実験20
チョウリが走り出したほんのわずかな時間の後に、デンカも部屋を飛び出す。だが、そのわずかな間にチョウリとの距離は大きく離れていた。
デンカが遅いのではない、チョウリの移動速度が早すぎるのだ。
チョウリは地球の短距離走の選手など比較にもならないほどの速度で走っていた。
「早いですね……」
振り返りながら、コウカがそう呟く。廊下をまっすぐ走っている彼らの間にあった距離は、もう六メートルも無い。今のチョウリの速度を考えると、あと数秒もあればその距離は詰められてしまうだろう。
「魔力による身体強化……地球でも武術を修めていたあなただからそれほどに魔力を纏えるのでしょうね。ですが、私もこの世界では特殊な部類に入るようなのです」
走りながらもコウカは振り返り、左手を後ろに伸ばす。そして何かを組み立てるかのように、その手が高速で動き始めた。
多少目が良い程度の人間では、何が起きていたのかすら見極める事はできなかっただろう。
だが、デンカにははっきりとそれが見えた。コウカは折紙を折っているのだ。片手で。高速で。
一瞬で完成した折紙がコウカの手から滑り落ちる。
日本人ならば、その特徴的な見た目の動物を知らない者はいないだろう。
動物界、哺乳綱、ネコ科。それは――百獣の王。
『グル゛ゥア゛ア゛ア゛ア゛ア!』
黄金色のたてがみを振り回しながら、ライオンが雄叫びをあげる。あらゆる動物の王と呼ばれたその生物が、チョウリの前に立ち塞がった。だが、人間――サカキ・チョウリはその姿を見ても止まらない。
「俺は地球に居た時からトラを素手で殺せたんだぜ。ライオンじゃあ無いかも知れねぇけどよ。どっちにせよ『この世界』なら一瞬もかからねぇ」
この世界に来て強化されたチョウリの拳が、ライオンを吹き飛ばす。魔力のない世界に生まれた、魔力を扱うことの出来ない『動物』が、ただの一頭で彼を足止めする事など不可能だった。
「この拳が次に叩き潰すのはてめぇの顔面だ!」
哀れにも宙を舞うライオンの体を、くぐり抜ける様にしてチョウリは進む。もう、その一歩は走るための一歩ではない。コウカとの距離を詰めた今、その一歩は攻撃の踏み込みの一歩だ。
そして、チョウリがさらに一歩を進めた、その瞬間――
「――待て!」
呼び止める声がした。
チョウリの後ろ。そしてさらにデンカの後ろ。扉から顔を出したビショップが真剣な顔つきで、チョウリを呼び止める。
「サイネリラの奴が死んでいる!」
棺に閉じ込めたはずなのにどうやって。自殺は出来ないはずだ。
そんな疑問がデンカの頭をよぎる。もし彼女が部屋にいて、消えた棺の中から出てきたクモを見ていたのならば、その真相に気づいただろう。
『サイネリラがあらかじめ所持していた折紙をコウカがスキルで操った』のだと。
だが、廊下を追いかけていたデンカに戻ってそれを確認する時間など無い。ましてや――今まさに攻撃を行おうとしているチョウリが引き返すなど不可能だ。
だが、ビショップのその言葉でデンカは気が付いた――
「チョウリ! サイネリラは既に『双勢』を使っている! あいつの瞳の色が変わった!」
いつ再生されたのかはわからない。だが、部屋を出た時は確かにサイネリラの瞳は青かった。今、後ろを振り返りながら走っているサイネリラの瞳は――赤色だ。
「なんだと……!」
悪態をつきながらもチョウリは周りを見渡す。
もう一体はどこに行った?
