頑なな心を溶かすもの
リーゼロッテがイセリナに誘い布の作り方について教えを請うているという噂は、瞬く間に城中に広まっていた。
よりにもよって何故イセリナに……と溜め息を吐いたのはレイノアール国第一王女のシェリーであった。
彼女は幼い頃、イセリナによって何度か嫌がらせを受けていた。
誤った作法を教えられたり、着なくなったドレスを譲ると言われいざ着てみたら自分では見えない位置に穴が空いていたりと恥をかかされた記憶ばかり。
最近になってそれが減ってきたのはシェリーも幼子ではなくなり、相手の行動が善意故か悪意故かの判断が出来るようになったことと、ナタリーに目を向けられず味方と呼べる存在のいなかったシェリーにも専属の騎士が付くようになったことが原因だろう。
下手に手出しをすれば、イセリナの評判に関わってくる。イセリナもその辺りはよくわかっているようであった。
リーゼロッテのことは正直好きではない。婚約者の命を奪ったアカネース国の王女であり、大好きな兄の妻となった女性だ。好きになれる要素がない。
しかし、だからといってリーゼロッテに害意を抱くことはなかった。それをしてしまえば、シェリーもイセリナと同じになってしまう。
そして今、シェリーは迷っていた。
シェリーもまた誘い布を作っていたのだが、気分転換に城内を散歩していたところにきょろきょろと辺りを見渡しながら歩くリーゼロッテを見付けてしまった。
何かを探しているように見える。物を隠されることはそう珍しくない。
「……イセリナのような人を頼るから」
自業自得という言葉が脳裏をよぎった。自業自得なのだから、助けてあげる必要はないと。
しかし、シェリーの足はリーゼロッテへと向かっていった。
リーゼロッテを見捨ててしまったら、過去の自分をも見捨てることに等しいと思ってしまったのだ。
「……リーゼロッテ様、何をなさっているのですか?」
「シェリー様……!」
まさか、シェリーに声を掛けられるとは思っていなかったのだろう。
リーゼロッテは驚いた様子で振り返ると、悠々と一礼をしてみせた。
遅れてシェリーも礼を返し、再び同じ質問を口にする。
「このようなところで何をなさっているのですか?」
「刺繍針がなくなってしまいまして……。どこかに落ちていないかと探していたのです」
やはり、とシェリーは内心で溜め息を吐いた。
イセリナが親切に見えるのは表面上だけ。心の中はナタリーに媚を売ることしか考えておらず、他人を貶めることに抵抗はない。
そう思っているシェリーにとって、この状況は予想通りであった。
のんびりと答えるリーゼロッテからは危機感が感じられない。
それが更にシェリーを苛立たせる。
「リーゼロッテ様は被害者だと思いますけれど、イセリナを選んだ時点でこうなることは覚悟しておくべきです。私は貴方のことを全く可哀想だとは思えません、自業自得です。大体彼女はお母様の顔色ばかり窺って……」
感情的に言葉を紡ぐシェリーの唇に、そっとリーゼロッテの人差し指が重ねられた。
凪いだ海のように穏やかに細められた瞳に、シェリーははっと息を呑む。
「……駄目ですよ、シェリー様。どこで誰が聞いているかわかりません」
リーゼロッテのことを、呑気で世間知らずな王女様だと思っていた。シェリーはこの考えを改めることとなる。
本当に世間知らずであれば、王城の廊下で宰相の娘に対する悪評を口にすることがどのように自分の不利益となるかなど考えもしないだろう。
シェリーはそっと口をつぐんだ。彼女はおそらく、自分と同じような目に遭ってきた王女なのだろうと。
「シェリー様の仰る通り、針の紛失はあくまでも私の失態です。それは誰のせいでもありません」
失礼致します、と頭を下げ去っていくリーゼロッテの背中に、シェリーは掛ける言葉を見付けられなかった。
