帝国の油断
帝国軍の野営地では、他国の中にいるというのに緊張感を持つ様子なく談笑している兵士達の姿が目立った。
今回の侵攻の指揮を任されたセドリックは彼らの様子を見渡し、重い息を吐いた。
年齢は二五となったばかり。帝国内の有力貴族の次男であり、指揮官として戦場に出た回数はまだ数回と経験が浅い。
また、彼自身が特に目立った功績を上げているわけではないため、兵士達の信頼が厚くない。
部隊の士気が高まらないのは当然の結果といえた。
「……浮かない顔ですな」
背中から声が掛かり、セドリックは慌てて振り返った。
彼に声を掛けたのは、髪のほとんどが白に染まった老齢の男性であった。
「ギュストか。……この有り様の前では気も重くなるさ」
長く自分の父に仕えている騎士を振り仰ぐと、セドリックは呆れた様子で肩を竦めてみせる。
「ソノンの遊牧民族を格下なのだと決め付けて油断しきっている。確かに我々は彼らに圧倒しているが、それはあくまでもこの数の話であって個々の力量を考えれば油断して良い相手とは思えない」
「仰りたいことはわかりますが、数の差は簡単には覆りませんよ」
不安に表情を曇らせたセドリックを安心させるようにギュストは微笑む。
しかし、彼の顔色は相変わらずの曇り模様で、重々しいため息は止まらない。
ギュストの言い分はわかっている。
今までの侵攻からもソノンの部族規模が百人程度であることは判明しているため、十倍の数を集めた部隊を編成している。圧倒的な数で攻めるのは正攻法だ。
ソノン侵攻のたびに、大した策も用意せずただ数の暴力で勝利する。いつものことではあるが、決まりきった作業となってしまった。
毎回同じように数を集め、何も考えず相手を叩く。
それは当然、油断に繋がる。
いつかその油断が大きな失敗に繋がるのではないかと、漠然とした不安が拭いきれない。
この心配性が、他の兵士達に舐められがちな理由でもあった。
「今までが成功だったからといって、同じことを続けて勝ち続けられる保証はない」
「セドリック様の仰りたいことはわかります。ですが、あまり人前では口にしないように」
帝国兵としての誇りを持った者が多い部隊でそのようなことを口にすれば、更に兵士達の心が離れるのは明らかであった。
わかっている、と頷いてセドリックはソノンの空を見上げた。
今回の遠征ではまだ一つも部族を制圧できていない。このまま帰るわけにもいかず、しかし不安は拭えぬまま、セドリックは目の前の現実から逃げるように目を閉じた。
「セ、セドリック様!」
彼の心の平穏を打ち砕くように駆け寄ってきた若き兵士は、重い甲冑だけが原因とは思えぬ様子で息を切らし、倒れ込むようにしてセドリックの目の前に膝を付いた。
尋常ならざる雰囲気にセドリックは眉をしかめる。隣はギュストも同様にして表情を険しくしていた。
「何事だ。申してみよ」
「はっ! 食料補給部隊が山賊に襲撃され、今回補給分は全て奪われたとの報告がありました!」
「なんだと! 我が軍はそれでは三日と持たないではないか……!」
補給は五日に一度のペースで送られている。多少の遅れがあっても良いように調整はしているが、一度の補給を抜いてしまえば大軍の維持は難しい。
本日中に部隊を纏め直し、一旦本国に近い場所へと体制を立て直せば良いのだが、目立った成果のない現状で引き返すのは兵士達からの不満が出そうだ。
「しかし、補給部隊が襲われるなど今まで一度もなかったではないか……」
「生き残った者の話によると、山道の中の両側を崖に挟まれた一本道で、崖上からの総攻撃を受けたとか……」
兵士の報告にセドリックは親指の爪を噛んだ。
