実験11
鳴き声をあげるスカビオの前で、ラツィルクは両腕を掲げていた。いくつもの結晶がその手の上で生み出され、厨房の中を滅茶苦茶にしている。鋭い結晶を、爆風で飛ばされたガラス片のように飛翔させる事のできるそのスキルを一言で表すのならば『結翔』。
それらが時に直線的に、時に曲線を描きながら飛来する中、デンカは作業台の後ろの小さなスペースに避難していた。彼女の中にあるのは、料理人として紛れ込む選択をした事に対する後悔だ。スカビオが何を言っていたのかは支離滅裂で把握しきれなかったが、ディスレキシアの配下が忍び込んだと言うのは間違いなくチョウリのことなのだから。
その彼は今、デンカと同じように結晶を防ごうと物陰で伏せていた。
「おいてめぇ! スキャッターは俺じゃねぇ、俺もそいつを追ってきたんだよ」
「ならそっちの彼かなぁ、あぁでも君かもしれない。二人とも死んでくれ、殺されて息を絶やしてくれ」
「もう話は通じねぇかよ……」
チョウリは落胆したような声でため息を吐く。だがそれも仕方の無いことだろう。今のスカビオと会話を成立させようとしているなら、それは話しかけている方が愚かなのだ。
いち早くそう判断していたデンカは、スカビオとラツィルクの対応を説得から反撃に切り替えていた。
だが、どうするか。
ラツィルクが結晶を打ち出す頻度は低くない。しかし銃で応戦できない速度でもないし、フライパンに当たって砕け散った事を考えるとそれほど頑丈な物でもないのだろう。
自分が全力を出せばラツィルクは確実に殺せる。
デンカはそう判断していたが、それを即座に実行に移さなかった事には一つ理由があった――チョウリの存在だ。チョウリの目的と正体がはっきりするまで自分のスキルを晒すべきではないと考え、デンカは反撃を躊躇してしまっていた。
ふと、ラツィルクの攻撃が止まった。
それは一瞬。だがその一瞬の間に一つの異変が起きる。
デンカの両脇に散らばっている結晶の破片が溶けるようにして集まり、一つの形に姿を変えていた。
それはラツィルクの手の上で生み出された八面体と同じ形状、そして同じように――デンカの方を向いている。
「――!」
デンカは作業台の後ろから跳ね起きるようにして跳躍した。
刹那。結晶がデンカの脇を掠めるように飛翔し、服を切り裂いて彼女の腹に赤い線を描く。
結晶を生み出せるのは手の中だけではないのだ。回避はした、傷も舐めれば治るような浅い傷だ。だが――
「隠れるのは止めたのかぁあああ? 殺す、死ぬ、お前が。う゛ぅうううぅぅぅ」
デンカは今、数歩先にいる二人と睨み合う形になっていた。間に遮蔽物は、無い。
興奮した様子のスカビオとは反対に、ラツィルクは変わらず無言で無表情だ。だが、デンカと目があったその時、ラツィルクがわずかに口角を上げた。
やるしかない。ここで死んでは意味がないのだ。チョウリの事は後回しにし、今は目の前にいる二人を始末する。
そしてラツィルクが手の上に結晶を産み出すと同時に、デンカも武器を思い描く。この世界に来てから慣れ親しんだ、短機関銃を。そして黒い霧が渦巻くようにデンカの右手に集中したその時――彼女の肩に手が置かれ、その場所から押し出された。
「どういてろ坊主、あいつらは俺が何とかする」
それはチョウリだった。
彼は懐から一本の瓶を取り出す。それはワインボトルと徳利を足して二で割ったかのような不思議な形状をしている。フタの役割をしているコルクに似た物を取り外すと、チョウリはそれを飲み始めた。そして漂ってきた香りを嗅いで、デンカは顔をしかめる。
「こんな時に酒?! 状況わかってるの?!」
