想いの積もる夜に
本格的な黒が辺りを包み込み、月明かりだけが周囲を照らすソノンの夜。
岩肌に背を預けたレオナルドは、隣に座るリーゼロッテと大きな一枚の毛布にくるまりながら、今の状況に混乱していた。
迷子になっていたオルソを見付け、ジョルジュに連れ帰らせた。そして野営に必要なものを用意してくれと頼んだはずが、何故かジョルジュはリーゼロッテを連れて戻ってきたのだ。
そのままジョルジュはリーゼロッテを下に降ろし、自分は少し離れた位置に野営の構えを取った。二人の話し声が届かず、しかし何かがあればすぐに対応できる距離を保っている。
降りてきたリーゼロッテに対して、危ないから帰ってくれという一言も、自分を見付け安堵した彼女の顔を見てしまった瞬間にレオナルドの頭から消え去っていた。
涙を堪え笑顔を見せる彼女の姿を見上げたとき、レオナルドの胸はきつく締め上げられ、言葉に出来ない想いで胸が満たされてしまった。
胸を締め付ける苦しさの名前をレオナルドは知らないが、それがリーゼロッテによって与えられたものであることはわかる。その息苦しさに熱くなる体を両腕で抱き、レオナルドは僅かに身を動かした。
「寒いですか?」
「……そういうわけじゃないけど」
「……でしたら、怒っていますか?」
控えめに問い掛けるリーゼロッテの声に、レオナルドは答えなかった。
リーゼロッテは微かに首を動かしてレオナルドの様子を窺う。前を向いたまま反応を示さないレオナルドに、リーゼロッテはそっと視線を落とすと前を向き直した。
膝を抱えて座る彼女は、毛布の中できゅっと拳を握り締めた。
「……すみません、勝手な真似をして」
「……まあ、ここなら僕もジョルジュもいるから安全面では心配していない。ジョルジュも同じようなことを思ったからリーゼを連れてきたんでしょう?」
リーゼロッテは頷いた。
オルソを連れて集落に戻ってきたジョルジュに自分も連れていってほしいと頼んだとき、ジョルジュは少し考える素振りを見せたが快諾してくれた。守る対象が離れた場所にいるよりは、一ヶ所にいてくれた方が色々と楽だと笑っていた。
イヴァンと少し話をした後、ジョルジュはリーゼロッテと共にレオナルドの元へ駆けつけたのだ。
レオナルドとしても、リーゼロッテが目の届く範囲にいる分には問題はない。
だから、ジョルジュについてきたことを驚きはしても、責めるつもりは欠片もなかった。
それよりも、レオナルドにとってはリーゼロッテがここに来たことについての方が問い質したい。
どうして、わざわざ。その想いは拭いされない。
「リーゼは、どうして来たの?」
「……すみません」
「いや、責めているわけじゃなくて。ただ、気になって」
静かに鼓膜を揺らすレオナルドの声に導かれるように、リーゼロッテは顔を上げる。
真っ直ぐに前を見据えるレオナルドの横顔を映すリーゼロッテの青い瞳が、水面のように寂しげに揺れた。
視線を感じながらも彼女の方を向くことが出来ないのは、目を合わせることを恐れているからだ。目を見てしまえば、胸の締め付けが強まるような予感がしている。
毛布の下で、リーゼロッテが僅かに動いた。
探るように、ゆっくりと、伸びてきた手。
指先が、レオナルドの腕に触れる。
「独りの夜は……お嫌いなのでしょう?」
「……え?」
熱を帯びた指先から伝わるリーゼロッテの想い。
レオナルドは顔を上げる。ただそれだけの理由で自分の元へとやってきたリーゼロッテの、夜の海のように静かな瞳をじっと見つめる。
確かに、リーゼロッテに打ち明けた覚えがある。しかし、それも一度きりのことだ。
「覚えていてくれたの?」
「当たり前ではありませんか。だって、私は貴方の妻なのです」
強い口調でそう言い切ると、リーゼロッテは控えめに伸ばしていた指先でレオナルドの袖を掴んだ。
