実験10
島に来て二日目。その広い豪華な屋敷の中、午前五時の早朝にも関わらず活発に人の動く部屋があった。
厨房だ。
「行くぞてめぇら! ちょおおおおおしょくの時間だ! 最高の朝を迎えさせてやれ」
「「はい、シェフ!」」
そう言いながらも、デンカはため息を吐かずにはいられなかった。
本来はパンやオムレツなどシンプルな物ですませるはずだった朝食は、チョウリの思い付きで朝早くからの作業を要する料理に変えられている。量が多いのではなく、単純に手間がかかるものだ。確かに素晴らしい料理が出来上がるのだろうが……過剰だとデンカは思った。
一つデンカにとって幸いなのは、理由を付けてビショップを別行動させられている事だった。この時間だと貴族の動向は少ないかも知れないが、それでも無駄に時間を厨房で過ごさせるよりはずっと良い。
ふとチョウリの方をみると、この世界にこれ以上に素晴らしい事は無いと言いたげな生き生きとした表情で包丁を操っていた。そして彼がフライパンを振り回す度につけ髭が風に揺れる。彼の変装を見るたびに、デンカはなぜ自分はわざわざ男装までして料理しているのだろうかと自問した。
答えは……わかっているのだが。
「おいてめぇ、料理に集中しやがれこのクソヤロウが!」
よそ見していたデンカに気付き、チョウリが怒鳴る。デンカの弁護をするならば、彼女はよそ見しつつも手はしっかりと動かしていた。もっともそんな口答えをすれば、魂まで料理に捧げろ、とチョウリは言っただろうが。
仕方ないので視線を目の前からそらすことなく、デンカはチョウリについて考えた。
なぜこの男はこの島に来たのだろうか?
デンカの想像通り彼がディスレキシアの騎士であるならば、目的はデンカと同じく、情報の収集もしくは『敵対者の殺害』だろう。
だが、チョウリには貴族たちに探りを入れてやろうという様子がない。
誰がこの島にいるかだけでも情報ではあるのだが、それだけで満足するつもりなのだろうか。もしそうではなく敵対者の殺害が目的ならば、こんなにも嬉々として彼らに食事を作っている事に違和感を感じる。もっとも彼がどんな状況にあっても嬉々として料理を作る人間だと説明されれば、それはそれで納得できてしまうのだが。
もしかしたらチョウリもスキルを持っているのではないかと彼女は考え始めていた。
自分に自分の能力をもっとも引き出せる『奇械』のスキルがあるように、チョウリにも彼の才能を引き出すようなスキルを授かったのだろうか。
しかしこれに関してはいくら考えようが予想の域は出ない。チョウリの行動にも多少気を使っておかねばならないな、とデンカが思ったその時、ノックの音がした。
入ってきたのは二人の男。貴族とその騎士だ。
名前は――
「スカビオですよ、マスター」
奇械がデンカにしか聞こえない小さな音で伝える。人の名前を覚える事が苦手な彼女のために、耳飾りとして取り付けられている奇械が貴族たち名前を記録しているのだ。
デンカは改めて入ってきた男たちを見た。
先頭に立っているのがスカビオの騎士。その男は魔法使いか死神のような黒いフードを目深にかぶっていて、身長百八十以上の長身の男だということ以外なにもわからない。フードの間から、包帯を巻いてだらしなく垂れる彼の両手が見えるが、その力の無さはまるで死んでいるかのようだ。
だがその死人のような男よりも、スカビオの状態は悲惨だった。
船の上で婚約者といちゃついていた時の面影は無く、赤い髪はかきむしったかのようにぼさぼさになっていた。いや、きっとかきむしっていたのだろう。彼はまるで全てを失ったかのような表情で号泣していたのだから。
「どうされたのですか! スカビオ様!」