王都に建てられた宰相の屋敷に設けられたイセリナの私室では、主であるイセリナとその侍女、そして取り巻きの娘二名がリーゼロッテを迎え入れた。
「針を無くしてしまうなんて災難でしたね」
心底同情するような声音でイセリナは溜め息をこぼすと、侍女に命じて自分の刺繍針をリーゼロッテへと貸してやった。
「昔から使っているものなので少し古いものですが……」
「いえ、お心遣いありがとうございます」
侍女から針を受け取ったリーゼロッテは、僅かに眉根を寄せた。
確かに古い物なのだろう。針の先端が若干潰れて丸みを帯びている。これでは布地に上手く刺さらないかもしれない。
「この時期の針を無くされるだなんて、リーゼロッテ様は随分とのんびりしていらっしゃるのね」
「本当ね。暖かい国出身の方は気候に似た性格になるのかしら?」
くすくすと嫌な笑い声を響かす娘たちには言葉なく微笑みだけを返し、リーゼロッテは針へと糸を通した。
言い返すことも傷付く素振りも見せないリーゼロッテに、娘たちは互いに顔を見合わせ表情を歪ませた。その澄ました顔が彼女たちの神経を逆撫でした。
「本当に鈍感なお方ね。周りに鈍いと生きていくのも楽でしょうね」
娘の言葉に、リーゼロッテは反応を示さない。
それよりもリーゼロッテの意識は今、目の前にある両手を広げる程の大きさの布地に向けられていた。
布地はイヴァンが用意したものである。怪鳥を誘い出すためのものということである程度の大きさは覚悟していたが、実際に目にすると少しだけ気が滅入ってしまう。
昨日もイセリナの教えを受けて縫い進めはしたため、一部青と緑の糸が模様を作り出している。布地の外側を交差した二色が縁取り、白い布地のキャンパスを彩っていた。
「イセリナ様、早速続きをよろしいですか?」
「えぇ……」
規則正しく揃えられた縫い目、等間隔で交差する二色の糸。
皆の前で大口を叩いただけのことはあり、確かにリーゼロッテの裁縫の腕は確からしい。
イセリナは微笑みの裏側で舌打ちをし、しかし声音だけは柔らかく、リーゼロッテへと頷いた。
「中央部分には黒と緑の糸で怪鳥を模した刺繍を行います」
「怪鳥を……ですか」
アカネース国ではオントルと呼ばれていたその鳥の姿を思い出そうとリーゼロッテは目を閉じた。しかし、直接目にしたことはないリーゼロッテでは実際にどのような模様を縫えばいいのかイメージできない。
しかしまさか、イセリナがその姿まで教えてくれるとは思えなかった。詳しい姿は後で調べるとして、リーゼロッテはオントルの羽の色を思い出しながら練習を兼ねて掌ほどの大きさで鳥を模した刺繍を縫い始めた。
手を動かし始めれば、周囲の声など入ってこない。
娘たちがなにやら笑う声が聞こえたが、リーゼロッテの意識はそちらには傾けられなかった。
どれ程の時間が経っただろうか。とりあえずで縫い始めてみた鳥の刺繍が完成しようとした時に、侍女の小さな悲鳴が聞こえリーゼロッテは顔を上げる。
「も、申し訳ございません!」
紅茶の入ったティーポットを手にしていた侍女は何かに躓き、転んだ拍子にその中身をリーゼロッテの誘い布の上に溢してしまったのだ。
淡い琥珀色の液体が白い布地に染み込み、大きな染みを作っている。部屋に広がる香りは心落ち着くものであったが、侍女は平静を失い真っ青な顔で誘い布の染みを取ろうと自身のハンカチで紅茶を拭き取ろうとした。
しかし、焦った彼女が布地を擦ってしまったため、紅茶の染みは広がり、刺繍糸にまで染みて本来の色が仄かに淀んでしまった。
「あ、あ……その、申し訳ございません!」
侍女はその場でリーゼロッテへと、平伏し謝罪の言葉を口にする。
その姿に悪意は見られず、本当に彼女は不注意で転倒してしまっただけのように思われる。