これもまた、ソノンという土地に対する油断だったのだろう。
おそらく、数では補給部隊が勝っていたはずだ。敗因は慣れと侮り。
セドリックは険しい表情で周囲を見渡した。
離れた位置で談笑している兵士達には、この報告は聞こえていない。呑気に酒を飲んでいる者もいる。
「最悪食料はこの辺りの獣を捕るなり果実を集めるなりすれば次の補給まで繋ぐことは出来る。だが、戦うべき相手を探しながら何日もただ疲弊していくというのは……」
セドリックが一人ぶつぶつと呟いていると、更に新たな兵士が高揚とした表情で駆け込んできた。
「セドリック様、朗報です!」
生気に満ちた兵士の眼差しに、セドリックは嫌な予感を走らせる。
彼の心は撤退に傾いていた。食料不足が目に見えており、この先の方針もただ無作為に索敵の足を進めるだけ。
ならば一度、兵を退いて万全の状況に戻すべきではないのか。
しかし、その決断は新たに持ち込まれた報告の前では決して口に出せないものへと変わってしまう。
「斥候部隊から、前方にソノンの民とみられる集落を発見との報あり!」
高らかに放たれた兵士の言葉は、セドリックから離れた場所の兵士達の耳にも届いた。
待ちくたびれた朗報を前に色めき立つ部下達の歓声の中、セドリックだけは一人頭を抱えていた。
母国を離れた遠征で、その上格下の遊牧民族を相手にするとなれば気が乗らぬ兵士も少なくはない。
それでも、実戦を交え戦果を得られるからこそやる気も出てくるもので、その戦ですら始まらないとなれば彼らの不満も水で満ちた杯のように限界に達してしまう。
その中で、ようやく届いた敵部族発見の報。
帝国兵達は待ち望んでいた吉報に喜びを隠しきれずにいた。
「あーあ、集落見つけたのならすぐにでも出撃すればいいのに」
「本当だよ。セドリック様は何を心配しているのやら」
セドリックよりも何歳か年上の兵士達が文句を言いながら部隊に設置されている食物庫へと向かっている。
集落発見の報を受け、セドリックは出撃準備を言い渡す前に現在の武器と食料、そして医療品の在庫の確認を命じたのであった。
補給部隊襲撃の報は兵士達に伏せていたため、彼らはまたセドリックの心配性が始まったのだと揶揄する声を止めることはしない。
「我が帝国軍がこんな小さな草原の部族に遅れを取るわけがないだろう」
「仕方がない。セドリック様はまだまだ経験の浅い御方だ。我らと奴等の力量の差もわかっていないのさ」
二人は互いに目を合わせ、潜むように笑みを溢した。
確かにセドリックは高貴な家柄であるかもしれない。しかし、戦場に出てしまえば血筋など関係はない。
現にセドリックよりも戦果を上げている二人にとっては、セドリックは敬意を払う対象とはいえなかった。
彼らが任されたのは食料庫の在庫確認。
やる気のない様子で無駄口を叩きながら食料を保管している荷車の前にやってくると、前で番をしている兵士へと声を掛けた。
「変わったことはないか?」
あるわけがない、とわかってはいたが、形式的に男は尋ねる。
見張りを担当していた兵士は帝国式の手のひらを見せる形の敬礼を綺麗に決めて、男の問いかけに応じた。
「はっ。特に変わりはありません。しかし、お二人がこのような場にいらっしゃるだなんて」
「セドリック様の命でな。在庫の調査だ」
見張りの兵士は目深に被っていた甲冑の奥から面倒臭そうに肩を落とした男を見上げ、見張りは切れ長の瞳に不安の色を滲ませた。
隣に立っていた男が、見張りの不安そうな様子に気付き明るい声を上げた。
「何、心配することはない。これからソノンの集落を襲撃するのだ。そのために現状の確認をしたいのだろう」
「別にそんなことしなくとも、我らが負けるなどあり得ないだろうに」
