空腹少女の罪と償い。
空腹の彼女に【ご飯】をあげないと。
だって、彼女が飢えたら、可哀想じゃないか。
「ただいま」
その声に僕は反射的に、振り返っていた。
懐かしい声、ずっと隣で聞いてきた声。
そして、失くしたはずの声。
色も時間も風も何もかもが、動きを止める。
振り返った先の家の前。
何度も見た白いお気に入りのワンピース。
黒髪に映える、小さな赤いリボン。
透き通る白い肌に、零れ落ちそうな大きな瞳。
だって、そこにいるのは紛れもない彼女だ。
5年前に失ったはずの、彼女だった。
目が合うと彼女は花が綻ぶように、ゆっくりと微笑んだ。
「ただいま、ユウ」
彼女がいなくなったのは、良く晴れた春の日だった。
お気に入りの白いワンピースを着た彼女は、公園へ出掛けたきり帰ってこなかった。
何処に言ってたんだとか、いままでどこにいたんだとか、どこにも怪我はないだとか
聞きたいことも言いたいことも山ほどあった。
それでも彼女を見たら、そんな無粋な言葉はたちまち溶けてけていく。
綻ぶ顔のままに僕は笑った。
「おかえり、リナ」
見ないふりをしたのは、彼女が僕の元に返ってきてくれたこと。
それだけで、十分だと思えたから。
月さえも姿を現さない、漆張りの夜。
喉の渇きで目を覚ました僕は、自分の足音を落とすように階段を下りた。
真っ暗な部屋で、聞こえる微かな息遣いに僕は目を見張る。
冷蔵庫の光がうっすらとその主の人影を浮かび上がらせた。
開かれた冷蔵庫の扉の前。
ぺたんと座り込んだ線の細い、その体。
「……リナ?」
恐る恐る声を掛けると、その人影はゆっくりと振り返る。
その口元から喉にかけて、一筋の雫が伝い落ちていく。
「喉が、」
掠れた声が夜を揺らす。
僕の彷徨っていた指先が電気のスイッチを押した。
軽い音で暴かれた部屋の惨状に僕は声を失う。
彼女の硝子球のような瞳が僕を捕えて、一度だけ緩慢に瞬いた。
「喉が、渇いてしかたないの」
――――足の踏み場もないほどに床に散らばった瓶が、照明を受けて無機質に光っていた。
それが、はじまりだった。
彼女は、飢えていた。
けれど、それが何で満たされるのかは、僕にも、そして彼女でさえわからない。
彼女の好物を与えてみた。
食べたいと言っていたレストランにも連れて行った。
手料理を振る舞った。
珍しい食べ物を買い込んだ。
思いつくままに、縋るように、僕は彼女のためにあらゆるものを彼女の口に運んだ。
それでも、彼女が満たされることはなかった。
それ以上に、彼女の飢餓感は日々、募っていくばかりだった。
だから、しょうがないと思った。
思いついてしまったそれを打ち消すだけの可能性を考えることさえ放棄した。
血だまりの中で彼女は座り込んだまま、首を傾げる。
「お腹が、空いていたの」
「どうしようもなくて」
「何を食べても味がしない」
「美味しくない」
「楽しくない」
「苦しい」
「辛い」
「悲しい」
「幸せになれない」
矢継ぎ早に零された言葉は、ふっと蝋燭の火が消えるように途切れる。
部屋を満たす静寂は重く、そして澱み、沈殿していく。
彼女のお気に入りだった白いワンピースが、赤く染め変えられていく。
「だから、しょうがないよね」
ぽつりと彼女が言った。
「この人たちを食べちゃったのもしょうがない、よね?」
彼女の飢えが募るほど、彼女は感情をなくして、人らしさを欠いていく。
僕の涙を舐めながら、彼女は言うんだ。
「ねぇ、これとてもしょっぱいわ。どうして?」
僕はただ涙を流しながら答える。
「なんでだろうね」
僕は、その日、眠る彼女の頬に口づけを落とした。
それから、決めたんだ。
もう、終わりにしようって。
帰ってきた彼女の姿が、五年前から少しも変わっていないこと。
はじめから、その歪さを知っていたのに、見て見ぬふりをした僕には彼女と同じ罪があるんだから。
「美味しそう、美味しそう、美味しそう!」
正気を失って、狂気に光るその瞳に、嘲笑が零れた。
その目に移る僕は、酷く澱んだ目をしていた。
「早く僕を食べなよ」
「それで、終わらせよう」
「この食事を」
先に飲んだ毒の小瓶が床を転がっていく。
伸ばした腕を彼女が強く掴んで引き寄せた。
「「いただきます」」
この話は短編ノベルゲーム用に書いていた物語でした。
好きな人が生き辛い世界で、二人きりで抗うような、その実、頑張るほどに一人きりになっていくような閉塞感が書きたかったのですが、中々に難しいですね。
読んでいただき、ありがとうございました。