二日前の午後:冒険者
3、2、1……
心の中でカウントする。
――今だ
地面から1メートル程度上に転移した僕はほぼ完璧に音を消して着地した。
二界はギルドの資料室で調べたとおりの洞窟世界のようだ。
岩肌が仄かな光を発し薄暗くはあるけど周囲の様子を伺える。闇に目が慣れると亀裂の多い岩の地面でも支障はないはずだ。ここまでは順調。
――どう進む?
この世界は立体迷路のような構造だと聞く。迷っている間にも索敵で魔力を浪費してしまう。急がないと。だけど、慎重さも併せ持って。
それにしても静かだ。
流れる水の音だけの世界。空気は冷たく少し肌寒い。
地面を流れる水を辿れば目的の地底湖を見つけられるだろうか。
到着と同時に発動させた敵探知スキルに反応はなかった。
二界に生息する魔物はゴブリン種とオーク種のみ。ただし、その数は一界とは比べものにならない。
多くのPTが数の暴力の前に屈してきた。まして僕は独りだ。戦いは避けて逃げに徹する。
とにかく、先に元の世界への帰還石を見つけておこう。敵に追われる前に退路を確保するべきだ。
そう判断して魔力感知スキルを使おうとして――
突然の悪寒に襲われた僕は咄嗟に地面の亀裂に身を隠す。考えるより先に行動した。ただの勘。でも、冒険者として培ってきた勘を信じた。
「Gya!Gya!Gya!」
どうして……
敵探知に反応はなかったのに。
飛び込んだ地面の亀裂は狭く敵の視界から完全に逃れる程の深さもない。
敵が目を凝らせば僕は見つかってしまう。
この状況で敵に見つかった場合――
僕は終わる。
でも、決して初めての危機じゃない。今までも何度だって乗り越えてきたのだ。落ち着け。冷静になって考えろ。生存のための行動を積み重ねるだけだ。
とにかく状況を確認――
だけど、何が起こったのか【精霊の瞳】が発動しない。本格的に不味い。
嘆いている暇なんかない。とにかく、今出来ることを……
僕は敵の声がした方向に向けて再び敵探知スキルを使う。
反応は三つ。【精霊の瞳】が使えないので姿を“視る”ことは出来ないけど、先ほどの鳴き声は間違いなくゴブリンだろう。
人間の匂いを嗅ぎ取ったのか、頻りに鼻を鳴らしている。
「Gya!Gya!Gya!」
息を殺す。身を屈める。奴等が立ち去ることだけを願う。
だけど、無情にもゴブリン達は真っすぐこちらに向かってきて。「死」がすごい勢いで迫ってきて。
……ここに居るのがバレてる?
……いや、まだだ。その場合は嬉々として駆けて殺しに来るだろうし、仲間も呼ぶはずだ。厳しいけど、まだ終わってない。
考える間にも敵との距離は失われ。ついには真上からゴブリン達の不気味な鳴き声が響いてくる。
……亀裂から脱出して戦う?
無理。ゴブリン達が脱出を黙って見ててくれるわけがない。
そもそも普通に戦っても三体を倒す間に敵の増援が現れて詰む。ゴブリンはPTの火力が試される相手だ。僕が一人じゃ話にならない。
――でも。
今、命を諦めることは彼女を諦めることとだ。そんなこと出来ない。
足掻くことしか出来ないなら……精一杯足掻いて見せる。
出来る限り狭い亀裂の奥に体を捩じ込んで……少しでも見つからないように。
痛みは無視しよう。ただし、決して音は立てずに。
最後に両腕を頭を守るように組む。そうしてゴブリン達の出方を伺う。
頭上で立ち止まった敵が動き出す。
攻撃するとは思えない姿勢からの攻撃。それは全く予想外の方法で……
生温かい液体。吐き気を催す悪臭。
――ゴブリンの尿だった。
「Gya!Gya!Gya!」
遊ばれている?挑発されている?……逆上して出てくるのを待っている?