未成年で酒を飲んだ経験も無いデンカにとって、それは信じがたい行為だった。まさか命のやり取りをしているその場所で、堂々と飲酒を始める者がいるなど……。それも一杯や二杯ではない。チョウリはその中身を全て飲み干したのだ。
そしてほんの少し上気した様子で、チョウリはデンカを睨み付けた。
「うるせぇよこんのバカが! 酒をバカにするんじゃねぇ、食い物をバカにするんじゃねぇ! それによ必要な事なんだよぉこれは! 少し酔ってる位が一番いい――」
理不尽にチョウリがわめきたてるその最中、彼に向けて三個の結晶が放たれた。
当然だ。眼前で酒を堂々と飲み干すような人間を、それを殺しに来た敵が放置するわけがない。
チョウリは死んだと、そうデンカは思った。
だが三方向からチョウリを貫こうとしたその結晶が、彼を傷付ける事はなかった。
それらが迫った瞬間、チョウリは突然ふらふらとよろけ、彼の右腕、左腕、右脚それぞれを別々の生物のようにして暴れだす。一見協調性も理性も無さそうなその動きは、だが確かに全ての結晶を砕き散らした。
「カッカッカ。お前が悪いんだぜ、なにがあったかは知らねぇけどよ。まぁこの場所でお前にはさようならだ。あいつがスキャッターなんて騎士にするわけがねぇだろうがよ」
そしてチョウリは右へ左へと予想出来ないような動きをしてラツィルクまでの距離を詰めていく。ラツィルクの放つ結晶は容赦なくチョウリに襲いかかるのだが、チョウリはふらふらとまるで酔っぱらいが階段を転げ落ちるような動きで、それらを弾き落とすか回避した。
デンカにはその動きに心当たりがある。
彼女のやっていたゲームの一つにも出てきたが、それは酔拳と呼ばれる拳法だ。酔ったように不規則な動きはとらえどころが無く、戦いに慣れている者であればあるほど翻弄される。
だが、チョウリの動く速度は明らかに異常だった。
それはおよそ地球にいた人間に可能な動きではない。どれだけ経験を積んだとしても、地球での物理法則と人間としての限界がある限りあのような動きは絶対に出来ないだろう。それに、チョウリが上気しているのは酔っているからだけでなく、実際に赤い何かを纏っているようにデンカには見えた。
「引くか、ここで死ぬか」
チョウリがスカビオに聞く。
既にチョウリとラツィルクの距離は無く、手を伸ばせば届く程の位置にいた。遠距離攻撃が主体のラツィルクにはもう勝ち目はない。
だが、ラツィルクは一切動揺せず、目深に被ったフードの下は無表情のままだった。
「死ぬさ、お前がな。ラツィルク!」
その声に反応してラツィルクがチョウリに向けて手を伸ばす。雪が積もるような現象と共に部屋中の欠片が結合していき、チョウリの周囲に数えきれないほどの結晶が浮かび上がっていく。だが――それは遅すぎる。
チョウリは一瞬でラツィルクの懐に踏み込むと、手を平にしてラツィルクの腹に押し当てた。
一見なんの威力も無いその攻撃に、ラツィルクは動きを止める。そして周りの結晶が風に吹かれるように消え去っていった。膝から崩れ落ちる彼の口からは血が流れ落ち、それは確かにラツィルクの死を示していた。
「あああはははあはは!!」
狂乱状態に陥ったスカビオの前に魔方陣が浮かび上がっていく。彼もまた貴族であり、扱える魔法があるのだろう。――当然、その魔法が発動する事はなかったが。
だが、止めをさしたのはチョウリではなかった。かといってデンカでもない。
倒れた地面の後頭部には一本のナイフが突き刺さっていた。それは誰もいない厨房の入り口の方向から投げられた物だ。より正確に表現するのならば、『誰もいないように見える』だが。
そしてその場からビショップが困ったような表情で現れた。
「交戦してるっぽかったから殺ったっしょ。それよりもボス、やべぇ事が起きてるぞ。殺されてる貴族が二人いる。あぁこいつを入れれば三人か」




