相手が納得して一刻も早く去ってくれますようにと祈るしかなかった。
「なあそれって」
橋川が何か言いかけた時、ちょうど昼休み終了のチャイムが鳴る。
「あ、もうこんな時間!戻るね!」
天の助けとばかりに荷物をまとめ、リカは脱兎の如く逃げ出した。残された橋川のことは振り返らない。一秒でも早くこの場から去りたかったし、もちろん授業に遅れるという合法的な理由もあった。後で校舎裏に呼び出される(いわゆる少年漫画に出てくる「ツラ貸しな」)かもしれないという心配も、今は頭にない。
教室まで走りながら、リカは自分の身の安否よりも先に気づいた。
(今日、持ってきちゃったな)
ノートはリカの腕の中にある。これまで毎日、いつもの場所に置いていたのに。
必ず置くとか、必ず読んでコメントを返すとか、そんな約束があるわけではないし、実際、三日くらい読まれていない時もあった。リカの目的は書くことで、感想を貰うことは目的ではないから、それはそれで構わない。
でも、初日からこれまでリカがノートを置かないことはなかった。
手元に持っているということは、自分以外の他の誰にも読まれることはないということだ。今日は感想をもらえないことが確実となり、リカは心が萎むような気分になった。寂しさを感じることが、自分でも驚くほど意外だった。
これでは、本当に交換日記のようだ。
◆◇◆
<見られた!>
美術の授業で、題材によってやる気が上下するのはリカだけではないだろう。写実とフィクションの区分けで言えば、リカにとっては写実の方がまだ救いがある。創作系の、特に『紙粘土と絵の具で架空の街を作る』なんて題材の時は本当に腹痛に見舞われて途中で保健室へエスケープしたほどだ。アイディアがないわけではない。むしろ豊富に出てくる方なのだが、問題はそれをクラスメイトに披露しなければならないということだった。リカの作品を見た時のクラスメイトの反応に、どうしても過去の笑い声が重なり、考えただけで身体が震えた。
そんなリカにとって、風景や人物のデッサンならばまだ精神的に得意と言えた。目で見たものをそのまま紙に描けば良いのだし、多少下手だとしても、それは手の動きの問題だから仕方がないと客観的に納得することができるからだ。
今日から数回の課題は風景画である。校内の好きな場所を選んで良いということで、初回の今日は皆スケッチブックを片手に歩き回っている。秋も深まり時折寒い風が吹くようになったので、室内を題材にする者も多いようだが、校庭に思い入れがあるらしい野球部員やサッカー部員は頑なに屋外で頑張っている。リカにもその気持ちはよくわかる。たとえただの授業であっても、自分が気に入っているものを作品に残したいという気持ちは。
どの場所を描いてもいいと言われて、リカが最初に思い浮かんだのは図書館だった。毎日通いつめている、本棚に囲まれたあの場所。しかし完成した作品が廊下に展示されることを思い出し、即座にそのアイディアを打ち消した。あの場所とそこで書いているものについてはトップシークレットなので、たとえ他人がリカの作品にそれほど注意を払うわけがないとわかっていても、天下に披露するのは気が引けたからだ。
他に気に入っている場所といえば、どこだろう。部活関係の場所?ポピュラーに教室?それとも思い切って校舎全体を描いちゃう?
スケッチブックを手にふらりと屋外に出てみれば、日は高いものの気温は肌寒く感じる。冬の足音が聞こえてくるような気がして、リカは肩をすくませた。
時間はあるのだからと、とりあえず気ままに歩いていたところ、中庭の桜の木の下でリカの足が止まった。そこから見上げればちょうど二階の図書館が視界に入る。窓際の、本棚に囲まれた、リカのお気に入りの席が見える。
やはり、リカが描きたいと思う場所は図書館だ。それをストレートに表現するのは危険な気がするけれど、ここからの景色ならば『中庭から見た校舎』という題材だと押し通せるのではないか。その中心が図書館であったとして、見えるのはその窓だけだ。よし、それでいこう。
そうと決まればさっさと構図も決めてしまおうと、木の下に陣取ったリカは鉛筆を立てて片手を伸ばす。こうして正確に縮尺を掴んで紙上に再現することが、上手なスケッチのコツらしい。中庭の草木も構図に入れるべきか、そうするともう少し下がって桜の枝も入れても良いかもしれない、そんなことを考えながら微妙に場所を移動していると、ふと二階の窓に人の影があることに気づいた。
授業中でも、課題の調べ物などで図書館を利用する機会はある。だからこの時間に利用者がいるのは構わないのだが、問題はその場所だった。いつもリカが座る席の付近をうろうろと行き来する背の高い人影は、やがて高い本棚に手を伸ばした。
(うそ、あれって)
棚から引き出したその手には、見慣れた装丁のノートがある。
(見られる!)
