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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
5章.広い空の下駆ける想いは
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戦闘準備


 数の差は圧倒的。

 状況は絶望的。

 しかし、それを理由にしていつまでも圧倒的軍勢の前に尻尾を撒いて逃げるのか。

 彼らの答えは否であった。


「こうして見ると多いな……」


 帝国軍が陣を敷く平野を見下ろせる山道の途中で、フィグは重い息を吐いた。

 眼下に広がる平野を埋め尽くす天幕の数の前では、威勢の良いフィグでも気が重くなってしまった。

 しかし、それ理由に士気の下がる男ではない。

 連れてきた仲間たちを鼓舞するように豪快に笑ってみせた。


「だが心配は無用だ! 勝利は俺たちの働きに掛かってるんだ。これほど心躍る役回りはないだろう」


 数名の部族民たちは互いに顔を見合わせ、緊張が残った表情に笑みを浮かべた。

 笑うことで僅かばかりであるが不安を断ち切れると、フィグを真似るように表情を和らげる。

 笑みを浮かべる男たちを少し外れた場所から眺めているのは同行したイヴァンであった。

 これから彼らは帝国軍の補給路を予測し、賊を装って補給部隊を強襲する手筈となっている。

 大軍を率いての進軍に食料不足の危機を迫らせ、帝国軍が撤退の選択をするのであればそれで良し。尚も進軍の構えを見せるようであれば残りの食料に工作を仕掛ける。

 そしてその後は、帝国軍を引き付けて防衛線として設定した川岸へと誘導し、戦場として設定した地点でゼジク族が待ち構えることとなっている。

 その際には敢えて森の中を進み、大軍を狭い木々の間に誘導する。それにより、川岸に帝国軍が面で進軍することを防ぐことを狙っていた。

 面ではなく線として川岸に帝国が姿を現せば、数が劣るゼジク族でも集中砲火を浴びせることが可能である。尚、この時囮となったフィグ達は川を渡らず森に潜み、木々の間から帝国軍に攻撃を仕掛ける。当然単身での戦闘となるため、一撃離脱を徹底し敵が潜む森の中に追い込まれたのだと相手に勘違いさせることを目的としている。


「イヴァン、どうかしたのか?」


 仲間たちに短い時間ではあるが休息を取らせ、フィグは離れたイヴァンの元へと歩み寄る。

 イヴァンは静かに首を振ると、再び視線を眼下の帝国軍へと戻し短い息を吐いた。


「リーゼロッテ様の仰る通り、帝国軍はどうにも統率が取れていないように見えますね」


 イヴァンの言葉に導かれるように、フィグも部隊を広げる帝国軍を見下ろした。

 初見ではその数の多さに圧倒されるが、疎らに張られた天幕に、離れて設置されている武器庫と食物庫。それら倉庫には大した見張りも付けておらず、見るからに新兵と思われる少年がそれぞれ二人付いているだけ。


「あぁ。別にそれは珍しいことではないさ。帝国軍は俺たちのような少数部族なんて、数で叩けばいいと思っている。だから毎回大軍を率いては来るものの、力押ししかしてこない。わかっているからこちらも基本的には逃げるが一番の対抗策なんだ」


 フィグの言葉にイヴァンは頷いた。

 帝国軍は数が多く、それだけで十分にソノンの部族を圧倒している。仮にソノンの民を討ち洩らしたとしても深追いの必要はなく、一度撤退し再度遠征を行えば良いだけのこと。特に執着も見せては来ない。

 ソノン草原への侵攻は、帝国にとっては領土拡大の意味もあるが戦闘訓練の側面もある。大きな痛手を負わない限り、帝国には深追いの理由はないのだ。

 ならば、その特性を利用しない手はない。

 まずは食料確保の手段を絶ち、保持している分についても工作を行う。


「とにかく撤退したくなる理由を重ねていくというのが重要になるってことだな……。しかし、あの姫様はなんだ? 戦場に出たことでもあるのか?」


「まさか。リーゼロッテ様は精々護身術が出来る程度ですよ」


 納得がいかない様子でフィグは自分の顎を撫でた。

 森を通って川沿いに帝国を誘い込み帝国軍の兵力を分散させるのはリーゼロッテの案である。

 提案をした彼女の毅然とした態度を思い出し、フィグは益々首を傾げた。


「本当か? そうは思えなかったがな」


「ご本人も仰っていたでしょう? 所詮は机上の空論でしかないと。それでも彼女の先を見通す能力は信用してもいいと思います」


 戦場に出た経験はないが、他人の心を読み解き、相手の狙いを察し、身を守るために策を巡らすことは彼女が生まれてからずっと行ってきたことだ。帝国軍の狙いがわかっているのであれば、少ない手札から何を選ぶべきかは自然とわかってくる。