そして、そのまま自分の顔をレオナルドの肩に寄せると弱々しく首を振った。
「……違います。妻だから、とか、そういうことではなくて」
私は、と口を開くリーゼロッテを遮るように、レオナルドは袖を掴むリーゼロッテの手は払うことなく片手でリーゼロッテの体を抱き寄せた。
小さな音を立て、二人を包んでいた毛布がレオナルドの肩から滑り落ちる。
冷ややかな空気が肌を刺すというのに、不思議なくらいにレオナルドの体は温かかった。
続く言葉を遮ったのは、リーゼロッテの言葉が予想できたから。
それは、自分が先に伝えるべき言葉だ。
「……好きだよ、リーゼ」
「え?」
「夫とか妻とか、関係ないんだ。リーゼ、貴方のことがとても愛しい。……それに、気付かされたよ」
レオナルドの腕の中で、リーゼロッテが体を強張らせた。
予想もしていなかったのだろうか。明らかに動揺するリーゼロッテを、レオナルドは更に強く抱き締める。
「本当……ですか?」
「うん。ずっと認めようとしなかったんだけど、僕は僕が思う以上にリーゼに惹かれているらしい。そうじゃなければ、色々なことに説明が付かない」
リーゼロッテと共にいることで生み出される喜びや苛立ち。戸惑いや苦しさ。些細でも動く心に理由があるとしたら、それは愛しさ以外に有り得ない。
いや、とレオナルドは自分の考えに首を振った。
「ちょっと違うかな。それしか理由がないんじゃなくて、理由があるならそれがいいんだ」
腕に抱いた温かく柔らかな体。
レオナルドより背は高いけれど、簡単に折れてしまいそうな脆くて細いリーゼロッテの体。
恐る恐るといった手付きで、リーゼロッテの両腕がレオナルドの背中に回される。
服を掴む指先が震えている。その理由は、残念ながらレオナルドにはわからない。
「……僕は昔から、何かを大切だと思うことが怖かったんだ。僕に優しくしてくれた人はみんな、いなくなってしまったから」
レオナルドを疎むナタリーの手で、レオナルドに親切だった使用人は知らぬ間に解雇されていった。
それだけならばレオナルドも気にすることはなかったかもしれない。しかし、従兄弟であるディオンに冤罪が掛けられた時には母親の異常性を自覚せざるをえなかった。
ナタリーは邪魔な人間を、城から追い出すだけではない。命を奪うことですら平気でやってのけるのだ。
悪魔のような人間が身近にいて、その牙をいつも自分の首に突き立てている。その事実に気付いたときから、レオナルドは誰かを大切だと思うことが怖くなった。
ジョルジュやイヴァンにしてもそうだ。
二人が側にいることで随分と救われている。だが、いつか何の前触れもなく消えてしまうのではないかという不安は拭えない。
謀略に長けた密偵家業のイヴァンと武術に秀でたジョルジュの二人がそう簡単にナタリーの毒牙に掛かることはなかったが、この先もずっとそうである保証はどこにもない。
だからこそ、レオナルドはリーゼロッテを好きになることを恐れていた。
身一つで嫁いだ彼女に武器はない。仮にリーゼロッテが不審死を遂げれば、アカネース国はこれを好機と見て戦争をしかけてくるだろう。和平条約を結んだ意味が無くなってしまうが、それをナタリーが理解しているかレオナルドにはわからなかった。
ナタリーの目にはアレクシスが王座に座る未来しか映らない。少しでもそこに暗雲が立ち込めるのならば、それは彼女にとって許されない現実として排除されるだけである。
母親の狂気を理解していたから、レオナルドはリーゼロッテとの距離を詰めすぎないように意識していた。
しかし、気が付けば彼女はいつも側で笑っていた。
その笑顔にも、様々な意味が含まれていると知ってしまった。
笑顔の裏で泣く夜もあれば、心全てを微笑みの仮面で塗りつぶす日もある。
淑やかな雰囲気を纏いながら、意外にも気が強い彼女はいつも、レオナルドの隣にいた。
