幸福と絶望と
リーゼロッテ付きの侍女として働くようになり、顔を合わせる機会が激減していた同僚と珍しく廊下で鉢合わせた。
「おっと、失礼……て、なんだイヴか。どうしたんだその荷物」
「うわ……」
「うわ、とは失礼だな」
イヴァンが抱えていたものは卵や果物のような食材であったため、目の前よりも抱えた荷物に意識を集中していたため立ち止まっていたジョルジュに気付けずぶつかってしまったのだった。
露骨に嫌な顔をしたイヴァンに構わず、ジョルジュはその手の中にある食材達を覗き込んだ。
卵に果物、ジャムに干し肉と何を作りたいのかが想像できない。
「……リーゼロッテ様がな、レオナルド様に差し入れを作りたいと言うから」
「差し入れ? ああ、最近は時間があれば鍛練場に行ってしまうからな。二人の時間があまり取れていないんじゃないか?」
「そうらしい。リーゼロッテ様も誘い布の製作で忙しいしな。夜も夜でやりたいことがあるようで時間が取れていないんだ」
「完成の目処は立ったのか?」
「あぁ。私はあまり詳しいことはわからないが、それは見事な出来だ。良くも悪くも目立つだろう」
イヴァンは頷くと、周囲に人がいないことを確かめて声を潜めた。
気付いたジョルジュも、イヴァンの口元に耳を近付けた。
「イセリナ様との関係は大分良好になっている。それは間違いない」
「あぁ、その噂は聞いている。誘い布もシェリー様を交えて三人で作っているそうじゃないか」
神妙な表情でイヴァンは頷く。
ジョルジュの耳にまで噂が届くということは、正妃の耳にはとっくであるだろう。
イヴァンの懸念は同様にジュルジュの不安でもあるらしく、彼もやれやれと両手を挙げた。
「念のため、ナタリー様の周辺を調べておけ。良くない話を耳にした」
「それは私も聞いている。怪鳥狩りの騒ぎに乗じてリーゼロッテ様に危害を加えようと企てているという話だろう」
侍女としての仕事が忙しく、本来の密偵業は疎かになっているのではないかとジョルジュは心配していたのだがどうやらそれは杞憂だったようだ。
頼りがいのある仲間に微笑むと、話を変えるようにイヴァンの肩を叩いた。
「ところでお前、今年の怪鳥狩りはどっちで出る気だ?」
「どっちと言われても、私のような侍女は誘い布を作る必要がないだろ」
「一応お前はマリンデル伯爵令嬢ということになっているのだろう? そのお前が全く参加しないというのもおかしいんじゃないか?」
ジュルジュの言うことには一理あるが、イヴァンは面倒くさそうに溜め息を吐いた。
イヴという人間はマリンデル伯爵の実子ではなく、リーゼロッテの従者とするために養子とした娘であるという話は周知の事実である。
形だけの伯爵令嬢なのだから、積極的に参加する必要はないとイヴァンは考えていた。
元々、男装をして騎士として城に仕えていた身だ。今更、普通の娘と同じことができるわけがない。
自身の器量を見せ付けるために娘達が作る誘い布。
怪鳥狩りの際には開始の時点では一ヶ所に集め怪鳥を誘い出すが、十分に誘き寄せた後は男達が設置された旗を手に取り愛馬と駆けていく。妻のいる男は当然その誘い布を取っていくが、未婚の男性は早い者勝ちで出来の良い布を取り合う。だからこそ、良いものを作り多くの男性の目に止まろうと必死になるのだ。
目当ての男性がいる娘の場合は、事前に自分の誘い布を使ってほしいと頼み込むこともあるくらいである。
ジョルジュが誘い布の話題を口にしたのは、おそらくイヴァンの作ったものを使いたかったということなのだろう。
自分を見つめるジョルジュの眼差しが痛く、後ろめたいことなどなにもないのにイヴァンは目を伏せた。
「……別に私が作らなくても、お前のためにと誘い布を作る娘はいるだろう」
「またそういうことを言う。俺が他の女と話していると嫌そうな顔をするくせに」
心外だ。そんなことはないと否定したくて顔を上げたイヴァンは、自分を見つめるジョルジュの苛立ちを含んだ瞳に気付いて言葉を飲み込んだ。
いつものからかうような調子ではなく、ジョルジュは眉間にしわを寄せて口を閉ざしている。