 イヴァンは、その経験を信用している。

 生きるために知恵を巡らせてきたという意味では、戦場も城内も変わりはない。

 イヴァン、そしてジョルジュも特にリーゼロッテの提案に異論を示さなかったのがその証拠だ。


「まあ、武力がなければ人を指揮してはならない道理はない。俺は赤の他人の俺たちのために真剣になってくれたあの姫様を信じてやるさ」


 気前良く頬を緩めたフィグに向けて、イヴァンも僅かばかりの微笑を溢した。




 天幕の張られたままのゼジク族の集落は、いつものように女性が家事をし男性はどこかに出掛けているようであった。

 それは別段普段と代わりのない光景。

 唯一の違和感といえば、普段であれば家の外で遊んでいる子供達の姿が見えないことだろうか。

 ある天幕の中から、一人の男の子が飛び出してきた。オルソである。

 オルソは、木製の大きな椀を腕に抱え、族長の天幕に飛び込んでいった。


「じじ様! 終わったよ!」


 族長の天幕の中では、ゼジク族の衣装に着替えたリーゼロッテと、他にも同じ年頃の娘たち数名が口元に布を巻いて彼女たちの胸の高さまである巨大な鍋の前で動き回っていた。


「オルソ、ここに入るときはちゃんと口隠しなさい! クサラギの臭いにやられるわよ」


 小柄な娘が体に反して大声を上げ、オルソは慌てて近くにいたリーゼロッテに椀を押し付けると慌てて両手で口を覆った。

 オルソが持ってきた椀の中からは酸味と甘味の混じった葡萄と良く似た匂いが放たれている。まさか、この果汁が毒性を持っているとは思えない芳香であった。


「オルソ、ありがとう」


「うん!」


 リーゼロッテに軽く頭を撫でられ、オルソは満面の笑みで頷いた。

 受け取った椀の中身を鍋に移し、リーゼロッテは空になった椀をオルソに返す。それを大事そうに抱え、オルソは再び出ていった。


「王女も一度外に出た方がいいよ。もうずっと中にいるでしょう?」


「そうよ。クサラギは臭いだけでも気分悪くなるんだから」


 娘たちに勧められ、リーゼロッテは会釈とともに口元の布を外すと族長の天幕から外へと出た。

 久しぶりに吸う外の空気に、リーゼロッテは無意識のうちに頬を緩める。甘酸っぱい匂いに騙されがちだが、毒性を持つクサラギの臭いを長時間吸っていては良い気分ではいられない。

 思いきり両腕を伸ばすと、気づかぬうちに毒されていた体は軽い目眩と共に大きくふらついた。


「危ない!」


 転びかけたリーゼロッテを、後ろから支えたのはレオナルドであった。

 自分よりやや低い位置にあるレオナルドに目をやり、リーゼロッテはふっと瞳を緩め、自分の肩に触れるレオナルドの手に自身の手を重ねる。


「レオン様……! 戻られていたのですね」


「うん、ただいま」


 微笑むレオナルドの額にそっと自分の額を押し当てて、リーゼロッテは目を閉じる。

 あまりにも幸せそうにリーゼロッテがレオナルドに触れるものだから、レオナルドは困惑しつつも受け入れるように目を伏せた。


「……準備は順調?」


「はい。みなさん、避難せずに一緒に戦うと言ってくださって……。本当に部族の団結力というのは素敵ですね」


「そうだね。避難しないと言い出したときはどうなることかと思ったけれど、今となっては協力してもらえて助かったね」


 レオナルドに寄り添い、リーゼロッテは小さく頷いた。

 クサラギの身を集め、その果汁を撥水性の高い獣の内蔵の皮に包む作業を避難しなかった女子供とが行っている。これを投石機で投げ付け、帝国の戦意を削ぐという案をレオナルドが提案した。

 人手があってこそ実行が可能な案だった。残ってくれた者たちには感謝しかない。


「レオン様の方はどうですか? 大丈夫でしたか?」


「うん。まだ危険はないからね」


「でも、帝国兵と遭遇する恐れもあるのでしょう?」


「僕が向かったのはまだ川向こうではなかったから。ジョルジュたちの方が心配だ」


 レオナルドの手に触れるリーゼロッテの指先にそっと力が籠められた。例え安全だと言われても不安な心は偽れない。

 帝国軍の補給路を断つ部隊とは別の残った者たちは、少しでも勝率を上げるためにと細かな罠を予測される進軍ルートに張りに行っている。

 川の手前は突破されたときのためにと念入りに仕掛ける必要がある。その分危険は減るが、だからといって油断できるわけでもない。

 しかし、レオナルドは自分よりも川を渡り罠を仕掛けにいったジョルジュやスルク達を心配してしまう。彼らはより重要で危険な役回りを担ってもらっている。レオナルドを危険に晒せないからという理由はわかっているが、自分の力の無さに落ち込みを隠しきれない。


「ジョルジュ達はきっと大丈夫です。それはレオン様が一番よくわかっているでしょう?」


「……そうだね。うん、リーゼの言う通りだ」


 不安を拭うように、リーゼロッテはレオナルドの手を撫でた。

 大丈夫だといってくれる人が側にいてくれることが有り難い。レオナルドはきつく目を閉じ、胸の中に溜まった息を全て吐き出す。

 リーゼロッテの頬に軽く触れ、彼女の顔を上げさせる。至近距離で見つめ合い、レオナルドは不安に揺れる青い瞳に緩く微笑んだ。


「ありがとう。リーゼと話していたら元気になった」


「私もです。少しでもお会いできて良かった」


 リーゼロッテははにかみながら目を伏せて、自ら一歩退いた。

 少しでも会えて嬉しいが、ゼジク族に残された時間は多くはない。

 レオナルドも一旦は戻ってきたが、すぐに作業に戻らなければならない。


「レオン様、危険を感じたら絶対に逃げてください。お願いです、絶対にですよ?」


「うん、約束するよ。リーゼに心配はかけない」


 レオナルドはリーゼロッテの手を取ると、指先に軽い口づけを落とす。

 くすぐったそうに目を細め、リーゼロッテは頬をほんのりと朱に染めた。見るからに嬉しそうな表情に、レオナルドもほっと息を吐く。

 考えの掴めないことが多いリーゼロッテではあるが、最近は表情で掴めるようになってきたとレオナルドは思う。

 微笑み一つとっても、喜んでいるのか照れているのかで随分と印象が変わってくる。

 そんな彼女の表情の一つ一つをもっと見ていたい。

 その想いがある限りは、命を落とすような真似はできない。リーゼを泣かせるような真似はしない。レオナルドは言葉にはせず胸に誓った。



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