第二話 人はそれを『思春期の傷跡』と呼ぶ
意識が覚醒すると、そこはどこか見慣れた部屋だった。
記憶を辿ると、ここはそう『きみとも』の主人公である、色部透の部屋にどこか酷似していた。
「うおぉぉおおお!すげぇー!これか!これがVRかっ!」
いつもは画面越しで背景としてしか見ていなかったが、こうして自分の目で見て、手で触れる事が出来ると感動すら覚える。
俺のテンションも爆上がりだ。
「そうか、この部屋で透はヒロイン達を……」
そんな事をしみじみと考えていると、体の一部が熱くなる。
どこかって?言わせんな、恥ずかしい。いや、ごめん……目だよ!目!
今は自分が主人公の透であるのだろうが、ヒロイン達をなんか寝取られた気持ちになってしまった。面倒くさいだろうが、童貞男子は繊細で傷つきやすいんだ。そこはほら、許してつかあさい。
「さて、時間は?朝の7時か……学園の始業時間が何時か分からないけど、この時間なら問題ないだろう……よし!二度寝だな」
確か今迄の『きみとも』は、学園の高等部二年生に上がった年の始業式――つまり、4月10日から始まる筈だ。
そして、このまま寝ていれば、透の妹であり、俺の大好きなキャラでもある――色部茜が起こしに来てくれる筈だ。
せっかく夢の様な世界に入ったのだし、この世界を存分に堪能するべきだろう。
それにここは『妹が兄を優しく起こしてくれる』という、現実とはかけ離れた優しい世界でもある。決して妹が「なに?あんた居たの?」とか「ちょっと!マジでキモいんですけどッ!」と言わない世界だ。
まぁ、正確には『優しい世界』ではなく『俺に優しい世界』なのだが、そんな世界が有るのならば、その世界を満喫しない訳にはいかない。これは人として当然の行動だろう。
俺が布団を被り二度寝をしようとすると、階段を軽快に駆け上がる音が聞こえる。やはり『真のヒロイン』と呼ばれる者は、他のヒロインよりも先に現れ、おまけモードのCG鑑賞のCGの一番上を独占するのだろう。
期待に胸を膨らませながら目を瞑り、かつてプレイした時に感動したあの素晴らしい一枚絵の光景を脳裏に思い描きながら待機する。
「はぁ~……まだ寝てるのかい?」
ん?声が茜ちゃんと違う気がするが……あれ?中の人が変わったのか?
いや、公式サイトではそんな情報はなかった筈だが……いやいや、気のせいだ。布団を被っているせいで、声が籠って聞こえ辛いだけだろう。
ふふっ、ここは「この再現度、流石VR!」と言ったところか?
「アンタ、いい加減に起きなさい!」
布団の上から、体をゆさゆさと揺らされる。
なにか茜ちゃんの口調が母親みたいだけど……いやいやいや、気のせいなんだろ?皆まで言わずとも分かっている。
もしかしたら、新しいシナリオの始まりなのかもしれない。製作者達も中々憎い事をする。これは一度やったこのある人でも楽しめる為の演出だろ?そう考えると納得がいく。
さて、ここで主人公の透となった俺が取る行動として正しいのは『寝惚けた振りをして、起こしに来てくれた茜ちゃんにセクハラする事』だろうな。
ここで「お前は何言ってんだ?頭大丈夫か?」と思う人もいるかもしれないが、エロゲやアニメの主人公達が標準装備しているスキルでもある、その名も『ラッキースケベ』を行使するタイミングだ。それが今だ。
この絶好のエロイベントを逃すようでは、エロゲ主人公である『色部透』を名乗る事は出来ないだろう。
そうと決まれば、早速行動に移すとするか。
「むにゃむにゃ、もう食べられないよ~」
寝惚けた人間が発するありふれた言葉を口にしながら寝返りを打ち、その手で起こしに来てくれた人の胸を『ぐわしッ!』と掴む。
すると、掌には水風船の様な、柔らかビーズクッションの様な、それでいてどこか懐かしく、なんと表現していいか分からないが、今迄味わったことのない様な不思議な感触がした。
そうか、この感触がおっぱいなのか。
この再現度……VR技術万歳だっ!
「ましゅまろ~」
「……アンタは何やってんだい!」
「ぐわっ!」
俺が指を動かして初めてのおっぱいの感触をこれでもかと楽しんでいると、案の定、そのマシュマロの持ち主から鳩尾を抉りこむ様に、ピンポイントで叩かれる。
VRとは思えない、世界を狙えるのではないかと思うほどの、とてつもない痛みが腹部を襲うが、まだ俺の右手には幸せな感触が残っていたせいか、これぐらいどうってことない。
正にこれこそ『肉を切らせて骨を断つ』というやつではないだろうか?いや、違うか。
まぁ、そんな事より起きるとしよう。真ヒロインと名高い茜ちゃんとの対面だ。
「いってぇ~な。何する……ん…………だ………………えっ!?」
しかし、目の前に居たのは俺の知らない女の人だった。いや、正確に言うならば、知らないおばちゃんだった。もっと正確に言うのならば、そのおばちゃんは家族の残り物を「こんなに残してもったいない」とか言いながら食べちゃうような、健康的に太った『肝っ玉母ちゃん』だった。
「はぁ~……アンタ、モテないからって母親の乳を揉むようになったら……人間としてお終いだよ?」
「……え~っと……それ……マジですか?夢じゃなく?」
「ああ、そうだよ。我が息子ながら……流石に不憫だね」
「…………」
思考が停止した。
いや、もしかしたら、この部屋の時が止まったのかもしれない。それと同時に出来る事なら、今ここで世界が滅びて欲しいとも思った。
なぜなら、俺の『ファーストキス』ではなく『ファーストおっぱい』が、ゲームの中とは言え自分の母親だった。
そんな世界……よく考えなくても滅びるべきだろう?