いつの間にかそれが当たり前となっていたから、リーゼロッテが自分と距離を置いた時はレオナルド自身が思いもしない程の衝撃を受けた。
嫌な思いをさせてしまったのか。好きな男でも出来てしまったのか。自分が年下だから、不満があるのだろうか。思い付く限りの不安が全てのし掛かり、リーゼロッテのことばかり考えてしまった。
それでも自分の心を認められなかったのは、昔から積み上げられた失う怖さがレオナルドの足に絡み付いていたからだ。
「……リーゼ、臆病な男でごめんね」
リーゼロッテが首を振る。夜に溶ける静かな声で、レオナルドは苦笑を溢した。
「はっきりとはわからないけど、きっと僕は結構前からリーゼのことを好きになっていたんだと思う。でも、そんなことは言えなかった。口にしたら……自覚をしたら……失ってしまうんじゃないかと思ってしまったから」
再び、レオナルドはごめんと呟いた。
もしもレオナルドが自分の心を正直に口にしていたのならば、リーゼロッテの悩みは幾分か和らいだのではないだろうか。
城内に蔓延する噂話に心を乱すことはなかったかもしれない。
レジュノ夫人に側室の話を持ちかけられたときも、毅然とした態度を取れたかもしれない。
しかし、リーゼロッテはレオナルドの言葉に首を振ると、ゆっくりと顔を上げた。
目を赤くしながら、それでも涙は流さずに。
笑顔を浮かべることは難しくて、でも悲しいわけでもない。どんな顔をすれば良いのかわからない様子で、ただ瞳だけは強く輝きレオナルドを見上げていた。
「人を大切に思うことを恐れる気持ちは、私にもわかります。だから、私は……レオン様が臆病になるほど自分を思ってくれたことが、何よりも嬉しい……」
「リーゼ……」
「私だって、レオン様のこと、好きなんです。でも、これは政略結婚だとわかっていました。だから、相手を思いやる気持ちは必要でも、恋をする必要はないのだと自分にずっと言い聞かせていました……」
「……僕と同じように思っていたということ?」
リーゼロッテは目を伏せ、そして一度だけ頷いた。
「夫婦となったのですから、良好な関係は築きたい。けれど、それ以上の想いは必要ではない。……そう思っていたんです」
リーゼロッテの考えには、レオナルドも同意であった。彼もまた初めはそう考えていた。
互いの間に情は必要でも、恋が生まれる必要はない。
むしろ、余計な好意を抱かない方が平穏で穏やかな生活が送れるはずだ。
しかし、リーゼロッテは胸の中で一度芽吹いた想いを摘み取ることができず、密やかに水を与え、守り、抱き締め、気が付いたときには爪先から頭の先まで絡み付くようになっていた。
「でも、レオン様の側で貴方の優しさや弱さに触れていくにつれて、どんどん気持ちは抑えられなくなっていき……でも、どうしたらいいのかわからなくて顔も合わせられなくて……」
最近のよそよそしさの原因を知り、レオナルドはほっと息を吐いた。
恥ずかしそうに俯いたリーゼロッテを見下ろしながら、レオナルドは自然と口元が緩んでいくのを止められない。
芯の通った淑やかな年上の彼女が、まるで年下の少女のような表情を見せている。自分だけが知っているリーゼロッテの一面に、胸が一杯になった。
満たされていくのは、細やかな優越感。
きっと今まで誰もが見ることの出来なかった表情なのだと思うと、嬉しさが心の底から沸き上がるのだ。
それは衝動だった。
「レオン様……?」
レオナルドは両腕でリーゼロッテの体を抱き締めた。
もう離さないと言うように、強く腕に力を籠める。手のひらでリーゼロッテの温かな琥珀色の髪を撫で、自分の肩に押さえ込んだ。
「僕も同じだ。強いリーゼも弱いリーゼも、どちらも好きになっていったよ」
髪をすく手を止めず、レオナルドはリーゼロッテの耳元で静かにそう囁いた。