思ったその時には、スケッチブックと鉛筆をその場に放り出して走っていた。一度冷静になれば、見ただけでは誰が書いたものかなんてわからないはずだから放っておけばいいと、最初と同じ結論に達したはずだ。それができなかったのは、奪われること、具体的には落とし物として届け出られたり、万が一にも処分されてしまう可能性を考えたからだった。だって、まだ今日の分を読んでもらっていない。まだ、言葉をもらっていない。リカの性質上、同じものは二度と書けないから、処分されるのだけは困る。
近くにいたクラスメイトの驚く声に答えもせず、リカは走った。全速力で走って、階段を二段飛ばしに跳び上がって、図書館に駆け込む。扉の鍵は開いていて、図鑑や辞書などを広げていた数名の生徒がリカの足音に顔を上げた。それに構わず、息を整えながら奥へ進む。
中庭から見えた人影ーー橋川は、未だその場に留まっていた。足音荒く近づくと、リカのノートから顔を上げ、鋭い視線を送ってくる。やっぱり怖い。
一体どう言えば良いのだろうか。いざ目の前に来ると恐ろしさに足が竦んで、声の出し方すらも忘れてしまう。
「あの、その、ノート」
やっとのことで絞り出した声に、橋川は手を挙げて見せた。
「コレ?」
リカは頷くのがやっとだ。返してほしいと言いたいけれど、それはノートを書いたのがリカだと明かすようなもの。ここまで来ておきながら、未だにそれだけは憚られる。どうにか興味を失って本棚に戻してくれないものか。
「棚に置いてあったから、忘れ物かと思って。何か書いてあるし」
不良な見た目に反して、至極普通な判断だ。落とし物は拾って交番へ、図書館に於いては司書の先生か図書委員へ。
「ひょっとしてコレ、宮村サンの?」
橋川が思いついたように言う。そもそも名前を認識されていたことに衝撃を受けて、数秒フリーズしてしまったが、どうしても首を縦に振ることはできなかった。リカが書いたと知られたら、きっとこの場で笑われるだけでは済まないだろう。学年中の晒し者になる勇気はリカにはなかった。
「う、ううん。そういうわけじゃないけど……」
一体リカは何をしにここへ来たのだろう。居てもたってもいられなかったのは確かだが、それならばここで勇気を出して所有権を明らかにし、堂々と取り返せばいいものを。
そして、こんな場所に大事な秘密を放置することなんて、金輪際やめればいいものを。
「あれ、宮村さん?」
唇を噛んでいると、後ろから声を掛けられた。リカの姿を見つけた岡本が分厚い図鑑を片手に近づいてくる。
「どうかしたの。B組は今の時間、美術だったよね?」
その声に混ざる不審そうな響きに、リカは戦慄した。深堀りされてはまずい。咄嗟に笑顔を作って振り向く。
「そうそう、美術で。学校の風景スケッチでね、いい場所を探してたんだ」
「ああ」
岡本はリカの言葉に納得したらしく、表情を和らげる。
「宮村さんはよく図書館にいるものね。ここにするの?」
「うーん、どうしようかな」
言いながらふと視界の端に動くものを見つけ、窓の外に注目すると、何やら大きな四角形が揺れている。何かと思えば先ほどまでリカが居た中庭で、友人達がスケッチブックを大きく振ってこちらにアピールしているではないか。ぱくぱくと開閉する口は「わ・す・れ・も・の!」と言っているように見えた。突然すごい勢いで駆けだしたリカを唖然と見送った彼女たちだったが、しばらくして図書館にいる姿を見つけてくれたらしい。美術の課題中なのにスケッチブックを放ってきたのはまずかったか。
「宮村さんのこと呼んでるんじゃない?」
「そ、そうだね」
リカの視線を追った岡本が指摘するので、頷くしかない。
あちらからもこちらからも邪魔が入り、もう落ち着いてノートの話ができる状況ではなかった。リカは一瞬だけ名残惜しく橋川の手元とそのノートを見、次いで得意の何でもないという笑顔を作った。
「ははは。私、肝心のスケッチブックを忘れてきちゃったみたい!行かなきゃ!」
そしてこれ以上何か言われる前に、急いで図書館を出る。階段を下り、中庭への道を戻りながら、人気のないところでがっくりと肩を落とした。