頼みの綱の【精霊の瞳】は使えず、岩盤に挟まれ身動きも満足に出来ない。
そして、ゴブリンの汚物にまみれた体からは最低の臭いがする。
心は今にも折れそうで……
絶望しかなくて――
だからこそ、僕は笑った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あの日も同じだった。
空は真っ黒な雲が隙間なく埋め尽くし暴風と雷雨が容赦なく追い詰める。
連日の戦闘と悪環境に徐々に体力を奪われた僕達は絶望の淵にいた。
「おう、魔力感知だ…」
見通しのきく丘の上にポツンと立つ大木の下で熊人族のリーダーが指示を出す。その声には深い疲労の色が滲み出ていた。体力に優れた彼ですら限界は近いようだった。
魔力感知で「帰還石」と「異界石」のどちらであるか判断するのは無理だ。魔力の質と量に差がなさ過ぎる。出来るという話すら聞いたこともない。
――だけど、この状況はまともじゃない。
十二回連続だった。目的を達し帰還を始めてから向かった石は全て「異界石」だった。
夜を二度越えた。異世界が隠していた悪意を曝けだし、僕たちを亡き者とするよう全力を注いでいるようだった。
敵の位置は探知できる。でも、避け続けるには移動が必要だ。眠ることは出来ない。水と食糧はとうに尽きた。
次、僕が「帰還石」を選べなかったら――
確実にPTは全滅する。
「石の反応は五つ。一番近くはこの方向に十キロ弱。でも進路に魔物が多い。敵が少ないのは――」
魔力感知の結果を説明する僕をリーダーの声が遮った。
「おう、日和ったか?次も『異界石』だった場合にPTで相談した結果だからとでも言い訳したくなったか?甘えるな、それはお前が負うべき責任だ。アスラン、お前がこのPTの『探索役』。オレ達はお前の判断を信じるだけだ。進路はお前が一人で決めろ。それが最善だ」
周囲に視線を向けると他のメンバー達も頷きリーダーの言葉を肯定していた。この状況に陥っても僕を信じる。そんな思いを受け取ってしまった。
疑うべきだ、罵ってもいい。どうして、そこまで僕を信じることが出来る?
死なせたくなかった。この最高の仲間を。誰ひとりも失いたくなくて。
神でも悪魔でも何でもいい。とにかく助けてくれるなら――
……そこで、思い出す。彼女の言葉を。
(アスランが精霊様を信じてなくてもいいの。代わりに私が毎日あなたの無事をお祈りしてるでしょ。だからね、あなたが精霊様の存在を疑ってようと……関係ないの。精霊様は私の願いを聞き届けてくださるだけよ)
そうだ。僕はその言葉は信じたのだから……
――何にも助けを求める必要はない。
精霊教のことは良く知らない。敬虔な信者からは程遠い。
でも、エミリの祈りは――きっと僕の信仰に関係なく精霊が聞き届ける。
(ただし、笑うのよ。精霊様は前向きな気持ちを好むわ)
だから僕は笑った。絶望しかなかったあの時に。【精霊の瞳】の技能を授かったあの時に。
……そして、今だって笑う。身動き出来ない状況でゴブリンの汚物を浴びようとも。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「Gya!Gya!Gya!」
死の宣告とも思えた声が遠ざかっていく……
我慢比べに負けて戦闘という選択に逃げなかったことが僕を生き残らせた。
落ち着いて考えるとゴブリン奇襲のカラクリは簡単で。
いつものように平面に展開した僕の敵探知に対し、人間の匂い感じたゴブリン達は上下の階層から攻めてきたのだ。
ここは幾層にも重なる超巨大な洞窟世界。
その住人のゴブリン達は小さな体を活かして岩盤の隙間から何処へでも人間を狩りに向かう。
そして、僕は暫くここを動かないことに決めた。
探索スキルが僕の生命線。まずは【精霊の瞳】の回復を試みよう。
魔力は余分に消費するだろうけど、今の状態で闇雲に動き回るよりは生存率を高めるはず。
こんな場所では死ねない。桃色真珠も手にして見せる。
そして――
必ず戻るから。君のもとへ。