しかし、神は俺の願いを聞き届けてくれそうになかった。
願いが届かない世界に残されたのは、母親の胸を揉みしだいたという、救いようがない男だけだった。
「………………………」
「はぁ~、今日の出来事は忘れてあげる……さぁ、もう朝ご飯出来てるから、早く着替えて降りてきなさい」
俺が右手を見つめながら停止していると、ゲーム上の俺の母親らしき人は、それもう深い溜息を吐いて、その場を去って行った。
俺の母親?が部屋から出ていくと、俺の目からは何かが流れてきたが、その液体の正体を俺は知る事が出来ない。いや、知ってしまうと、もう後戻りはできないかもしれないからだ。
そうだな、この目から溢れてくる液体に名前を付けるとしたら、きっと俺はこう名付けるだろう『思春期の傷跡』と。
*****
心に深い傷を負った俺は、目から流れる『思春期の傷跡』を拭い、学園の制服に着替えて一階へと降りた。
俺の母親?――いや、もう面倒くさいから、以後オカン――は、俺との約束通り何事も無かったかのように、朝ご飯を机に並べていた。
「ああ、やっと降りてきた。片付かないから早く食べなさい」
「あっ、はい。分かりました」
オカンの言葉に敬語で答える……いや、答えてしまう。
オカンは何事も無かったように振舞ってくれるが、どうしても俺のテンションは上がらない。ゲームの中に居るという夢の様で素晴らしいシチュエーションなのに、何故だか気分は最悪だ。
オカンに対してこんな態度になるのは、俺がまだまだ精神的に未熟な事もあるが、更に言うと俺の心に負った傷が思っていた以上に深く、ほんの数分じゃそうそう癒えなかったからだろう。
いや、本当にショックが大き過ぎる。
「……いただきます」
「はい、めしあがれ」
美味しそうな朝ご飯を親の敵の如く睨みつけ、何かに取り憑かれた様に、ただただ無言でご飯をかき込み、再び手を合わせる。
「……ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
食べ終わると食器を持って流しまで持って行き、負のオーラを周囲に撒き散らしながら、リビングを後にした。
自室に戻り、ご飯を食べ腹が膨れた事によって少しは落ち着いたのか、ふと疑問が浮かんだ。確か主人公の透の両親は『エロゲあるある』の海外出張で家にはおらず、妹と二人暮らしという設定だった。
しかし、今ここに母親がいるという事は、初めから新規シナリオという事なのだろうか?それにお兄ちゃん大好きっ子である茜ちゃんが、一度も現れないのがおかしい。先に学校に行ってしまったのだろうか?
これはフラグを立てる為にも、慎重に行動する必要が有りそうだが……。
「まぁ、考えても分からないし、そもそもゲームなんだ。もっと楽しまないとな」
そうだ、ここはゲームの中なのだから、少しミスがあっても、もう一度はじめからやればいい。今回は色んな意味で捨てるとしても、この世界がどういう感じか、それを確かめるだけでも意味があるだろう。
「よしっ、学園に行くか!」
難しい事は棚に上げて、鞄を持って、とりあえず学園に行く事にした。
忘れてはならないが、これはエロゲではあるが『学園モノ』だ。学園に行かなければ物語は始まらない。俺がプレイしているのは、朝っぱらから肝っ玉母ちゃんの胸を揉みしだくゲームではないし、そんなニッチなゲームどこにも需要がない……筈だ。
「いってきまーす!」
鞄を持って元気よく学園に行く為に家の外に出たのはいいが、問題があった。それは学園の場所が分からない事だ。
今迄の『きみとも』なら、場面が変われば学園に着いていたが、これは自分が操作する弊害だろう。
「さて、どうするべきか……」
ここで、自宅に引き返しオカンに『学園の場所どこだっけ?』なんて聞く事はできない。
今朝の出来事で合わせる顔も無いのに、そんな事聞いたら『病院へ行け!』と言われるのがオチだろうし、その病院の場所すらも分からないというこの状況。
なんだ……詰みじゃねーか!
「……むむむ」
「おはよう!久!」
「え?ああ、おはよう!」
家の前で唸っていると、俺に話しかけてくる奴がいたので、咄嗟に返事をしてしまう。というか、今俺の本名を言わなかったか?今の俺は色部透の筈だが?
色々訳も分からないが反応してしまったので、とりあえずその声の主を見ると……頭が真っ白になった。
「え?マジで?」
「ん?どうしたんだい、久?」
そう、俺の前には『きみとも』の主人公である色部透がいた。
「え?も、もしかして……と、透か?」
「ん?何かな、久?」
「嘘だろ?」
俺は訳が分からなくなって、慌てて今出た家の表札を見ると、そこには『金田』の文字があった。
「おいおい、マジか?……と、透?俺の名前を言ってみてくれないか?」
「え?ああ、いいけど?僕の幼馴染で親友の金田久だね」
「…………マジかぁ」
俺は透のその言葉に頭を抱えた。