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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
5章.広い空の下駆ける想いは
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幼心は癒えず痛み

 赤く染まっていた空の多くが黒に塗り潰され始めてもまだ、オルソの姿は見当たらなかった。

 

「駄目だ、いない」


 愛馬から飛び降り、スルクは吐き捨てるように言い放った。

 先に周囲の散策から戻っていたレオナルドたちは落胆の息を隠しきれない。

 大きなお腹を抱えながら真っ青になるスルクの母の肩を支え、リーゼロッテも落胆を隠すように目を伏せた。


「私があの子のことを見ていなかったから……!」


「かか様のせいじゃない。オルトの馬鹿が悪い」


 スルクは馬に水を与えるために木桶を乱暴に掴むと、普段の調子からは考えられない荒々しさで井戸の方へと歩いていく。

 言葉は悪態を付いているものの、感情を露わにした姿の前では弟を心配する心を疑う者はいない。


「スルクが戻ってきたから僕らももう一度出てみるよ」


 レオナルドは隣に控えていたジョルジュを見上げた。応じるように頷いたジョルジュは一足先に馬へと飛び乗った。


「では俺は範囲を広めてみます」


 そして、ジョルジュは首に下げていた細い呼び笛を外すと、馬上からレオナルドへと手渡した。

 怪鳥狩りにも用いられる呼び笛と良く似ているが、呼び笛よりも怪鳥の雛の声に似た音を出すため怪鳥の飼育に役立つとタキから譲られたものであった。


「何かあればこれを吹いてください。ユキが反応しますから」


 ユキ、と名付けられた雛は名前を呼ばれたことに気がついたのか、ひょこっとジョルジュの懐から顔を覗かして大きく口を開けた。

 ご飯をねだる姿に苦笑を浮かべ、レオナルドは呼び笛を受け取った。


「わかった。僕はもう一度近場の、人目に付かないような場所を探してみる。イヴァンはここに残ってくれ」


「はい。承知いたしました」


 イヴァンの返事に満足し、出発しようとしたレオナルドをリーゼロッテが呼び止める。


「レオン様……!」


 レオナルドを呼ぶ声には不安が滲み出ている。

 暗闇はこれから益々深まっていく。人目に付かないような場所を探すということは、視界の開けた平野とは違い危険も多くなるということだ。


「……もう暗くなります。どうか、レオン様ご自身もお気を付けて」


「……うん。ありがとう」


 スルクの母親を支えるリーゼロッテの指先が震えていることを、レオナルドは見逃さなかった。

 本当は行かないでほしいと言いたかったのだろうか。

 自分達がオルトの身を案じるのと同じくらいに、リーゼロッテ個人はレオナルドを案じてくれているのかもしれない。

 本来であれば、もう少しリーゼロッテを安心させる言葉をかけてやりたい。

 しかし、レオナルドにはこれ以上に掛けるべき言葉が見つけられなかった。

 真っ直ぐなリーゼロッテの眼差しから逃げることなく、レオナルドはリーゼロッテを見つめ返した。

 スルクの母親にしてもそうだ。

 自分でない誰かの無事を願う心は、嘘偽りからは産み出すことが出来ない。

 血の繋がりがあるはずの母親ですらレオナルドの無事を祈らない程だ。

 他人の無事を願う心がどれだけ尊いものであるかをレオナルドは知っていた。だからこそ、リーゼロッテの瞳に映る色が心からの想いであることは疑っていない。

 しかし、その理由がスルクの指摘通りに恋心から生じたものだとしたならば、レオナルドは彼女の気持ちにどう応えれば良いのかわからない。


「リーゼ、彼女を頼むね」


「はい!」


 それでもと、せめてもの思いで浮かべた微笑みに、リーゼロッテは少しだけ安堵した様子で頷いてみせた。



 ソノンの草原はレイノアール国に比べれば比較的温暖な気候であるが、夜になれば季節を越えたかのように冷え込んでしまう。

 成人であれば何らかの方法で暖を取るだろうが、幼い子供が無事に一晩を明かせるとは考えられない。

 レオナルドは集落からそう離れていない林の中を愛馬を連れ、オルソを探し歩いていた。


「オルソ! どこにいるんだ!」 


 レオナルドの声は木々のざわめきの中に飲み込まれていく。

