願い、そして想い
アカネース国の王城の本来は国王が使用する執務室で、倒れた国王に代わりグレインが黙々と政務をこなしていた。
ミレイニアを妻とし次期国王としての期待を受けている身としては、王の代わりに仕事を任せられるのは望むべきところであった。しかし、本来の騎士団長としての仕事も普段通りに入ってくるため最近の忙しさは尋常ではない。
実際、最近は徹夜か一時間に満たない睡眠時間の日々が続いている。
「失礼致します」
ノックの音と共に、落ち着きのある小鳥のように愛らしい声が執務室に響いた。
グレインは書類に落としていた視線を上げると扉の方へと顔を向ける。時計を見れば、先程軽い食事を兼ねた休憩を取ってから三時間経っていた。
丁度良い頃合いだとグレインは息を吐くと、両手を大きく伸ばして表情を緩める。グレインが唯一自分を飾ることなく接することのできる相手の訪問は、安心以外の何物でもない。
「どうぞ」
グレインの声に導かれるように、扉が押し開けられ一人の女性が姿を現す。
緩い癖の付いた赤銅色の髪を高い位置で団子状に纏めあげ、両腕で書類を抱え伏せ目がちにグレインへと頭を下げた。
利発そうな眼差しをどこか不機嫌そうにしかめたまま、娘はたどたどしい足取りで執務机の前に足を運ぶ。
「ありがとう、ユレイネ。目が不自由だというのに資料探しなんて頼んでしまって悪かったね」
「いいんです。お兄様が大変なのはわかっておりますので」
ユレイネはリーゼロッテ同様に今年で二十歳になるフォドムス伯爵家の令嬢なのだが、生まれつき人並み以上に視力が弱くそれを理由に多くの縁談を断られてしまっていた。さらに視力が弱いせいで常日頃から眉間にしわを寄せているため、気が強い娘だと勘違いされてしまいがちであることも原因の一つである。
ミレイニアに婿入りをした際に、未婚の妹を心配しグレインが王城勤めを勧めた。フォドムス伯爵家と言えば多くの有力騎士を排出しており、現国王の姉が嫁入りをした家でもあるためその程度の希望であれば問
題なく叶えられた。
さらには視力の弱い彼女のために配慮され、主な仕事として与えられたのはグレインの秘書業務であった。そこまで優遇されているのも、グレインの力である。
「それに何かさせていただかないと、折角お兄様のご厚意でお仕事頂いているのですから居心地が悪く思えます」
「ユレイネが気にすることではないよ。どうせ領地にいたってあの女と顔を合わせるだけで嫌味の毎日だろう? だったら、多少居心地が悪くてもこちらにいる方がずっといいと思うが」
ミレイニアに見せるよりもずっと穏やかで飾り気のない笑みを浮かべると、グレインは椅子に腰掛けたままユレイネの手から書類を受け取り労うように彼女の腕にぽんと触れる。
嬉しそうに目を細めると、ユレイネは上着の中から菓子の包みを取り出すとグレインへと差し出した。
「よろしければどうぞ。私が作ったものなのでお口に合わないかもしれませんが……」
目の前に立つユレイネの目に、自分の顔がどの程度はっきりと認識できているかグレインにはわからない。きっと、本来の自分自身よりもよほど素敵な兄が彼女の靄の掛かった瞳に映っているのだろう。
甘い香りが漂う包みを、グレインは微笑と共に受け取った。掌から重みが消え、ユレイネはほっとした様子で息を吐く。
笑った顔は僅かにだが自分の母親に似ている、とグレインは思う。
それは現在グレインへ早く子を作れと急かす後妻ではなく、幼い記憶の中だけで生きる本当の母親の姿だ。
目元が良く似ている。それも、当たり前かもしれないのだが。
グレインはユレイネに気づかれぬように苦笑を溢した。
王座が近付いてくるにつれて、亡くなった母親を思い出すことが増えてきている。長年の望みが叶おうとしているからか、随分と子供じみた感傷に捕らわれてしまっているらしい。
「……ユレイネ、ようやく俺たちの願いが叶う」
「はい、お兄様。母様達も、きっと報われます……」
グレインの前では険しい表情を見せることなく、ユレイネは本心からの笑顔を浮かべることができた。そしてそれはグレインにも同じこと。偽らざる本心は、ユレイネだけが知っている。
僅かではあるが母に似た微笑みの欠片を持つユレイネには、いつも笑っていてほしい。ミレイニアには底の見えない男と評されているグレインの、これは正直な願いであった。
「本当はお前にもちゃんとした嫁ぎ先を見つけてやりたかったんだがな。不甲斐ない兄を許してほしい」
「そのようなこと! 昔から申し上げているではありませんか。お兄様の願いは私の悲願でもあります。それをお側で支えていけるのでしたら、誰に何を言われようとこのままで構わないのです」
