寂しさを抱く娘たちの夜
演習三日目から、明らかにレオナルドの指揮する部隊の動きが良くなっている。
初めの二日間はそれこそ戦術書の基礎を守った堅実でありながら面白味の無い指揮だった。両国間の友好をアピールするための演習としては無難で文句のない将でやりやすいと思っていたのに。
「誰が唆したんだか……」
無意識のうちに溢れ落ちた呟きに、グレインの私室の掃除をしていたユレイネは手を止め振り返る。
心配そうな眼差しに気付いたグレインは、安心させるようにとユレイネに微笑みを向けた。
「大丈夫だよ。少し想定外だっただけだ」
「レオナルド様のことでしょうか?」
ユレイネも今回の演習の話は耳にしている。
形式的な行事としか捉えていないアカネースの騎士達は、急に手強くなった侵略部隊に対して城内でも遠慮なく愚痴を溢していた。
ユレイネには、どちらが正しいのかはわからない。
形式的な演習として可もなく不可もなく淡々と波風立てずに無事に成功させることも、実際に他国が侵略してきた場合を想定しあらゆる策を講じることも間違いではないと感じている。
離れた位置からはグレインの表情は読み取れない。ユレイネは音を立てぬように、そっとグレインの傍らに立った。
地図と三色の駒が並ぶ机上から視線を外し、グレインは右手で両の目の目頭を強く押した。
「レオナルド王子はヴァインス王子と比べて頭の回る方だと思っていたけれど、同時にヴァインス王子のような奔放さはないと思っていたからね。今回の演習だって無難にこなしてくるものだと踏んでいたんだが、何か心変わりがあったらしい」
心変わり、と自分で口にしてグレインは自虐的に口角を吊り上げる。
あのタイミングで心変わりするというのなら、理由は一つしか思い浮かばなかった。
「ミレイニア様がリーゼロッテ様と裏で取り付けた王印の件。あれがレオナルド王子に火をつけたんだろうね」
「それは、レオナルド様がアカネースの王位を狙っているということでしょうか?」
グレインの言葉に、ユレイネは顔を青くして両腕を胸の前で抱いた。
王印はアカネース国にとって正当な次期国王を証明するためのものだ。
国王であるデュッセルがリーゼロッテに返還を求めなかったのだから、自分が持ち続けることが王の意思なのだというリーゼロッテの主張は一理ある。
しかし、彼女が王印を所持し続けることをレイノアール国の王子であるレオナルドが望むとなればそれは侵略の意思ではないのだろうか。
ユレイネの考えはグレインにも理解できた。だか、グレインは苦笑と共に首を振ってみせる。
「そうではないよ。あの若い王子は、ただ純粋にリーゼロッテ様のことを想って王印を守ろうとしているのだろうね」
「それは……打算も策謀もなく……ただリーゼロッテ様のためだけにということですか?」
「おそらくはね。あの二人の間には政略結婚だけではない情が確かに存在している。……リーゼロッテ様はミレイニア様の提案を利用してレオナルド王子のことを焚き付けたのだろう」
他人が自分に対してどのような感情を抱いているのかをよく理解し、何をすれば相手が自分の望み通りに動くのか。頭で考えているのか、自然と掴み取れてしまうのかまではわからないが、リーゼロッテは当たり前のように人を動かすことの出来る娘だ。
レオナルドを焚き付けたとして彼女にどのような利点があるのかはわからない。妻として、まだ若い夫の成長を促しているだけの可能性もあれば、より大きな思惑を胸に秘めている可能性もある。
しかし、何が理由にしてもグレインにとってこの件が好機であることに変わりはない。目的や望みを胸に抱えているのはお互い様であった。
「……リーゼロッテ様はこの国を出て幸せを見つけたのですね」
「だろうね。ヴァインス王子の態度を見る限りではご兄弟との関係も良好なようだし、リーゼロッテ様を良く思わない者もいるだろうがあまりに露骨な手段は使えないだろうからね」
レイノアール国にリーゼロッテが嫁いだ後、密かに密偵をレイノアール国に放っている。
彼らの話を聞く限りでは、正妃がリーゼロッテを敵視している節はあるがまだ決定的な態度は見せていないという。明確にリーゼロッテを害すような真似をしてもらえればアカネース国としても堂々とレイノアール国へ抗議できるのだが、現状では些細な嫌がらせか正妃が関わっている証拠のない不運な出来事でしかないためグレインとしても動くことはできなかった。
第一王子を溺愛し、その他を蔑ろにする王妃。そのような噂を聞いていたため、すぐにリーゼロッテに手を出すと思っていたが意外にも警戒心は高いようだ。
「……とにかく、レオナルド王子は昨日今日の二日間を同じ策で攻めてきたということは、明日が本命なんだろう。また同じ手か、何か狙いがあるのではないかとこちらを混乱させるか……全く、上手く乗せられてしまったな」
レオナルドの狙い通り、グレインは明日のレオナルドの動きが一切予測できず頭を抱えた。