 遠くでは遠吠えのような声も聞こえていた。

 冷たい風が木々を揺らすように、レオナルドの不安も煽っていく。

 この辺りに危険な獣はいないとスルクは言っていたが、スルクたちが危険と認識していない獣であってもオルソにとっては狼に等しいものかもしれない。


「オルソ、いたら返事をしてくれ!」


 枝を掻き分け、むき出しの根を避け、当てもなくレオナルドは歩き続ける。

 暗くて寒い夜の中、一人きりの寂しさを思い出す。

 幼い頃、誰も使っていない空き部屋によく閉じ込められた。何が母親の気に障ったのか、当時のレオナルドでは理解ができなかった。

 アレクシスばかりを可愛がる母親の関心を少しでも引きたくて、勉強や武術を頑張ってみただけだ。

 母は王妃なのだから、息子の自分が優秀な結果を見せることができれば喜んでくれるのではないか。幼心にそう考えたレオナルドは、しかし努力すればするほど母親に煙たがられ、閉じ込められることが増えていく現実が理解できなくなっていた。

 今になれば、レオナルドにもわかる。

 ナタリーにとって大切なことはアレクシスが王となることであり、それ以外の全てがどうでもいいことなのだ。子供であるレオナルドやシェリー、時には停戦同盟を結ぶ相手国の王女であるリーゼロッテですら、ナタリーの目にはアレクシスの王位を脅かす可能性のある不穏分子にしか映らない。

 露骨に手を出せば国王の目に止まる可能性があると考えて小さな嫌がらせを繰り返したり、自分以外の者を実行犯とする辺りがまた小賢しい。

 しかし、それでもレオナルドにとっては唯一の母親だった。

 もう諦めてしまったけれど、オルソが母親の関心を引こうとする気持ちは理解できるような気がした。


「レオナルド兄ちゃん!」


 掠れた叫び声に、レオナルドは足を止めた。

 自分の名を呼ぶ声だ。聞き間違えるはずがない。


「オルソ! いるのか?」


「兄ちゃん……!」


 レオナルドの呼び掛けに応じ、オルソの声が返ってくる。

 声のする方向へと足を向け、レオナルドはオルソを呼び続けた。

 オルソもまた、懸命にレオナルドを自分のいる場所へと導くため声を張り上げた。

 代わり映えのない木々の間、唯一の手がかりとなる声を見失わないよう、レオナルドは耳に意識を集中させる。

 しばらく進むと、急に目の前の大地が途切れた。

 暗いためよくは見えないが、どうやら崖になっているらしく真っ直ぐに進めるのはここまでであった。


「レオナルド兄ちゃん!」


 足元から聞こえる声。

 レオナルドは慌ててその場に這いつくばると、崖下を覗き込んだ。


「オルソ! 良かった……」


 崖とは言っても、高さは二メートルはないだろう高さで大人であれば自力でも登ってこれそうであった。

 オルソも、声を震わせてはいるものの両足でしっかりと立ってレオナルドを見上げていた。

 怪我をしているようではなく、レオナルドはほっと息を吐く。

 そして、崖下のオルソへと自分の手を伸ばした。


「オルソ、手を伸ばして」


「う、うん」


 オルソは懸命に背伸びをして手を伸ばしたが、レオナルドの手には届かない。


「何か踏み台にできそうなものはない?」


「うーん……」


 一度手を引っ込め、レオナルドはオルソにそう尋ねる。

 しばらくオルソは辺りを散策したが、望みのものは見当たらなかった。

 レオナルドはソーノに持たせた荷物の中から大人の身長ほどの縄を取り出す。先端をソーノの鞍に結びつけ、崖下へと下ろした。


「オルソ、これで登れそう?」


「やってみる!」


 オルソが両手で縄を掴むと、レオナルドもソーノと共に縄を引っ張った。


「うわっ!」


 しかし、引き始めた途端にオルソが声をあげたため、レオナルドは引くのを止め、ソーノに縄を預けると急いで崖下の様子を窺った。

 幸い、オルソは尻餅を付いて転んでいただけである。


「大丈夫、オルソ?」


「うん。でも、登るのは難しいかもしれない……。凄くぬかるんでて……」


 レオナルドはソーノを振り返った。ソーノは力のある馬ではないが、レオナルドと協力すればオルソ一人なら引き上げられるかもしれない。

 しかし、オルソの言った土のぬかるみが気にかかった。崖付近でオルソを引き上げようとすれば、地面が崩れる可能性があり、そうなればオルソもレオナルドも土砂に飲み込まれてしまう。