この程度のやり取りはいつものことなのに。イヴァンはわけがわからなくて、しかし告げるべき言葉が見つけられなくて、結局何も言えずに俯いた。
「リーゼロッテ様を待たせている。……もう、行く」
ジョルジュの言葉を待たずに、イヴァンは駆け出した。
男としてレオナルドに仕えていた時には平気で切り捨てられていた言葉でさえも、今のイヴァンの胸には深く突き刺さる。
もしかしたら、ジョルジュも同じだったのだろうか。
女の姿のイヴァンを前に、今まで耐えられていた思いに蓋が出来なくなってしまったのだろうか。
足早にリーゼロッテの元に向かうイヴァンはその速度を緩めぬまま、片手で乱暴に目元を拭った。
「大丈夫ですか、レオナルド様!」
いつものように鍛練場でヴァインスと手合わせをし、いつものように尻餅を付いていたレオナルドは、いつも通りではない声を掛けられ慌てて立ち上がると声の主を振り返った。
「なんで、リーゼ……!」
バスケットを抱えたリーゼロッテが不安そうにこちらを見上げているものだから、レオナルドは体の埃を払うと軽く咳払いをしてみせた。
盾を下ろしたヴァインスは滅多に見られない弟の狼狽えた様子ににやにやと笑みを浮かべている。
「なんだお前、二人の時は愛称呼びか」
「兄様には関係ありません」
「可愛くない弟だな」
言葉こそ刺々しいが、今まで二人で剣の鍛練をしていたと思うと兄弟仲睦まじいことだ。自然と微笑むリーゼロッテの心境を察したのか、レオナルドは複雑そうに唇を尖らせた。
「ところで、こんなところに来るなんて何かあった?」
「大したことではありませんが、小腹が空いているかと思いまして。それに最近、チェスの時間も取れませんでしたし……」
そう言って、リーゼロッテはバスケットに掛けられていたハンカチをそっと外した。差し入れは、結局のところ口実でしかない。
日中はレオナルドが鍛練に忙しく、夜はリーゼロッテが忙しい。自然とすれ違っていた二人は、どちらかが意図的に時間を作らねば顔も合わせられなかった。
バスケットの中にはサンドウィッチが詰められている。
具は肉と野菜、卵と野菜、果物と腹の空き具合に合わせて選べるようになっている。
バスケットの中身を覗き込んでいたレオナルドの隣にいつのまにかやってきていたヴァインスは、満足そうに口角をつり上げると一足先にステージから降りて肉と野菜のサンドウィッチを鷲掴みした。
「気が利くな。もらうぞ」
「どうぞ。レオナルド様も、ぜひ」
「ありがとう」
レオナルドも降りてリーゼロッテの隣に立つと、どれにしようかと伸ばした手を止めてしまった。
丁度お腹が空いていた頃で、どれも美味しそうに見える。腹の虫は鳴き出す寸前で、しかし二人の前で鳴らすことはしたくなくてぐっと腹部に力を込めた。
「好きなだけ食べてください。たくさんありますから」
「うん。どれも美味しそうだから迷ってしまって」
「迷ってると俺が全て食うぞ」
ヴァインスが早くも二つ目に手を伸ばすから、慌ててレオナルドは卵と野菜のサンドウィッチを手に取った。
アカネース国との貿易も盛んになりつつあり、野菜や果物などの食材の幅が広がってきた。今はまだレイノアール国内でも野菜の収穫は可能であるが、怪鳥狩りを終えて寒さが厳しさを増していくと地面は凍り作物は育たなくなってしまう。
ふっくらとしたパンに挟まれた新鮮な野菜と甘味のある卵の風味が口の中に広がり、レオナルドはほっと息を吐いた。
「……これからは飢饉も少しは緩和されるんだろうね」
停戦のおかげで、冬場でも安定して食物を得ることができる。
その素晴らしさに、無意識のうちにレオナルドは呟いていた。
「それもお前達に掛かっているんだからな。レオナルド、他の女に手出しして外交問題とかはやめろよ」
「兄様ではないのですからそれはありえませんよ」
「だから陛下は俺と婚姻を結ばせなかったのだろう。年齢的にはどう考えても俺の方が近いしな」
ふいに年齢の話題が上がり、レオナルドは様子を窺うようにリーゼロッテを盗み見た。