強くそう断言し、ユレイネは揺るぎない眼差しをグレインへと向けた。靄が掛かった薄暗い世界で、彼女に灯った唯一の道しるべとなる灯りがグレインであったことは、ユレイネにとって幸せであったのか不幸であったのかはわからない。
再び謝罪の言葉を口にしようとしたグレインを制するように、ノックと同時に扉が開かれた。
「失礼するわ、グレイン。今度のレイノアールとの合同演習についてだけれど……あら、ユレイネ。ごきげんよう」
「ミレイニア様、失礼しております」
両国間で詳細を示した書状に目を通しながら執務室に足を運んだミレイニアは、先客の姿をその瞳に捉え、ゆったりと膝を折ってみせた。すかさずユレイネも礼を返すと、数歩下がってグレインの前から身を退けた。
おそらくユレイネの目には部屋の入り口に立つミレイニアなど見えていないのだが、優雅に流れる声を耳にすればそれが義理姉であることはすぐにわかった。
ミレイニアもユレイネの事情は当然知っていた。そもそも、ユレイネの母親はデュッセルの姉でありミレイニアにとっては従姉妹にあたる人物だ。グレインの妹として紹介される前から、彼女が生まれつき視力が弱いことをミレイニアは耳にしている。
普段であれば足音を響かせないよう歩くところを、わざと少しだけヒールの音を響かせながらグレインの前に立つと手にしていた書類を執務机の上にそっと置いた。
「参加者の一覧を見たけれど、向こうは第二王子と第三王子が揃って来るそうじゃない。警備の方は問題ないのかしら? 二人に何かあればレイノアール国から攻め入られる良い口実となってしまうわ」
「私だって正直なところどちらかお一人……というよりもリーゼロッテ様を伴ってレオナルド王子に来ていただければ十分と思っておりましたよ。ですが、あのヴァインス王子がご兄弟の中で軍事に関して発言力が強く、外すわけにはいかなかったのです」
グレインは頭を抱えて溜め息を吐いた。
合同演習の締結の際のやり取りを思い出すだけで頭が痛くなる。
ヴァインスという男は、粗野で荒々しい野獣のような印象を与えてくる割に、物事の考え方が直情型ではなく理性的であるという非常に厄介な男であった。
自分自身が演習に参加したいというのはもちろん嘘ではなかっただろう。そこで自分だけではなくレオナルドも同行させれば、アカネース国へ掛かる負担が大きくなることを理解している。さらに、レオナルドにはリーゼロッテも同伴することとなる。アカネース国としては形式上でもレオナルドは歓迎すべき相手であり、提案されれば断るわけにはいかなかった。
季節柄レイノアール国での開催は難しいのではないかと提案したときにあっさりと頷いた姿は、戦いばかりを好みそれ以外については関心のない男かと思ったものだが、ヴァインスはそう単純な男ではないらしい。
演習時の武器や食料はアカネース国での負担となり、加えて要人二名の厳重な警備体制も敷かなければならない。アカネース国内には今でもレイノアールとの再戦を狙う輩が少なくはない。グレインもその一人ではあったが、今はその時ではなく、余計な動きは避けたいところであった。
ヴァインスのせいで、レイノアール国が負担する部隊の移動に関する費用や王城の兵士の減少における国力の低下に対しても、釣り合う程度の負担がアカネース国にも要求されてしまった。
「信用ならない者たちには理由を付けてしばらくの間王都から出ていてもらうことにします。これはデュッセル様にもご相談し、了承も得ております」
「そう。例えば、向こうの王子たちを邪魔物だと思っているレイノアールの人間が、私たちアカネースのせいとして彼らの暗殺を狙うような事態は想定しているかしら?」
「王子たちには信用できる者と城内の空いた部屋に滞在してもらうようお伝えしてあります。それで何かあるようなら向こうの責任でしょう。それはヴァインス王子も納得していますよ」
納得はしきれない様子で眉をしかめ、嘆息の後にミレイニアは頷いた。
ミレイニアの頭で思い付く限りの問題は、とっくにグレインが対策を練りヴァインスに提示している。事前に相談の一つもないのがその証拠だ。
元々お飾りの王女でしかない。ミレイニアの価値は、その背に付いてくる王座でしかない。
「……なら、御姉様から王印を奪い取る機会もあるのでしょうね」
ミレイニアの挑発的な言葉に反応を見せたのは、グレインではなく控えていたユレイネであった。普段以上に表情を険しくし、しかしミレイニアに見えぬようにと顔を俯けている。