リーゼロッテはそっと二人の娘へと目を向けた。彼女たちは自分の作業の手を止め、笑みを殺して侍女とリーゼロッテの姿を眺めていた。
二人が足でも引っ掻けたのだろう。しかし、リーゼロッテには証拠がなく、だからといって今にも卒倒しそうな顔色の侍女を責めることは出来なかった。
「気になさらないでください。誰にでも失敗はあります」
頭を下げたままの侍女の肩にそっと触れる。リーゼロッテにしてみれば、侍女もまた被害者なのだ。
顔を上げた侍女は瞳に涙を一杯に溜め、きつく目を閉じると再び額を床に付け動きを止めた。
「……申し訳ありません、リーゼロッテ様。折角の誘い布が……」
「いいのです。もう一度作ればいいだけなのですから」
「ですが」
「構いません。イセリナ様にも非はないのですから」
これ以上の接触を頑なに拒むリーゼロッテの微笑みの前では、イセリナも付け入る隙が見出だせない。フォローをする振りをして更に貶めることも、恩を売ることもできる。しかし、リーゼロッテの心は固く閉ざされた城門のようでイセリナの言葉を受け入れる様子はなかった。
「今日は疲れてしまいましたので、続きは明日に致します。本日はこれで失礼致しますね」
紅茶の染みた誘い布を荒っぽく畳み、リーゼロッテは立ち上がる。
そして、一度も振り返ることなくイセリナの私室を後にした。
同じ日の夜、リーゼロッテの部屋に思わぬ訪問者が訪れていた。
「タキを紹介……ですか」
リーゼロッテの部屋の椅子では窮屈そうにテーブルに肩肘を付き、ヴァインスは頷く。
二人の前に淹れたてのハーブティーを置くと、イヴァンはリーゼロッテの傍らに立った。ヴァインスがリーゼロッテに害を与えることはないと思っているが、夜に既婚の女性の部屋で未婚の男性を二人きりにするわけにはいかなかった。
ヴァインスは湯気の立つティーカップを鷲掴みにぐいとカップを仰ぐと、思ったよりも熱かったのかすぐにカップを口から離し軽く咳き込んだ。
「兄上から怪鳥狩りのための備品調達を命じられてな。お前たちの国で作られた武器がとても良かったから軍の武器庫に入れたいと思ったんだが、頭の固い老人どもはアカネースの武器を使うなど愛国心がないのか、などと口にする」
大袈裟に溜め息を吐いたヴァインスは指先でテーブルを何度も叩く。王族でありながらもまだ若いヴァインスでは、年上の騎士たちからは侮られることが多い。
乱暴に見えるヴァインスであったが、彼も彼なりに悩みは多いらしい。
「怪鳥狩りの備品にアカネース製の武器を忍ばせ、反対派にも使わせようという魂胆ですね?」
「ああ。使ってみれば良さがわかる。その上でも拒むようならば、こちらも強気に出られるからな」
「承知いたしました。ではタキに話を通しておきます。ヴァインス様のお都合のよろしい日があれば合わせさせますが」
「二、三日のうちに来てもらえれば時間を作ろう。そう伝えてくれ」
リーゼロッテは頷いた。王族が一商人相手に時間を作ると言うのだから、ヴァインスにとってどれだけ重要視しているのかがわかる。
「出来ればアカネースの職人も招きたいものだがな。毎回アカネースから購入するとなると、さすがに金が掛かりすぎる」
「……材料費については私に相談いただければ力になれるかもしれません」
リーゼロッテは静かに口を開く。ティーカップに口を付け、リーゼロッテはハーブティーの香りを楽しみながらその温かな液体を流し込んだ。
彼女の言葉に、ヴァインスは獣の鋭さを併せ持つ瞳を煌めかせた。
「あぁ、そういえばお前は鉱山を持っているという話だったな」
黙って頷くリーゼロッテに、ヴァインスは益々楽しそうに口角を吊り上げる。
「大人しそうな顔をして、本当に食えない女だ。益々俺の好みではない」