「けっこう、よく書けた話もあったのに。残念だな」
こうなっては、あのノートが無事にリカの手元に戻ってくることはないだろう。悪くすれば処分される。忘れ物ボックス行きならばまだ希望はあるものの、持ち主だと名乗らずに取り戻すことは難しいだろう。思えば思うほどため息が止まらなかった。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。リカは両頬をぱちんと叩いて気合いを入れた。
気を取り直して、帰り道に文具店に寄って、新しいノートを買おう。記念すべき10冊目。
そして、また新しい物語を書くのだ。
「宮村サンにはヤサシーじゃん」
「そういうわけじゃないよ」
「クラスの女子が知ったら嫉妬すんぜ」
「馬鹿言ってないで、橋川は調べ物終わったの? あれ、そんなノート持ってたっけ」
「ナーイショ」
その場を去ったリカには、そんな二人の会話は聞こえていなかった。
◆◇◆
次の日、新しいノートに、新しい話を書いた。
返事はなかった。
次の日も、返事はなかった。
その次の日も、返事はなかった。
返事のないこと二週間。
リカは、書けなくなった。
◆◇◆
書くことがあれほど好きだったのに。
母親の怒りや、友人の嘲笑を受けても、むしろ書く手を止めることができず、隠れなければならないことに苦しんでいたのに。
シャーペンを握っても、嘘のように何も出てこない。穏やかな無音と言えばいいのか、不気味な静寂と表現すればいいのかわからないが、とにかく、書こうとしても書くことができない。
「どうしよう」
大好きな空想を好きなだけ書いていた。それなのに、いつの間にか、読んでくれる人がいなければ書けないようになっていたのか。隠すと決めた瞬間から、誰かに認められることなんて二の次だと思っていたのに。
「書けないよ、私……」
昼休みの図書館に、リカの呟きが落ちた。
◆◇◆
<ようやく会えた>
冬が明け、中庭の桜が綻ぶ季節になった。
卒業式が近づき、部活の先輩との名残を惜しんだ帰りに、リカはふと思い立って図書館へ足を向けた。
突然書けなくなってから、三ヶ月が経っていた。書けないのだから昼休みに隠れるように過ごす理由もなく、本の貸借で利用するのみ、それも頻度はそれほど高くないので、リカにとっては久しぶりの図書館と言ってよかった。
深い理由はなかった。強いて言えば季節の移り変わりを感じたかったのかも知れない。リカがよく居座っていた座席には春先の柔らかな日光が落ち、暖かくて心地良いだろう。そんなことを思っていたら、そこには先客がいた。
ただでさえ身長が高くて目立つのに、制服の下に真っ赤なTシャツを着て、髪の毛はワックスで立ててヘアピンで留めて、さらなる悪目立ちに挑戦している。橋川はそこで、リカの接近にも気づかないほど熱心に歴史小説を読んでいた。机の上には伝記からミステリーからファンタジーまで、ジャンルさまざまなハードカバーが雑多に積み上がっている。
(意外だな。けっこう本読むんだ、この人)
図書館で眠っている姿が印象的で、てっきり休憩所として利用しているのだとばかり思っていたが。
リカの中に少しだけ親近感が芽生える。睨まれた時の恐怖も忘れて進めば、自然とその近くの本棚が視界に入った。
「あっ」
思わず声を出してしまい、橋川が驚いたように顔を上げる。
だって仕方がない。いくら忘れ物ボックスを探しても見つからなかった9冊目のノートが、ひっそりと以前のように置かれていたからだ。
「あ、ええと、目にゴミが、入って」
咄嗟に誤魔化そうとしたが、遅かった。橋川と目が合っている。
「ホント?」
橋川が面白そうに確認する。いつものように『蛇を前にした蛙』状態になるかと思われたが、橋川の表情が柔らかいことに気づいて、リカは肩の力を抜いた。
「ちょっと驚いただけ」
かつて淡い期待を込めて、この場所も何度も探したリカである。いま頭に浮かぶのは疑問ばかり。なぜ。いつから。このノートはここにあったのだろう。誰が置いたのだろう。