 一度集落に戻り人を呼んでくるという手もあるが結局足場の悪さに代わりはなく、夜の暗闇の中にオルソを一人にするのは気が進まない。

 レオナルドはその場に座り込むと、しばらくの間考えを巡らせた。

 そして、一つの案に思い至る。


「オルソ、もう少し待っていてくれる?」


「うん!」


 威勢の良い返事に安堵し、レオナルドは微笑みを浮かべた。

 そして、先程ジョルジュから受け取った呼び笛を肺の空気全て使って吹き鳴らした。


「ちょっと離れていて」


 レオナルドはオルソが数歩後退するのを確認すると、崖に腰掛け、そのままオルソのいる崖下へと飛び降りた。

 突然同じ場所に降りてきたレオナルドに、オルソは大きな瞳を更に広げ、驚きを露わに上とレオナルドを見比べた。

 自分の身長より高い位置から飛び降りて、柔らかな土の上にレオナルドは尻餅をついた。これならオルソが怪我をしなかったのも納得だ。

 心配そうに駆け寄ってきたオルソの頭に、レオナルドはそっと手を置いた。


「大丈夫だった?」


「う、うん。でも、兄ちゃんまで……」


「すぐにジョルジュが来てくれると思うから、しばらく一緒に待っていようか」


 オルソを不安がらせないように目の前にしゃがみ微笑むと、レオナルドは懐から出掛けに持たされたパンを取り出した。飛び降りた際に潰れなかったようで、挟まれていた野菜や果物が少しはみ出していたけれど形自体は崩れていない。

 瞳を輝かせ、オルソは自分の手が泥で汚れていることも構わずパンを掴み口に運んだ。

 腹を満たしたことでようやく安堵したのだろう。頬一杯にパンを詰め込みながら、大きな瞳に涙を溜める。

 嗚咽を漏らし、食を進める。レオナルドが言わなくても、それが母親の作ったものであることはすぐにわかったのだろう。


「……みんな、オルソのことを凄く心配しているよ。それは凄く有り難いことなんだ」


「うん……」


「僕はオルソが羨ましいよ。子供の頃の僕は誰にも心配してもらえなかったからね」


「……そう、なの?」


 パンを飲み込んだオルソは涙を拭いながら首を傾げた。

 オルソはよく理解していないが、レオナルドは王子だということは知っている。王子が特別な生まれで、多くの人に求められる人間だということを漠然と理解していた。

 オルソにとってレオナルドは兄の友人で自分にとってももう一人の兄のような存在のためピンと来ないが、まさか誰にも心配されないような子供時代を送っていたなんて思いもしなかった。