笑い合う二人を見上げ、見張りはおずおずと口を開いた。
「あの、そのような雑務でお二人の貴重なお時間を取らせるわけにはいきません。私が代わりに調査し、ご報告させていただきます」
「申し出は有り難いが、しかしなぁ……」
と、口にはするものの男の目は笑っている。
もう一人に至っては、反論の言葉すら口にしない。
畳み掛けるように見張りは言葉を続けた。
「出陣が近いとなれば、私のような者とは違いお二人にはやらねばならないことが山積みではないのでしょうか? 我らの完全なる勝利のためにも、雑務は私にお任せください」
二人は互いに顔を見合わせ、深い笑みを浮かべる。
提案をしたのはこの見張りの兵だ。自分達から命じたわけではない。積極的に仕事を引き受けようとする下級兵士の厚意を無下にするのも悪い。それに、この程度の仕事を確かに自分達が行うのは時間の無駄だろう。
様々な肯定的な理由に後押しされ、男達は揃って見張りの肩を軽く叩いた。
「そこまで言うのであれば、任せようじゃないか。お前のようなやる気のある者がいてくれて嬉しいよ」
「そうだな。俺達には確かにこのような雑務に掛ける時間はない。何せ、目の前に敵が迫っているのだからな」
気分良く笑い声を上げながら荷車に背を向ける二人。
離れていく二人が見えなくなるまで見張りの兵は敬礼をし、その姿が見えなくなると一度俯き甲冑を被り直した。
目元に影を落とす甲冑の下、先ほどまでの気弱な色の消え去った真冬の冷たさを思わせる瞳が荷車を捉えた。
周囲の視線も気にすることなく、堂々とした態度で見張りは荷車の中に足を運ぶ。
薄暗い荷車の中、ざっと周囲を見渡して見張りは僅かに口角を吊り上げた。
「……!」
荷車の中には、甲冑を剥がされた男が両手両足を縛られ、口に布を噛ませられた状態で転がされていた。
逃げ出そうともがいたところで、固く縛られた縄は緩まず、頑丈に作られた荷車は微動だにしない。
縛られた男は視線だけで人一人殺せそうな目で荷車に入ってきた人間を睨み付けたが、構うことなくその者は甲冑を頭から外すと転がる男の隣に放り投げる。
「安心して良い。殺すつもりはない」
冷たい声が静かに響く。
甲冑から現れたのは、柔らかな金色の髪とエメラルドのように無機質な色の瞳を持つ美貌の人物であった。
それが先ほど山賊を装い帝国軍の補給部隊を強襲し、報告のために帝国の陣へと向かう生き残りの後を付けて陣内へと潜入したイヴァンであることは捕らえられた男には知る由もない。
念のためにと白に近い金色の髪を濃く染め、荷車の見張りをしていた男の甲冑を奪い帝国軍に紛れ、長時間食料庫に入る機会を伺っていたのだ。
「私も自分の仕事を終えたらすぐに消えるよ。あまりのんびりもしていられない」
独り言のようにそう口にすると、イヴァンはそれ以上男には目を向けず、保管された食物にざっと目を通した。
広い荷車の中、ゼジク族であれば一週間は生活の出来そうな量の食料が保管されている。しかし、部隊の規模を考えると心許ない。
どこから順に口を付けていくのか、流石にイヴァンでもわからない。すぐにでも出陣しそうな雰囲気を醸し出している今、すぐに部隊の口に入るものを選びたい。
そうなれば、選ぶべき対象は絞られる。
イヴァンは明かりのない荷車の中、目当ての品を発見した。
水の入った樽だ。
何百と並べられている樽を前にイヴァンは一人笑みを浮かべる。
水は誰もが確実に口にする。特に土地勘の無い人間にとっては、安全な飲み水の確保場所などわからないため慎重になるのは当然であった。
イヴァンは事前に用意していた毒を取り出すと、樽の蓋を開けると数滴を垂らし水面を揺らした。