「やっぱりそれ書いてたの、宮村サンでしょ」
ずばり真実。
橋川とノートを交互に見ていたリカは、冷水をかけられたように目を見開く。しかしここで認めるのは危険だと、知らぬ存ぜぬで通すことにした。
「や、やだな、何のことだか」
頑固な態度を崩さないリカに、橋川はあらぬ方を見やって、指折り数えながら詩のようにそらんじてみせた。
「ギリシャに行ったかぐや姫、クレオパトラが日本で見たもの、アグレッシブな真田十勇士、騎士と修道女とバイオリン弾き、魔法のランプと四姉妹の末っ子」
「……へっ」
何を言われたかわからなかった。耳から入った音が神経を伝わり、脳に入って認識されるまでに、とても長い時間がかかった気がする。ゆっくりと言葉が浸透してくるにつれて、気づいた。今、彼が言ったのはリカにも覚えのある単語ばかりだ。覚えがあるというか、リカが書いたというか。一番驚くべきことは、そこにある9冊目のノートよりも前に書いた話が彼の口から出てきたことだった。
それは、つまり。
ぽかんと顎を落としたリカに、橋川は笑う。
「他にもまだまだ。どれも忘れられない」
「そ、の、あの」
何を言えばいいのかわからない。喉の奥で声にならない音を発するだけのリカに、橋川は肩をすくめる。
「最初はホントに偶然見ちゃっただけなんだけど、読んだら面白くて。リクエストに応えてさ、毎日置いてくれてて、放課後に読むのが楽しみだった」
面と向かって言われて、リカの顔に朱がさした。。一つ明らかになったのは、どうやらリカの話にコメントをくれた『誰か』の正体は、この橋川だったということだ。その本人を前にしているという事実に強烈な恥ずかしさと、一握りの書いたものを褒められた嬉しさが押し寄せ、みるみる顔が赤くなる。自分でコントロールできるものではないが、涙さえ滲んできた。
楽しみだなんて、そんなこと言うくせに!
「じゃ、じゃあ、なんであの時は読んでくれなかったの」
赤面しながら書けなくなる直前の期間について詰め寄るリカに、橋川はきまりの悪い顔をする。
「あー。ちょっと、謹慎っつーか生活指導的な?ヨウ、じゃなくて岡本にバッチリ張り付かれてて来られなかったんだよ。ノート、あいつに見つかるとウルサイだろ。マジメだから」
「なぜ岡本くん?」
「家が近くて、けっこう長い付き合いなもんで」
要するに、やんちゃが過ぎた結果、幼なじみでしっかり者の岡本におはようからおやすみまで監督されていたと。図書館でこっそり一人でリカのノートに目を通すことは不可能だったと。
それを聞いたリカは脱力した。嫌われたのでは、つまらなかったのではと心配していたことが阿呆らしい。
「岡本くんに隠してくれたのは感謝するけど……」
「今日からようやく自由の身でさ、コレをやっと返せる」
橋川は立ち上がり、本棚からリカのノートを取り出した。手渡されたそれはまさしくリカの9冊目のノート。二度と戻らないと思っていたものに再会したリカは、言葉が出ないほど感動した。
そしていつの間にか、あんなに恐ろしかった橋川の目が平気になっていることに気づいた。それどころか、ちゃんと話してみると普通の生徒と変わらないと思った。見た目で判断して怖がっていたのは損だったかも。
橋川はリカの正面に立ったまま、ひとつ咳払いをした。
「宮村サンが良ければ、だけど」
一体何を言われるのかと身構えるリカに、橋川は照れたように頬を掻いた。
「これからも宮村サンの書くもの、読ませてほしい」
「それは、でも」
だって今のリカには書けるものがない。そう言いかけて、身の内の熱い炎、あるいは豊かな泉に気づく。なんだ、こんなに近くにあるじゃないか。気づいてしまえば、後はそれを手にのせて紙に叩きつけるのみ。
「うん、いいよ」
リカのすべきことはこれまでと変わらない。あっさりと頷いてから、思いついたように付け加える。
「でも今度は、橋川くんのことも教えて」
リカの答えに、橋川は目を丸くした。
「それって、つまり」
「交換日記を始めましょ」
再び書きたいものが浮かんできて、リカは心から笑った。
<終>
お読みいただき、ありがとうございました。