天井、壁、地面。それらを見ても隠れる場所など存在しない。目の前に居るのはコウカとサイネリラの二人だけだ。
まさか――
それはチョウリが思い当たったのと同時だった。
「いひひひひ!」
聞き間違えるはずの無い、サイネリラの笑い声が廊下に響き渡る。だが、チョウリの前方からではない。正面で今も逃げているサイネリラはただ微笑んでいるだけだ。
「――クソがッ!」
踏み込んだ一歩を軸にして、チョウリは体を捻るように振り返る。そして無理矢理に足に力をいれ、転がるように真横に跳躍した。
チョウリと入れ替わるように、彼がいた場所に一本の鎌が突き刺さる。綱糸付きの鎌――サイネリラの武器だ。
「あはは! 今のを避けるなんて凄いですね!」
笑いながらサイネリラが表れたのはチョウリの後ろ。彼は『チョウリが殴り跳ばしたライオンの体を死角にして』チョウリの背後に回り込んでいたのだ。
ライオンにしがみつく様に隠れていたサイネリラは、攻撃が回避されたのを確認すると、折紙に戻りつつあったライオンの体を蹴るようにして加速する。そしてコウカを追いかける様に走り出した。
もとより殺すための攻撃ではなかったのだ。追い付きつつあったチョウリが一瞬でも横にそれればそれで良い。
「いひひひひ! 一度さようならですね」
「ええ、『また会いましょう』あなたたちも継承戦関係者のようですから」
コウカとサイネリラが直進してる方向には大きな窓があった。二階から飛び降りる事になるが、二人にとっては何の問題にもならないだろう。
「……」
デンカは面白くない顔をしてボウガンを放つ。
それはチョウリを足止めしたサイネリラの膝を正確に撃ち抜くが――所詮は悪あがきに過ぎない。
射たれて崩れ落ちるサイネリラの背後から鎌が飛来し、綱糸が彼の首に絡み付く。そして砕かれた窓の破片と共にもう一人のサイネリラが飛び降りると、綱糸が引かれ、サイネリラの首が切断された。
死んだ動物もサイネリラも、廊下では何事も起こらなかったかのように全てが消えていた。
「畜生ッ!」
叫びながらチョウリが立ち上がり、サイネリラたちが飛び降りた窓に駆け寄る。自分も飛び降りようとする勢いで走り出すチョウリだったが、デンカがそれを止めた。
「待って」
「あ゛ぁ゛? 止めんじゃねぇ、俺はあいつらを殺す」
「あれをよく見た方がいい」
そういってデンカが指を指した方向には森がある。それは屋敷を囲むように、島全体を覆っている森だ。サイネリラとコウカの二人はその中に逃げ込んだのだが、森の中で人を探しだすのは相当な困難となるだろう。
だが、デンカが伝えたかったのはそんな事ではなかった。
日が落ち始め、薄暗くなりつつある森の中からこちらを見つめてくる瞳がある。それも一つや二つではない。
「コウカは折紙を島中にばらまいたと言っていた。きっと嘘じゃない。今あの森には数百匹の肉食獣が潜んでいる」
「それがどうした」
「それがどうしたって……」
相手の戦力は単純に考えても数百倍になっているだろう。薄暗い森の中ならば、嗅覚や聴覚に優れた動物たちの方が人間より有利になっていく。それに――これはデンカの予想だったが、コウカが森の中に生み出した動物たちは、集団で狩りを行う統率の取れた群れの可能性が高い。
チョウリの身体能力が超人の域に達していることはデンカも認める事だが、だからと言って獣に襲われ続けては休む暇も無いだろう。加えて、二人を追っている間、サイネリラは生きている限り何回でも奇襲をかけて来るはずだ。
相手の居場所がわかる開けた場所ならばともかくとして、迷いかねない森の中でそれは必死。
そういった諸々を全て、デンカは一言にまとめる。
「あの二人を追いかけて森に入ればきっと死ぬ」
単純だが、それは状況を正確に表していた。
だが、チョウリは追いかける意思を曲げない。
「俺の目的はスキャッターを――今はあいつらを殺すことだ。この島から生きて出ていけば、またディスレキシアの悪評が広まるだろうからな」
「……そうならば尚更ここに残った方がいい。命を賭けて何かをしても、結果が伴わなければ無意味になってしまうのだから。
結界がある間この島からは誰も出られない。今は追跡を諦めて、相手に気取られないように攻めた方が確実だよ」
デンカは出来る限り確実な方法を提示したつもりだった。論理的に情報を吟味し、そこから答えを出そうとしているのだ。
一つデンカが見誤っていたのは――チョウリが既に答えを持っていたという事だ。
「お前の言ってることは正しいんだろうよ。あいつらを倒すならその方が確率は高いかも知れねぇ」
だが、とチョウリは続ける。
「俺はディスレキシアの騎士になったんだ。
この世界の騎士がどんな物かとか、地球にいた騎士がどんなやつらだったのかとか、そんなのはわからねぇしどうでもいい。一つ間違いねぇのはな、俺の中で騎士になるってのは魂で忠誠を誓うって事だ。
楽なときだけすり寄って、苦しくなれば否定するってのはなんか違う。あいつが正しくても悪くても、命がかかっていてもいなくても、どうであっても肯定してみせる」
そしてチョウリは割られている窓に足をかけた。
「お前の言うとおり、『結果』ってのは重要だと思う。だけど俺はその『過程』で一瞬でも自分の魂を疑いたくねぇんだ。そうしなけりゃ、俺は嘘をついた事になっちまうからな。
お前を巻き込む気はねぇ。こいつは俺の我が儘みたいなもんだ。だから、『また会おう』ウワガミ・デンカ」
それだけを言い残し、チョウリは窓から飛び降りて森の中へと駆けていった。