 寂しそうに微笑むレオナルドを見上げる。オルソは、小さな肩を落とした。


「……レオナルド兄ちゃんも寂しかった?」


「まぁ……うん。昔はね。オルソみたいに母親の気を引こうともしたよ」


 レオナルドが苦笑を浮かべれば、オルソも吊られてへらっと笑う。

 兄のように慕っているレオナルドが自分と同じだと思うと、少しだけ気持ちが救われる。


「かか様が、僕のこと嫌いになっちゃったわけじゃないのはわかってるんだ。でも……」


 そこで言葉を止め、オルソは俯いた。自分が子供じみた我が儘を言っていることは、幼い彼自身がよく理解していた。

 その上、集落に帰れなくなり多くの人に迷惑を掛けてしまったとなれば、簡単に許されることではない。

 今、目の前にいるレオナルドもそうだ。オルソを探して、わざわざ崖の下まで降りてきてくれた。


「……ごめんなさい」


 止まったはずの涙が再び溢れ出す。

 申し訳なさや情けなさ、後悔や安堵、色々な思いがかき混ぜられて、オルソは透明な涙を流す。


「ごめんなさい、僕……」


「僕に謝らなくていいよ。帰ったらちゃんと家族に謝るんだよ」


 泣きじゃくりながらオルソは頷く。

 一人ぼっちのオルソを見つけられたことで、レオナルドの心は少しだけ満たされていた。

 これで幼かった頃の自分の寂しさが消えるわけではない。そして、自己満足でしかないこともわかっている。

 レオナルドはオルソの肩に手を回し、汚れるのも構わずに自分の方へと抱き寄せた。

 同じように母の心を望んだ幼心を、オルソの体ごと抱き締めていた。



 ジョルジュを呼ぶために、時間を置いては呼び笛を鳴らす。

 その作業を何度か繰り返していると、遠くからレオナルドの名を呼ぶ声が届いた。

 レオナルドは再び笛を強く鳴らすと、立ち上がって声を張り上げた。


「ジョルジュ! こっちだ!」


「レオナルド様?」


 足音と共に、ジョルジュの声が近付いてくる。

 そして、先程レオナルドがしたのと同じように、ジョルジュは崖の上からひょいと顔を覗かせる。

 そこにいた二人の姿を目にすると、火傷の痕も霞む温かい微笑みを浮かべた。


「良かった……。揃ってご無事ですね」


「うん。ジョルジュ、この崖、ぬかるんでいて縄で上から引き上げるのは難しいんだ」


 レオナルドは冷たい土に手を当ててジョルジュを見上げる。


「僕が下でオルソを支えるから、引き上げてもらえる? それなら時間もかからずに上がれると思うから」


「それは構いませんが……」


 ジョルジュは眉をしかめ、崖の高さを確認する。

 確かに、レオナルドが足場となりオルソを支えれば、オルソの指先は上に届くだろう。ジョルジュとしても無理のない体勢でオルソを引き上げることができるため、ぬかるむ足場が崩れる心配は少なくなる。


「しかし、それではレオナルド様が……」


「だからジョルジュは、オルソを引き上げたら一度集落に戻ってほしい。それで、ここで一晩明かすのに必要な荷物を持って帰ってきてくれないか?」


「……そう来ましたか」


 ジョルジュは苦笑と共に頭を抱えた。

 確かにこの暗い中でオルソよりも重いレオナルドを引き上げるよりは、明日を待ち明るくなってから救出を考えた方が安全であった。

 しかし、とジョルジュは眉間のシワを深く刻む。

 レイノアール国よりはよっぽど安全である。だが、それはあくまでも故意にレオナルドの命を狙う相手がいないというだけで、主に好んで夜営を勧めたくはない。


「……承知しました。俺も一晩付き合います」


「そう言ってくれると思った」


 信頼しきった笑顔を浮かべたレオナルドに、ジョルジュも微笑みを返すしかなかった。

 居場所を失った子供が安堵するような微笑みをレオナルドに向けられてしまったら、ジョルジュはもう全力を以てその望みに応じるしかなくなってしまう。そうしたいと願うのが、ジョルジュの本心であるからであった。



 ジョルジュがオルソを引き上げてからしばらくが経つ。

 崖下で一人膝を抱えて座りながら、ジョルジュが戻ってくるのを待った。

 今さら、一人を怖がる理由はレオナルドにない。ジョルジュが戻ってくることに疑いはないのだから、不安も恐怖も心にはない。

 ただ、少しの寂しさは胸の中で燃えている。


「……昔はただ怖くて、寂しいとは思わなかったんだけど」


 一人の夜が好きでないことに代わりはない。

 その理由が変わり始めたことに、レオナルドは気付いていた。

 自分の周りに大切な人が増えた。

 それだけのことが、暗闇の恐怖を塗り潰し、引き換えに寂しさを連れてきた。


「リーゼもその一人なんだろうな……」


 寂しさの理由が明確にわかる。レオナルドは自分の手を見つめ、ゆっくりと握り締めた。

 胸を刺す痛みも、その理由がわかるのであれば辛くはなかった。

 辛いどころか、どことなく心地好い。


「レオナルド様!」


 蹄の音と共に、ジョルジュの声が届いた。

 喜びで立ち上がったレオナルドは、顔を上げた瞬間に動きを止めた。


「お待たせいたしました、レオナルド様」


 満面の笑みで崖から顔を覗かせたジョルジュの隣には。


「ご無事ですか、レオン様……!」


 今にも泣き出しそうな顔で、リーゼロッテが微笑んでいた。


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