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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
5章.広い空の下駆ける想いは
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人の心は見えぬもの

 レイノアールとソノンの間には、決して友好関係にあるとはいえないハディアス帝国が存在するため、陸路を用いるには危険が多い。

 そのため、二国の交流には常に海路が選ばれてきた。

 レオナルド達も例外ではなく海路を選択するのだが、怪鳥狩りを終えて急速に寒さの増したレイノアール国ではほとんどの港が凍りついてしまった。

 限られた不凍港の中からレオナルドが今回の旅に選んだのは、レジュノ伯爵家の領内にあるキュラムという町であった。

 キュラムにはソノンへの定期船が出ているため、レジュノ伯爵夫人に話を通し定期船に同乗させてもらうことにしたのだ。

 方針が決まってからのレオナルドの行動は早く、旅支度と同時にレジュノ伯爵夫人への連絡を済ませ、ソノンに向かうための手配を着々とこなしていった。

 リーゼロッテはというと、旅支度と言われても必要なものがわからないだろうからと彼女の準備もレオナルドが引き受けてしまったため、彼女自身がやらねばならないことはなくなってしまった。

 唯一の仕事といえば、不凍港という物流の要ともいえる港を持つレジュノ伯爵家に顔を売りたいと申し出たタキに対して、彼が同行するための口添えをする程度であった。

 そして、レオナルドがソノン行きを決めてから五日後には王都を出発、三日後にはレジュノ伯爵夫人の領内へと到着した。

 定期船への同乗の礼のため、レオナルド達はレジュノ伯爵夫人の屋敷を訪れていた。


「レオナルド様、お連れの皆様もよくぞいらっしゃってくださいました」


 祝宴の時よりは控えめでありながらも大きく胸元の空いた赤いドレスに身を包んだ夫人は、堂々とした態度で来客室に招かれたレオナルド達を受け入れた。

 当然のようにリーゼロッテをお連れの者と一纏めにする様子は、然り気無いながらも明確に悪意を見せつけている。

 夫人は一度もリーゼロッテへと目を向けない。代わりに、イヴァンに気付くと嬉しそうに目を細めてみせた。


「こちらこそ、急な依頼だったというのに快く引き受けて頂けて助かりました」


 レオナルドと握手を交わし、夫人はたおやかな微笑みを浮かべた。

 母親とよく似た目の笑っていない微笑みに、レオナルドは顔には出さず嫌悪感を抱いた。

 本来ならばリーゼロッテをこの場に連れてきたくはなかったのだが、彼女自身が平気だと言うため同行を受け入れた。嫌味を言われるかもしれないし、嫌がらせを受けるかもしれない。

 それでも構わないとリーゼロッテは言った。

 レオナルドの妻として、隣に立ちたい。

 俯きながらではあったが、リーゼロッテはそう断言したのだ。

 挨拶を終えて席に着くと、早速夫人とレオナルドはこの後の海路についての確認を始める。

 レジュノ伯爵夫人はリーゼロッテを好ましく思ってはいない。

 しかし、夫人はレオナルドに対しては強い敵意は抱いていない。ナタリーと親しい夫人ではあるが、彼女個人としてレオナルドを嫌っていないのにはある理由があった。

 両手をぽん、と叩き、夫人はまるで少女のような身軽さで微笑みを浮かべた。


「そうそう、レオナルド様。シャルロットが貴方にお会いしたがっておりましたよ」


 シャルロット。夫人に会いに来たときからその名が出てくることはわかってはいたが、レオナルドは気が重くなり自然と肩が落ちた。

 レジュノ伯爵夫人の実弟の一人娘にあたるシャルロットは、レオナルドに淡い恋心を抱いていた。

 天真爛漫なシャルロットを夫人は実の娘のように可愛がっている。今年十四歳となるシャルロットが十五歳になった際に正式にレオナルドの婚約者として申し入れるつもりであったが、それよりも先にリーゼロッテとの婚姻が決まってしまいレジュノ夫人の望みは叶わなかった。

 自分の姪がレオナルドの婚約者となれば、夫人の地位も安泰だっただろう。夫人にとってリーゼロッテは自分の計画を邪魔した張本人でもあり、尚更に腹立たしい存在であった。

 夫人はレオナルドの隣にリーゼロッテが座っていることも構わず、可愛い姪の名を口にする。

 レオナルド自身も少なからずシャルロットが自分に好意を寄せていることには気が付いていたため、鋭い視線をレジュノ夫人へと投げた。しかし彼女は気付かぬ素振りで頬に手を当てると、残念そうに目を伏せた。