ヴァインスの言葉は、少なからずレオナルドも思っていたことだ。ヴァインスとレオナルドという二人の王子がいたのならば、リーゼロッテと歳の近い方と婚姻を結んだ方が問題が少ないだろう。
それでも、レオナルドが選ばれたのはヴァインスの日頃の女癖の悪さが二国間の和平条約を崩す恐れがあると判断されたからなのだろう。
五歳年下のレオナルドの妻となったことで、リーゼロッテは言われなくてもいい陰口までも叩かれるようになってしまっている。レオナルドにはどうしようもないこととはいえ、気にせずにはいられなかった。
「私はレオナルド様が旦那様で良かったと思っていますよ」
しかし、リーゼロッテが笑ってそう言ってくれるからレオナルドの心は少し軽くなる。
自分もだと言えればいいのだが、恥ずかしさから口にはできなかった。
「そうだ、姫に聞きたいことがあったんだが」
「はい、なんでしょう」
三つ目を口に運びながら、ヴァインスは唐突に切り出した。
「お前、強い男は好きか?」
突拍子もない質問に、リーゼロッテは理由がわからずにまばたきを繰り返す。
隣ではレオナルドが食べていたサンドウィッチを喉に詰まらせてしまった。ヴァインスがそのような質問をしたのは、明らかに最近武術に力を入れ始めたレオナルドを意識してのことである。
証拠に、咳き込むレオナルドにからかうような視線を向けていた。
「レオナルド様? どうかしましたか? だ、大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ……」
リーゼロッテは慌ててレオナルドの背中を擦っていたが、大丈夫だとレオナルドがその手を止めさせた。
その様子もにやにやと眺めながら、ヴァインスはリーゼロッテに答えを促す。
「どうなんだ? 女は強い男が好きな印象があるが、そうでもないのか?」
リーゼロッテは首を傾げると、ちらり視線をレオナルドへと投げる。
気付いたレオナルドが目線を上げたときには、すでにリーゼロッテはヴァインスの方へと顔を向けていた。
「強さに関わらず、今よりも成長しようと努力する男性は素敵だと思いますね。それが力でも知恵でも何でもいいのですけど」
リーゼロッテの答えは、まさしく今のレオナルドを指しているようであった。
怪鳥狩りで少しでもいいところを見せたいと思っていることをリーゼロッテに話したことはないのだが、もしかしたらジョルジュ辺りから知られてしまっているのかもしれない。
レオナルドは恥ずかしさから口を開くことができない。リーゼロッテにそのように言われてしまえば、益々頑張るしかないではないか。
他人の幸せにはそれほど興味のないヴァインスであったが、武術に興味のなかった弟の努力が報われそうとなれば悪い気はしない。
それでも、一番の大物を譲ってやる気は初めからない。勝負はしてやるが、ヴァインスにも意地があるのだ。
「余計なお世話かもしれませんが、ヴァインス様はまだご結婚なされないのですか?」
先に質問をした手前、自分だけ答えないというのは不公平な気がする。
妙なところで律儀なヴァインスは、面倒くさそうに髪を掻き上げると溜め息を吐いた。
「ないな。レオナルドが結婚した今、兄上には婚約者がいるから空いているのは俺だけだ。となると、俺の正妃の立場はまだ空けておきたいだろう」
「ヴァインス様は女性との噂も少なくはありませんが、本気になったことはないのですか?」
「ない。どうせ俺の結婚相手は自分で選べないのだから、自由でいられる間は好きにさせてもらっているだけだ」
ヴァインスの言い分に、リーゼロッテはただ頷いた。ただの女好きではない。自分の立ち位置は理解した上で、我が儘を通しているヴァインスはリーゼロッテが思うよりもずっと立派な王族としての意識を持っていた。
「そうだ、リーゼ。伝えておこうと思ったことがあって」
婚約者の話でレオナルドは思い出す。
アレクシスとイセリナのことだ。
「最近、アレクシス兄様がとても機嫌が良いんだ。それもこれも、何やらイセリナ嬢が自分のためにピアノを弾いてくれるからなんていう本当に兄様らしい理由なんだけれど……リーゼ、何かイセリナ嬢を焚き付けるような真似でもした?」