口元に微笑を浮かべ、グレインは肯定も否定もせずミレイニアを真っ直ぐに見上げた。動じることのないグレインの張り付いた微笑を前に、ミレイニアはまさかと思いながらも一つの疑念を抱いてしまう。
「……まさかとは思うけれど、グレイン。貴方、御父様に毒を盛るような真似はしていないでしょうね?」
突拍子もない発想だと笑い飛ばされてもおかしくないミレイニアの言葉。しかしグレインはそれを笑い飛ばすことなく、困ったように肩を竦めた。
「貴方に疑われるわけにはいかないので正直に話しますが、確かにデュッセル様が床に臥せれば私にとってメリットは大きいでしょう。ですが、それ以上のデメリットがある。私が手引きしたわけではない理由はそれで十分だと思います」
凍り付いたように動かぬ瞳に見上げられ、ミレイニアは小さく息を呑んだ。
デュッセルの不調で一番の被害を被っているのは自分だ、と責めるような眼差し。
「それに貴方も知っているでしょう? 私がどれだけ王座を欲しているのかを。それを思えば、現王の命を狙うことに意味がないことは明らかでしょう」
「……そうね。悪かったわ。私も御父様が倒れたことで動揺してしまったみたい」
グレインがミレイニアを言葉で明確に責めることはない。ただ、遠回しな表現と目線で不満を訴えることは多い。
所在無さげに髪を掻き上げ、ミレイニアは窓の外に目をやった。雪原に似た雲が空を覆っているが、王都近辺で雪が降ることはない。
レイノアール国で見上げた空も似たような色をしているというのに、何が違っているのかミレイニアにはわからなかった。
雪に覆われた寒国から来る王子達の顔を思い出そうと目を閉じた。
人々から好奇の目に晒され貶められたリーゼロッテを守ろうと必死になっていた若い横顔。第三王子は自分よりも年下でどこか自信のないような顔をしていたけれど、人々の前でリーゼロッテの靴を脱がした時の姿は堂々としたものだった。
そして、もう一人。獣のような笑顔が印象的な、無礼で粗野な第二王子。
マリーゴールドの花を、ミレイニアの誕生花をその花言葉ごと美しいと言った変わり者の男。
北風が胸に空いた穴を過ぎ去っていくようなざわめきが、ミレイニアの体を冷やしていった。
アカネース国に向かう道中で、レオナルドとリーゼロッテをのせた馬車は不規則に揺れながらまずはオズマン領を目指していた。レイノアールからアカネースへ入ったとしてもまさか一日で王都に着くことは出来ない。そのため、最初にオズマン領へと入り今後の道筋の確認や食料の補給をする手筈となっていた。
「久しぶりの故郷はどう?」
目の前に座っていたレオナルドに問われ、リーゼロッテは曖昧に頷いた。
帰ってきたという感慨もなければ、二度と戻りたくなかったという強い恨みもない。
ただ漠然と、必要があるから訪れただけという使命感だけが胸にあった。
「……そうだよね。別にリーゼにとっていい思い出があるわけではないから思うところもないか」
「はい。……ただ、父の病状については気になります」
彼女の口からそのような言葉が出てきたことに驚いた。レオナルドは隠すことなく驚きの視線をリーゼロッテに送る。
しかし彼女はそれに気付くことなく、目を閉じたまま困った様子で頬を緩めた。
「少なくとも私がこの国にいた時は父は病気の兆しがありませんでした。それがこんな急に体を壊すだなんて、何か嫌な予感がします。……と、こんな心配しか出来ない自分自身に嫌気が差します」
自虐的に微笑むと、リーゼロッテは肩を落とした。
娘として父親を心配したのではない。リーゼロッテはアカネース国の元王女として、そしてレオナルドの妻として国王の体調悪化を不審に思っている。
薄情ですね、と呟いたリーゼロッテの膝で握り締められた拳を、レオナルドは両手で掴んだ。
「……それでもいいよ」
そんなことはないよと言って慰めるのは簡単だった。
だが、リーゼロッテの言動が薄情であることは事実であったため、嘘をついて慰めたいとは思わなかった。
顔を上げたリーゼロッテは、驚いたように目を丸くしている。
その瞳に向けて、レオナルドは子供のように無垢な笑みを向けた。
「それでもいい。リーゼが薄情だったとしても、僕はそんな君でも好きなんだ。自分のことを薄情だと認めて、その事実に胸を痛める。……そんなリーゼでいい」
「……本当にレオン様はずるい方です」
「ずるくないよ。本心だ」
レオナルドの手に指を絡めるようにして握りしめ、リーゼロッテは溢れるような微笑みを見せた。
側にいるだけでリーゼロッテの心には温かな火が灯る。
極寒の雪国であろうとも、彼女の心が凍りつくことはない。
「レオン様、アカネース国に入る前に渡しておきたいものがあります」