「レオナルド様がご結婚なされてからずっと空元気なあの子を見ていると私も心が痛くて……」


 ふう、と溢れ落ちるため息は色っぽく、物憂げな瞳を更に魅力的に彩っていた。未亡人となった今も年下の恋人がいるというのも頷ける。

 しかし、レオナルドの目には魅力溢れる年上の美女ではなく、悪意の塊を薄い笑顔で包み隠した悪女に映っていた。


「お言葉ですが、シャルロット嬢と僕の間には一切個人的な交流はございませんので、落ち込まれたとしてもどうすることもできませんよ」


「そう冷たいことを仰らないで。私はシャルロットこそレオナルド様の婚約者として相応しいと思っていたのですから」


 先手を奪う夫人の一言で、レオナルドは僅かに眉をしかめた。

 夫人の視線は、真っ直ぐにリーゼロッテを捉えている。先ほどまでは見向きもしなかったというのに、だ。

 妖艶に光る瞳がゆっくりと細められる。

 蛇を思わせる捕食者の瞳には、隠しきれない害意が渦巻いていた。


「リーゼロッテ様も、アカネース国の王女なのですからおわかりでしょう? 王家が名家と婚姻を結ぶことで得られる恩恵の大きさを。レオナルド様は正妃様のご子息ですもの。協力な後ろ楯という意味でも私の生家……シャルロットの父は申し分なかったと思っておりますのよ」


「……それはつまり、リーゼロッテでは僕の妻に相応しくないと?」


「嫌ですわ、レオナルド様。誤解なさらないでください。私が申し上げたいのはリーゼロッテ様が不相応というお話ではありません」


 レオナルドに睨まれたところで動じる様子もなく夫人は片手で口元を隠してみせると、三日月の形に歪められた瞳で二人の姿を交互に見比べる。


「ただ私が思っていることは……奥様だけでは少々後ろ楯が弱いのではないか、ということですよ」


 シャルロットを側室にしないか、と夫人は遠回しに提案している。

 レオナルドはうんざりとした思いを抱きつつ、しかし下手に答えることも出来ずリーゼロッテの様子を横目で窺った。

 夫人の思惑にリーゼロッテが気付いていないわけがない。

 嫌な思いをさせてしまうことがわかっていたから、本当は待っていてほしかったのだ。

 リーゼロッテは特に傷付いた様子もなく、いつものように穏やかな微笑みを浮かべている。

 手を伸ばしても指先をすり抜けていく風のように、触れてみてもしなやかに腕を避ける柳のように、食えない微笑でリーゼロッテは頷いた。


「レジュノ夫人の仰る通り、確かに余所者のわたくしではレイノアール国への影響力という意味では至らない部分も多いでしょう。レオナルド様のためを思えば、選択肢として考えなければならないかもしれませんね」


 眉一つ動かさずに、リーゼロッテはそう告げた。

 夫人は満足そうに微笑みを浮かべている。

 リーゼロッテの返答は、今この場において最良の判断であっただろう。

 先にリーゼロッテが口を開いたことで、側室の存在に肯定的な空気は作り出した。だが、肝心のレオナルドが何一つ口を開いてないため、具体的な話としては成立していない。

 レジュノ夫人の機嫌を損ねず、しかしこちらも不利益は被らない模範的な回答である。

 わかってはいたが、レオナルドの心中は複雑であった。

 その思いがただのレオナルドの我が儘でしかないことも重々承知していたが、こうも躊躇なく頷かれてしまうと虚しさだけが胸に残る。

 後で二人きりになったときに、側室の件をこっそり聞いてみようか。

 しかし、もしもリーゼロッテがその時に肯定の意を示してしまったらと考えると気が進まなかった。リーゼロッテのことだ。レオナルドに必要なことだと判断すれば、自分の意思に構うことなく側室の存在を認めようとするだろう。

 例えリーゼロッテの答えが本心からで無いとしても、レオナルド相手にさえ自分の心を偽るようであったとしたら、レオナルドにとってそれは耐えがたい苦痛であり避けたい現実であった。