料理していた男の一人が、入ってきたスカビオのあまりの様子に駆け寄った。チョウリは表情を硬直させて文句を言いたそうだが、そのチョウリが空気を読んで黙るほど、スカビオの悲しみようは酷かった。
「う゛ううううぁぁぁあ。ぐすっ。なぁ君、聞いてくれよ。僕には素晴らしい婚約者がいるんだ。うぐっ。知ってるだろう? ルストリエと言って、まるで高貴を表現する紫色の花のように美しい女性さ」
「ええ、もちろん知っていますとも。仲睦まじいお二人として有名ではないですか」
「うぅ……あ゛あ゛ぁ。あれはもう十年前のことかな。当時十一歳だった僕を父上が呼び出して、お前の婚約者が決まったって言ったんだ。そしてその日であったのが九歳のルストリエだった。あ゛あ゛あ゛あ゛ぁうううぅぅ。
僕は婚約者なんて嫌だったんだ! だけどいつも僕にルストリエは付いてきて、僕が振り返ると笑ってくれて、僕は彼女の笑顔が好きになって、ア゛アァアァぁぁあ!」
奇声を発しながらスカビオは地面に崩れ落ちる。
その瞳はどこか遠くを見ているようで、異常だ。
「ス、スカビオ様……」
「あぁ……どこまで話したっけな。スキャッターと呼ばれる殺人鬼がさ、人をバラバラにするんだけど騎士になったんだよ。うぐっ……。僕はすべてを失ったみたいなそんな気持ちなんだけど、本当に素晴らしい女性さ。あぁ……どこまで話したっけな。ディスレキシアのところに料理人がたくさんいるだろう、ルストリエはディスレキシアよりも美人なんだ。あぁ……どこまで話したっけな。そう、誰かがルストリエを殺したんだ。あぁ……いや……そんな……うそだうそうそ」
「落ち着いてください、スカビオ様!」
男の声に反応し、スカビオは突如冷静になった。目を見開き正面を見つめ、そして抑揚のなくなった声を出す。
「スキャッター……ディスレキシアの騎士が料理人に紛れ込んでいる。僕はそいつを殺しに来た」
「なッ……わ、私ではありませんよ! そのような事けっして――」
「大丈夫、わかってるよ。君じゃないかもしれない」
そしてスカビオは立ち上がり、手を一度叩き大きく音を鳴らすと、両腕を広げて厨房全体を見渡した。
「この中の誰かは分からない――だから全員死んでくれ。やれ、ラツィルク」
スカビオの声に操られるかのように、騎士――ラツィルクがその死人のような右腕を宙に掲げる。すると彼の手のひらの上で雪が降り積もるかのように光が集まり、野球ボールほどの大きさの四つの八面体が現れた。それはガラスのように透明で、八面ダイスを引き延ばしたかのような鋭い形をしていて――そして厨房に居た四人の料理人に切っ先を向けていた。
デンカがその事実に気付いた、その瞬間。
ラツィルクの手の上にあった結晶が勢いよくデンカに向けて放たれた。
「――くッ!」
デンカはとっさに握っていたフライパンを構え、空気を裂きながら彼女の心臓に迫る結晶の軌道上に置く。
そして結晶がフライパンに当たった瞬間、ガラスが砕け散るかのような音と共に結晶はバラバラになり、その破片が消えて無くなった。デンカは結晶の攻撃を防いだのだ。
だがそれは、彼女のように優れた動体視力と反射神経を備えている者にのみ可能な行動だった。
デンカの目の前で、スカビオに話しかけていた男は死んでいる。心臓のあった位置に穴を開けて赤い液体を噴水のようにまき散らしながら。
「あぁ……どこまで話したっけな。そう! 君たちには死んでもらわないといけないんだ。もう二人、残り二人だ。あぁ。あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁぁぁぁああ!」
再びスカビオは泣き始める。まるですべてを失ったかのように咆哮をあげ、赤い髪を血でさらに赤く染めながら、彼は泣き始める。