「それは良かった。私はレオナルド様の妻となれて本当に良かったと思っておりますから」
頬杖を付いたヴァインスは、言葉とは裏腹に面白いものを見るように目を細めている。レオナルドの妻となった女性がリーゼロッテであったことは、悪くないと笑っていた。
「話は変わるが、お前のことをシェリーが心配していたぞ」
「シェリー様がですか?」
「ああ。誘い布のことでな。お前、そんなに不器用なのか?」
可哀想なものを見る目を向けられ、リーゼロッテは苦笑を浮かべて首を振った。
おそらくシェリーは、リーゼロッテがイセリナにどのような仕打ちを受けているのか予想できているのだ。
リーゼロッテは両手でティーカップを包み込むと、力を抜くように肩を落とした。自分よりも幼い少女に心配を掛けてしまっているというのは、少し恥ずかしい。
「シェリー様はお優しい方ですね。私はあまり彼女とは接するべきではないと思っていました」
「お前がアカネースの人間だからか? 全く気にしないのは無理だと思うが、あいつは歳の割には賢いぞ」
感情と理性の割りきりは出来ている。ヴァインスの言う通りだとリーゼロッテは頷いた。
「レオナルドもシェリーも実の母親から冷たく当たられているからな。同じことを他人にするような奴ではない」
「……意外です。ヴァインス様はあまりレオナルド様のことは関心がないと思っていました」
「よく言われる」
どこか気恥ずかしそうに苦笑を溢すヴァインスは、確かに兄の顔をしていた。
「誘い布、手こずっているのならシェリーに聞いてみれば良い。その方がレオナルドも安心するぞ」
「レオナルド様が……ですか?」
「あぁ。あいつもあいつで今日はどこか落ち着かない様子だった。おそらく、お前のことが気になっているのだろうな」
丁度良く冷めた残りのハーブティーを飲み干すと、ヴァインスは挨拶もなしに立ち上がる。
話したいことは全て言い尽くした。これ以上リーゼロッテに用事はなかった。
「ヴァインス様、ありがとうございました!」
慌てて立ち上がったリーゼロッテは、部屋を出ていくヴァインスの背中に頭を下げる。
レオナルドの気持ちも、シェリーの気持ちも、言われなければわからなかった。
ヴァインスが去り、イヴァンと二人になった自室で、リーゼロッテは両手で自分の頬に触れた。
「リーゼロッテ様? どうかされましたか?」
自分の淹れたハーブティーが口に合わなかっただろうか。不安に思い声を掛けたイヴァンへと、リーゼロッテは首を降る。
指の隙間から除くリーゼロッテの頬は、見るからに朱に染まっていた。
「不謹慎ですけれど……レオナルド様が心配してくれているということが嬉しくて」
「そのような言葉がリーゼロッテ様から出るのでしたら、レオナルド様もお喜びになると思いますよ」
まるで少女のようなリーゼロッテの姿に、イヴァンは切れ長な瞳を穏やかに細めた。少しずつ距離を縮めていく二人の姿を間近で見ている者としては微笑ましく思えるのだった。
「……ですが、あまり心配を掛けすぎるのは感心しません。一度、レオナルド様とお話しなさった方がよろしいですよ」
「イヴの言う通りですね。明日、謝ってきます」
両頬に手を当てたまま、リーゼロッテは頷いた。まだリーゼロッテは自分の力だけで何とかしようとしてしまう癖が抜けきらなかった。
だからこそ、指摘されたのならすぐにレオナルドに会いに行きたいと思う。
「イヴ、私が頑なになりそうな時は声を掛けてください。その時は素直にレオナルド様に助けを求めます」
「はい。承知いたしました」
微笑みと共に頷いたイヴァンに向けて、リーゼロッテもまた笑う。
心の扉の鍵を開いた恥ずかしそうで楽しそうな笑顔は、レオナルドが引き出した彼女の本当の笑顔であった。