少量でも強烈な腹痛を誘う薬だ。この数滴が樽の中の水に行き渡れば、口を付けた者は一日のうちに体の不調を訴えるだろう。
一樽ずつ蓋を開けて毒を垂らしていくイヴァンの姿を見つめることしかできない男は、うぅと唸りながら拘束から逃れようと暴れだす。
ほどけぬように縛ってあるので心配はないが、あまり暴れられると騒ぎに気付いて人が来るのかもしれない。
「……後にしようと思ったが、暴れられても困る」
イヴァンは目の前の樽の蓋を閉めると、転がったままの男の元へ足を向ける。
敵意に満ちた眼差しに睨まれても構うことなくイヴァンは男の肩を掴むと、そのまま俯せになるように体勢をひっくり返し、肩甲骨の間を自分の膝で押さえ付けた。
背中に受けた衝撃に男は声を漏らしたが、口に布を巻かれているため声にはならなかった。
男の背に乗ったまま、イヴァンは懐から先ほどとは別の薬品の入った小瓶を取り出した。その薬品を用意していた布に浸すと、男の鼻にその布を押し当てた。
「……! ……ふっ、……!」
逃れようともがく男の肩を空いている手で押さえ付け、布を強く男の鼻へと押し付けた。仄かに薫る甘い香りが、本能的な危機感を誘う。
必死で息を止め、瞳に涙を溜めて抵抗する男だったが、いつまでも息を止め続けることは出来ず甘い毒を吸い込んでしまった。
ゆるゆると目を見開き、次第に光を失っていく。
ぼんやりと虚空を見上げる男の鼻から布を離すと、イヴァンは小さく息を吐いた。
「半日ほど意識を飛ばす薬だ、死にはしない。まぁ、前後の記憶は曖昧になるし、判断力も大分鈍るからお前達の国では確か禁止薬物だったな」
独特の甘味を持つ薬物だ。おそらく、男も布を押し付けられた瞬間にこれが何かを察しだのだろう。
イヴァンは手にしていた小瓶を男の手に握らせると、再び並んだ樽の前へと移動する。
この状況を人が見れば、男が人目を忍んで禁止薬物に手を出したように見える。更にこの後、水に混入した毒物が判明すれば、疑われるのはこの男だろう。
戦を前に軍の中に裏切り者がいるという状況は、味方同士を疑心暗鬼に陥れ、著しい士気の低下を招くはずだ。
些細ではあるが少しでもゼジク族の勝率が上がるのであればイヴァンはその種を蒔く。
それも全てはレオナルドのため。
レオナルドに救われたこの命。今さら惜しむこともない。
黙々と樽に毒を入れていくイヴァンの頭に、ふと過るのはジョルジュの瞳。
ソノンに来てからは、顔を隠す必要が無くなったためか常に仮面を外している。前々から一度はリーゼロッテに素顔を見せておきたいとは聞いていたため驚きはしなかったが、動揺は隠しきれない。
火傷に覆われた彼の顔を前にして、イヴァンも冷静ではいられない。
「……無事だろうか」
敵陣への潜入の最中でも、自分のこと以上に心配になるのはジョルジュの安否。
彼もまた敵陣付近で罠を仕掛けるという、斥候に見つかる危険ある任務の最中なのだ。危険は然程変わらない。
イヴァンはきつく拳を握りしめ、思いきり首を振った。
こういった時に、女に生まれたことを後悔する。どれだけ男のように振る舞っても、自分の中の女を否定しても、ジョルジュへと向ける想いは誤魔化すことが出来ない。
例えば、遠い未来、戦をすることがなくレオナルドの安全も保証されるような未来が来たとしたならば。
その時、ジョルジュとイヴァンが共に生きていられたのなら。
「……そんなこと、考える時点で馬鹿げている」
弱々しく口角を吊り上げて、イヴァンは俯きかけていた顔を上げる。
例えばそんな未来が来るとしても。
イヴァンが今成すべきことは、目の前の問題を解決するために手を尽くすことだけなのだ。