リーゼロッテは片方の手は繋いだまま、片手で肌身離さず持ち歩いていた小さな袋を取り出した。
その袋を握らせるようにしてレオナルドの手で包み込ませた。
ずしっと手にのし掛かった重みからは中身の見当が付かず、レオナルドは首を傾げた。
「これは?」
「王印です」
あっさりと答えられてしまい、レオナルドは絶句する。
王印の意味を知らないレオナルドではない。これはアカネース国にとって次期国王を決める手段となる重要な代物のはずであった。
慌てて突き返そうとしたレオナルドの手を両手で押さえ込み、リーゼロッテは有無を言わせぬ微笑みで頷いた。
「私が嫁ぐときに御父様は王印を返すようには命じませんでした。きっと次期国王に揃った王印を渡すつもりはないということでしょう」
「いや、でも、だからといって僕が持つのはおかしいんじゃない? これはアカネースの王に与えられるものだよね」
「そうです。第一子が娘であるのなら、王印の片割れは王女が認めた者に授ける。それがアカネース国の習慣です」
「だから、僕が持つわけには……」
もしもの話ですが、と前置きしてリーゼロッテは両手に力を籠めた。
「私はレオン様でしたらアカネース国の王座を預けてもよいと思っていますよ」
冗談ではないことはリーゼロッテの目を見れば明らかであった。
レオナルドはどう返事していいのかわからずに顔を背けた。
「実際、私が持つこの王印に王を選ぶ意味はないでしょう。ですが、アカネース国に戻ればそうはいきません」
「……それは僕にこの王印を守ってほしいということ?」
自分の意図を掴み取ってくれるレオナルドに満足そうに微笑んだ。異性としてだけではなく、同じ境遇を生き抜くパートナーとしても絶大な信頼を送ることが出来た。
「父に託された王印を奪われるわけにはいきません。私が持っていては隙を見て奪おうとする者が必ずいるはずです。ですから、どうかレオン様、私からの証だと思って、受け取っては頂けませんか?」
この王印はきっとレオナルドにとって指輪と同じ意味を持つのだろう。
相手を心から信頼しなければ託すことなどできはしない。
レイノアール国に嫁いだリーゼロッテの持つ王印自体には大きな意味はないかもしれない。しかし、それをレオナルドに守ってほしいと言ってもらえたことは純粋に嬉しい。
手のひらにのし掛かる金属の重み。リーゼロッテの手ごとぎゅっと握りしめるとレオナルドは目を閉じてリーゼロッテへと顔を近付ける。
リーゼロッテもまたきゅっと目を閉じると、レオナルドに応じようと少しだけ顎を上げる。
まだ慣れておらず、躊躇いがちにリーゼロッテの唇に口付けを落とした。そのままリーゼロッテの額に自身の額をこつんと押し当てる。
口付けよりも不安そうに瞼を持ち上げ、レオナルドは至近距離で鮮やかな海で包み込んだリーゼロッテの瞳を覗き込む。
「……目、開けてたの」
「すみません、レオナルド様のお顔が見たくなってしまって」
「……なにそれ」
額を合わせたまま、レオナルドは逃げるように目を伏せた。
冷たい王印と、温かなリーゼロッテの手。両手でしっかりと包み込んで、レオナルドは目を開けたまま今度は躊躇うことなく乱暴にリーゼロッテの唇を奪う。
レオナルドの行動が予想外だったのだろう。触れあった唇から、リーゼロッテが息を呑むのがわかった。
驚きに身を引こうとするリーゼロッテの腕を掴むと、レオナルドは自分の胸の中へと引き寄せた。
今までで一番長い口付けを前に、じわじわと染まっていくリーゼロッテの頬。相手のこんな顔を見られるのなら、目を閉じなかったリーゼロッテの気持ちもわかるような気がした。
互いに見つめあったまま、真っ赤な顔同士でどちらともなく顔を離す。どちらも茹で蛸のようで、お互いに堪えきれず吹き出してしまった。
「王印だけじゃない。リーゼごと、守ってみせるから」
照れることなく告げられたレオナルドの言葉は、どこまでもリーゼロッテの心に寄り添う。
アカネースの人間が今のリーゼロッテを目にしたら、その人間らしい表情に驚くことだろう。今までの彼女は微笑み一つとっても人形のように心が見えず、怒りや悲しみなどは浮かべたことがない。
そんな彼女が普通の娘のように頬を染め、幸せそうに微笑んでいる。レオナルドに触れられるだけで、困ったように目を伏せる。誰が彼女のそのような姿を想像できるだろうか。
今、目の前でリーゼロッテが飾り気のない笑みを浮かべている。それがどれ程の奇跡なのかレオナルドは知らない。
そして同時に、アカネース国がリーゼロッテにとってどれだけの危険が潜んでいるのか、レオナルドは本当の意味で理解していなかった。