考えられる全ての可能性に対して対抗策を練っておく程度のことしかできそうにない。これが本当に他国の侵略であったなら、王都を背後にして後手に回るしかないこの状況は絶望的である。
「……今回のようなことが実際に起きては困るな。ここはレオナルド王子を有り難いと思うことにしようか」
恨み言を口にしたところで状況は変わらない。
正直なところ面倒なことこの上ないが、実践的な演習としてくれたレオナルドに感謝した方が意味がある。
再び地図と部隊情報を纏めた書面に目を落としたグレインの姿を、ユレイネは側で見つめていた。
王印を手にすることが出来れば、グレインの王位は完全なものとなるだろう。
現国王であるデュッセルの姉で、第一王女であったグレインの母親。産まれたばかりのときには王位継承権を持つ王女であり、だからこそフォドムス伯爵家はすぐに第一王女との婚約を取り付けた。まさか、その後に男児が産まれるとは思いもしなかったからだ。
グレインの母親は嫁いだ後もグレインの父と良好な関係は築くことが出来なかった。彼女からは歩み寄る姿勢を見せていたのだが、フォドムス伯爵家自体が彼女を腫れ物のように扱っていた。
グレインが産まれたのも、義務でしかなかった。
王女を正室としたのに、その間に子を設けないとなれば伯爵家の評判にも響く。そのため、グレインと父との関係は冷えきっており、憎しみに近い感情を抱いている。
正妃が亡くなり、後妻としてフォドムス伯爵家に嫁いだ女性。その日から、ユレイネは彼女の連れ子としてグレインの妹となった。
「……お兄様、どうか王印を手にし、お母様達の無念を晴らしましょう」
祈るように両手の指を絡め、ユレイネは目を閉じた。
フォドムス伯爵家に後妻として入った女性は、名をアナーシャといった。若く可愛らしい娘で、ユレイネとは歳が10歳しか離れていない。
アナーシャはユレイネの二人目の母親であった。正妃がユレイネを産んだ直後に亡くなったため、元より目を付けていた若い令嬢を後妻として招き入れたのである。
ユレイネの産みの母親は、デュッセルの姉である第三王女だ。第一王女と第三王女は同じ母親の元に生まれており、グレインとユレイネは直接の血の繋がりはなかったが、従兄弟同士の仲でも強い結び付きがある。
「王位を得る可能性を失った母を蔑ろにしていたのは私の父も、あの女も同じことです。母が亡くなってすぐに若い女に手を出した父親を、そして我が物顔で王家の血を継ぐ娘を持つのだと振る舞うあの女を、どうして許すことが出来るでしょうか」
「ユレイネ……」
「お兄様が王となれば、それは間違いなくお母様の血のおかげ。あの人たちはそれを思い知ればいいのです」
ユレイネが物心付いたときにはアナーシャが母親の顔をしていたが、それがユレイネには許しがたい屈辱であった。人前ではユレイネを可愛がり、仲の良い親子の振りをしながら、人の目が無くなるとすぐにその笑顔の仮面を外す。
アナーシャはユレイネのことなど欠片も愛しておらず、その権力だけを求めていた。そのことを幼いうちから察していたユレイネは、決してアナーシャに心を開くことはしなかった。だからこそ、グレインの気持ちは痛いほどに理解できた。
家族を失ったユレイネにとって、彼女が心から信頼できる相手はグレインしかいない。
ユレイネの全ては、グレインのために使われるべきなのだと彼女は信じている。
「そういえばユレイネ、リーゼロッテ様のデュッセル様への謁見は調整ができたか?」
「デュッセル様の容態にもよりますが、最終日の夜に調整ができそうです」
「わかった。ではそのようにお伝えしよう」
話を変えるようにグレインはユレイネへと尋ねる。
ユレイネがグレインを理解しているように、グレインもまた彼女の一番の理解者である。
嫌な思い出をわざわざ思い返すような真似を、してほしくはなかった。
アカネース国も冬を迎え、夜は特に冷え込むことが多くなった。
先程、城下町の方へと出掛けていくレオナルド達と擦れ違ったミレイニアは、リーゼロッテよりも薄着のレオナルドを見てやはり雪国は違うのだと思い知らされた。
しかし、本当に仲の良い二人だ。今日だけではなく、昨日も一昨日も町へ出ていく姿を目にしている。
政略結婚で結ばれたというのに、ミレイニアには信じられなかった。
「はぁ……」
部屋着のまま、城内を歩く。
本当は少しだけ外の空気を吸ったら部屋で一人詩集を楽しもうと思っていたのだが、レオナルド達の姿を見てしまい理由のわからない胸の痛みに襲われた。
その感情は妬みと呼ばれるものなのだが、ミレイニアには理解が出来ない。
二人を妬ましく思うその理由も、そもそも自分の中に彼らを羨ましく思う気持ちがあることも、ミレイニアは自覚できていなかった。
どこかから吹き込んできた風が体を冷やす。
部屋着のまま外を歩き回るべきではなかった。ミレイニアは後悔しながら両腕を擦る。
「……ん?」
「あ……」
何の前触れもなく、目の前の角を曲がってきた男に気付き、ミレイニアは一瞬思考が停止する。