最近、イセリナと共に誘い布を作っているという話は耳にしていた。
数日前にはシェリーの部屋から随分と上手なピアノの演奏が、しかもアレクシスの好きな曲が流れていたことに関係があるとレオナルドは予想していた。
リーゼロッテはそっと微笑むと、なにもしていないと首を振る。
「お二人がきちんと思い合っていたということでしょう?」
しかし、それを自覚できていなかったから二人はずっとすれ違っていたのであって、何かしらのきっかけにリーゼロッテが関わっているとするのならば決して些細なことではない。
もしこれをきっかけに、イセリナとアレクシスの繋がりが強くなれば、イセリナがナタリーの顔色を窺う必要性が弱まってくる。今まではアレクシスの気持ちが信じられず、自分の婚約者という立場を守るためにもナタリーに追従するしかなかった。
しかし、アレクシスからの愛情を信じることが出来たのならイセリナの状況も変わってくる。
「……もしかして、狙った?」
「何をですか?」
悠然と微笑み首を傾げるリーゼロッテに、レオナルドは苦笑を溢した。
彼女のこの強かさは、レオナルドも嫌いではなかった。
イセリナは扉の前で大きく深呼吸をした。
額には冷や汗が滲んでいる。手の甲でそれを拭い、覚悟を決めて扉をノックする。
「イセリナです。ナタリー様、お呼びでしょうか」
ナタリーに呼び出されたのは、以前イセリナがリーゼロッテを陥れようと利用した北東の離宮の一室であった。
最近、リーゼロッテと親しくしているという噂が城内で広まっている。
実際に、イセリナの心は最初の頃ほどリーゼロッテに敵対的ではなくなっていた。自ら進んで嫌がらせをしてやろうという気持ちは完全に消え去っていた。
それも全て、アレクシスとの関係の変化が理由である。
単純なことだが、少しだけ二人の時間が増えた。アレクシスのためにピアノを弾く時間が増え、喜ぶアレクシスの顔を見れるようになったことで、今まで積み上げられていったイセリナの不安を少しずつ崩していったのだ。
自分の心が満たされていくと、他人の不幸を望む気持ちは弱まっていく。
イセリナの攻撃的な心が丸くなっていく最中に、ナタリーから呼び出しを受けてしまったことはイセリナの心に重りを付けた。
「待っていたわ、入りなさい」
重い扉を開く。部屋の中では、立ったままのナタリーが冷たい微笑みを浮かべていた。
その姿を目にしただけで、イセリナの背筋は凍りついた。今すぐにこの場を去りたい。その思いを堪え、ゆっくりとナタリーの元へと歩み寄る。
まるで自分の娘に向けるような穏やかな微笑みで、ナタリーはイセリナの両頬に手を添えた。
「そんなに固くならなくてもいいのよ」
「そのようなことは……」
「誘い布の準備は順調かしら?」
垂直に降り下ろされたナイフのような一言に、イセリナはびくりと肩を震わせた。
「貴方は昔からお裁縫が苦手だったものね。今年はどうするのかしら? セリーナ? それともダイアに頼んだのかしら?」
ナタリーは裁縫上手な侍女の名を口にする。
しかし、イセリナは弱々しく首を振って、声を振り絞った。
「こ、今年は……自分で作りたいと……」
イセリナの頬に触れていたナタリーの手が、頬を滑り落ちて首筋に触れる。
冷たい手のひらが首筋に触れ、イセリナは驚き言葉を止めた。
「……まあ、まだ誰かに頼んでいないということかしら。困ったわね、もう明後日よ?」
「ナタリー様、私は……」
「アレクシスの妻となる娘が見苦しい誘い布を出すわけにはいかないものね。いいのよ、準備不足を責めたりはしないわ」
イセリナの言葉には一切耳を傾けず、ナタリーは張り付いた笑みと共にイセリナの首筋を冷たい手で撫で上げた。
「……あぁ、そういえばリーゼロッテは裁縫が上手らしいわね」
イセリナはその言葉を、心臓に剣を突き立てられたような痛みと共に聞いた。
ゆっくりと目を細めるナタリーの言いたいことは、嫌でもわかってしまった。
首を絞められるにも等しい苦しみの中、イセリナは首を縦に動かした。