 本心を問い質したい思いと、偽りの思いを口にするリーゼロッテを見たくない思い。

 二つの思いの間に折り合いを付けられず、レオナルドは黙って俯いていた。



 レジュノ夫人の屋敷からキュラムの町に着き、無事定期船に乗り込んだレオナルド一行であったが、全員の間には口を開きにくい緊張感が漂っていた。


「……レオナルド様とリーゼロッテ様、あれから一切会話がないな」


「流石に心配になる」


 夕食を終え、食堂に人数分の空いた食器を片付けへと向かったジョルジュとイヴァンは、自分達に用意された客室へと戻る廊下の途中で重いため息を吐いた。

 同行者の一人であったタキはソノンには用事がないためキュラムの町で別れている。彼は彼でキュレムの商会と話があるらしい。

 残された者達の中では最も軽口であるジョルジュですら、レオナルド達には迂闊に声を掛けられず黙ってしまっている。

 今も、レオナルドとリーゼロッテは同室を用意され二人きりで重い時間を過ごしているのだろう。


「どうする? 私たちも戻る前に様子を見ておくか?」


「ん……」


 ジョルジュとイヴァンは、レオナルド達の隣の部屋を用意されていた。

 客室に戻ろうとすれば必然的に二人の部屋の前を通ることになり、様子を窺うことは難しいことでもない。

 しかし、イヴァンの問いに対してジョルジュは難色を示し、首を傾げた。


「流石にそれはお節介が過ぎるだろう。この間のレジュノ夫人に対してはリーゼロッテ様の対応が絶対的に正しい。それに対して納得が行かないのはレオナルド様ご自身の問題で、俺たちが諭すことでも嗜めることでもない」


「それは……わかっているが」


「……珍しいな。お前が進んで首を突っ込みたがるとは」


 からかうような苦笑を浮かべたジョルジュであったが、イヴァンに睨まれて肩を竦める。

 イヴァンにはジョルジュのように割り切ることが出来なかった。

 連日、自分の気持ちに悩むリーゼロッテの姿を目にしてきたイヴァンとしては、そのままにしておくのは心が痛む。初めての恋心とどう向き合って良いのかわからずに動けなくなってしまう気持ちは、イヴァンにも理解が出来た。

 鋭い視線を向けていたイヴァンは、ため息と共に目を伏せる。


「リーゼロッテ様のこと、ずいぶんと気に入っているんだな」

 

 イヴァンの髪へと伸びてきたジョルジュの手は、届く前にイヴァンによって振り払われた。


「そういうのは止めてくれと何度も言っている。人に見られたらどう言い訳するつもりだ」


 今のイヴァンは男の姿だ。

 下手に人の目につけば、不要な噂が流されるかもしれない。

 イヴァンの心配など構うことなくジョルジュは笑い飛ばした。


「別に俺は男好きだと思われたところで構わないさ」


「……レオナルド様の評判にも関わる」


 その言葉には流石のジョルジュも考える所はあるらしく、悩ましい様子で自分の顎を撫でていた。


「それは……うん、良くない」


「わかったら控えろ」


「つまり、部屋に戻れば何をしてもいいということか」


「……は?」


 仮面の奥の瞳がにっこりと細められる。

 悪意しかない微笑みを前に、思わずイヴァンは後ずさった。

 それを許さぬよう、ジョルジュはイヴァンの腕を掴む。振り払う余裕もなければ、振り払える力加減でもない。


「……嘘だよ、イヴ。でも、俺もいつまでもお前の心が整うのを待ってはいられない」


 震える声。ジョルジュの眼差しに射ぬかれ、イヴァンは呼吸を忘れて彼を見上げた。

 掴まれた腕から伝わる熱に、血液から全身が沸騰しそうになる。


「ようやく、自由にお前を好きだと言えるようになったんだ。もう……」


 遠くから足音が聞こえ、ジョルジュは言葉を飲み込みイヴァンの腕を離した。

 何事もなかったような顔で、角を曲がって顔を現した乗組員二人組へと会釈をするジョルジュ。上がりきってしまった熱を自覚しているイヴァンは俯いて、ジョルジュの後に続いた。

 イヴァン自身が自分の気持ちを持て余している。自分の気持ちを話せば良いとリーゼロッテに告げたものの、自分自身はそれが実践できていない。

 実践できないからこそ、それが切に大切なことだと思っているのだ。


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