何故、この男がここにいるのか。ああ、今は合同演習の最中だった。ミレイニアは小さく息を吐くと、ヴァインスへと頭を下げた。
「このようなところにお一人でどうなされたの?」
「ガラウム子爵の招待を受けていてな。少し飲み過ぎたから部屋に戻る前に酔いを醒まそうかと思って少し歩いていた」
言われてみれば確かにヴァインスの頬には赤みが差しており、普段は鋭い眼差しもどこか丸みを帯びているようであった。
野生の獅子が町で一番の野良猫にでもなったようだ。ミレイニアは顔を背けて口元に浮かぶ笑みを隠した。
「そっちこそ一人でどうした。美しきアカネースの王女が夜に一人というのは信じられない光景だな」
「何が信じられないことなのかしら。別に私は貴方と違って異性との遊びに忙しいわけではないから一人の夜は何も珍しいことではないと思うけれど」
「そうか。……そうだな」
ヴァインスは一人頷いて、じっとミレイニアを見下ろした。
普段とは違う穏やかな眼差しを向けられ、流石にミレイニアも居心地の悪さを感じ目を伏せる。
立ち去るにしても、それはまるで逃げるようでミレイニアも面白くはない。
「……そういえばお前も二番手だったな」
「はい?」
「俺には兄上を押し退けてまで王位を得たいという気持ちがわからんな。何故お前はそんなにも必死になってリーゼロッテからその座を奪おうとする」
ヴァインスは肺に溜まった息を吐くと、壁に背を預け腕を組んだ。
飲み過ぎたというのは事実なのだろう。疲れた様子で肩を落とし、時折欠伸を噛み殺している。
酔っ払いの戯言として無視してしまってもいいのだが、ミレイニアはヴァインスと同様に壁に寄り掛かった。
「この国で一番の権力が、手の届くところにある。それ以上の理由が必要なのかしら」
「馬鹿を言うな。そんなもの、お前自身の願いではないだろうに」
「……何を仰るのかしら。私は」
「その権力を手にしたい理由は何だ、と聞いている。あんな椅子に、なんの意味がある」
ミレイニアはきつくヴァインスを睨み付ける。自分の存在価値を真っ向から否定されたようだ。
ヴァインスは価値がないと一蹴する物を、ミレイニアは必死になって求めている。
「そんな顔をするということは、お前自身その無価値さに気付いているということではないのか?」
「私は貴方の方が理解できないわ。レイノアール国は能力次第で第二王子でも王位を得られるのでしょう? 私とは違う。貴方は望めばあの国の全てが手に入るのよ」
「だから、それを望んでいないと言っているだろうが。兄上が王となり、俺とレオナルドがそれを補佐する。理想的ではないか」
「何故、そこで自分がと思わないのかしら」
「自分が王の器ではないと思うからだ」
当然のように言い切るヴァインスにミレイニアは目を丸くした。
ミレイニアも自分に国を治める能力があるか自信などない。しかし、それを理由にして諦められるようなものではないはずだ。
ヴァインスは戦を好む野蛮な王族。だから政治に興味がなく、王位も求めない。そんな単純な話だと思っていたのに、彼はミレイニアが思う以上に自分自身と国の未来を見据えている。
唐突にミレイニアは自分の浅はかさを恥じた。
彼女は今まで、一度たりとも自分が王位を得てグレインが王になった時の、国の未来など想像したこともなかったのだ。
「……私は、ただ認めて欲しいだけよ」
両腕を抱え、ミレイニアは弱々しく溢す。
彼女の願いは今も昔も変わることなくそれだけだ。
「御母様も、御姉様も、グレインも、みんな私のことなんて見やしない。昔からそうよ。私の価値は、この身に流れる御父様の血だけ」
沈黙が二人の間に落ちた。
ミレイニアは更に強く両腕を抱いて体を縮める。夜の空気がミレイニアの心ごと凍り付かせようとしていた。
体を擦るミレイニアに、ヴァインスは無言で正面から自分の上着を掛けてやった。
不意に訪れたぬくもりに、ミレイニアは顔を上げた。
「……少なくともリーゼロッテはお前のことを見ていただろう?」
「……知らないわ」
「そうか? ……ならばそういうことにしておこうか」
ヴァインスの視線は、いつも真っ向から向かってくる。
ミレイニアが彼の視線に居心地の悪さを覚える理由はそれだった。真っ直ぐに自分だけを見つめる視線は、ミレイニアにとっては不慣れなものであった。
「そろそろ俺は戻る。……何ならお前も一緒に部屋に来るか?」
「酔っ払いの戯言を相手にするほど私も暇ではないの」
「……そうだな。俺も随分と飲み過ぎたらしい」
ヴァインスは目を伏せ、それ以上は何も言わずにミレイニアへと背を向けた。
ミレイニアは自分に掛けられた上着を掴むと、立ち去ろうとするヴァインスを呼び止める。
「ま、待って! これ……」
「別に返さなくてもいい。レイノアール産だから温かいぞ」
ヴァインスは振り返らない。足も止めることなく、ミレイニアを置いて去っていった。
残されたのは、温もりだけ。