二人の間には、これ以上弁解の言葉は必要ない。
欲しいのは、心の底から沸き上がる偽りのない愛の言葉。
与えたいのは、リーゼロッテの凍りついた心を溶かす恥ずかしいくらいの愛の囁き。
「お願いだ、これからも僕の隣にいてほしい。僕が側にいてほしい人は君だけなんだ」
「私もです……。私も、ずっと貴方の側にいたい……」
レオナルドの背中にしがみつくリーゼロッテの力が強まった。レオナルドの肩に頬を押し当て、リーゼロッテは幸せそうに目を細める。
最早、彼女にも想いを堪える必要はない。
僅かに開いた唇から、レオナルドの鼓膜を揺らす声が零れ落ちた。
「貴方の隣にいるのは、私だけで良い……!」
絞り出された悲痛な訴えに、思わずレオナルドは髪を撫でる手を止めた。
リーゼロッテも自分の言葉の意味に気が付き、勢いよく顔を上げると動揺した様子でレオナルドから目を逸らした。
「あ、その……」
回していた腕を外し、リーゼロッテは僅かにレオナルドから距離を取る。
思わず口をついて出てきた言葉に、彼女自身が最も驚いているようであった。
片手で口元を隠して目を伏せるリーゼロッテは、明らかに動揺している。
レオナルドは少しでも落ち着けるようにと微笑みながらリーゼロッテの頬をそっと撫でた。
「それなら、もう二度と側室がいてもいいなんて言わないでくれるかな? あれ、結構傷ついたんだけど」
意地悪をする子供のような口調で、レオナルドは妖しげに目を細めた。
決して本心から責めているわけではない。
リーゼロッテから零れ落ちた本心が嬉しくて、すこし、意地悪をしたくなっただけだ。
「す、すみません。でも、あのときは……」
「リーゼなら自己主張しつつ角を立てないようにするくらいは出来るんじゃない? それに僕だってフォローはする。お願いだから、もうあんなことは言わないで」
至近距離で見つめ合う新雪で敷き詰められた雪原の眼差しが、悲しそうに揺れていた。
レオナルドの眼差しを受け、リーゼロッテは頬に触れる彼の手に自分の手のひらを重ねた。
「……いいのですか? この国では私が力になれないことが多くあるのですよ?」
「後ろ楯のことを気にしているの? 確かに母には疎まれているけれど、これでも僕には正当なレイノアール王家の血が流れているんだ。別に王位を望んでいるわけでもないから、特別後ろ楯が欲しいとも思っていないよ」
「ですが……」
「レジュノ夫人の一族と結び付けば、母は気を良くすると思うよ。だけど、それだけだ。それ以上の利益がない」
リーゼロッテは弱い力でレオナルドの手を握り締めた。
まだ不安が消え去らないのだろう。沈んだ瞳を伏せ、リーゼロッテは僅かに眉を潜めた。
彼女の不安もわからないではない。
しかし、レオナルドにとって大切なものが何かは決まっている。
レジュノ夫人を味方とすることで得られるものが、リーゼロッテへの好意に背いてまで欲しいものだとは思えない。
「今の僕には、リーゼを蔑ろにしてまでほしいと思うものはないんだ」
愛しい人を瞳に映して、レオナルドは幸せそうに微笑んだ。
心が決まるだけで、今まで渦巻いていた曇天のような悩みは簡単に消え去ってしまう。
レオナルドは空いていた手で赤みを帯びたリーゼロッテの目元を軽く拭った。
「もう一度言うよ。リーゼ、好きだ」
そのままレオナルドは両手でリーゼロッテの頬を包み、そうなることが必然のように目を閉じる。
ゆっくりと近付いてきたレオナルドを拒むことなく、リーゼロッテも瞼を落とした。
「レオン様、私も、好きです」
「うん」
「私、幸せです……」
「わかったから、少し、静かに……」
人差し指を押し当てるように、そっと、レオナルドはリーゼロッテの唇を塞いだ。
今までの時間ごと飲み込むように、二人は何度も唇を重ね合わせた。




