女三人集まれば
レイノアール国の冬の始まりを告げる怪鳥狩りで用いられる誘い布。
それは繁殖期を迎えた怪鳥たちにとって、天敵となる猛獣たちを模した巨大な布である。子が産まれたばかりの怪鳥たちは、天敵を見つけると血気盛んに襲いかかってくる。その性質を利用し、誘き寄せるために誘い布は必要とされている。
男たちが怪鳥相手に武勇を競うのならば、女たちは誘い布で自らの器量を競い合う。
まだ未婚の令嬢にとっては家柄の高い男性の目に止まる貴重な機会であり、既婚の女性たちにとっては自身の能力を見せ付けることで夫の評価を上げる良い場となる。逆に言えば、夫の足を引っ張る可能性もあるため、裁縫の苦手な既婚女性は使用人を影武者として仕立てることも少なくはない。
「誘い布……ですか」
タキとの面会を終えたリーゼロッテは、私室へと向かう廊下の途中で重い息を吐いた。
エプロンドレスに身を包み、特殊な野草で髪色を明るく染めたイヴァンは男装時の面影を残さぬ侍女姿でリーゼロッテの後に続く。
「申し訳ございません、リーゼロッテ様。私は怪鳥狩りに参加する側でしたので、誘い布については詳しく知らず……」
「イヴァ……イヴのせいではありませんよ」
イヴという名でリーゼロッテの侍女として仕えてからまだ日が浅いため、リーゼロッテもまだ名前を間違えてしまう。口を滑らせないように人前ではイヴァンの名を口にしないよう気を付けているため、周囲に怪しまれることはなかった。
誤魔化すように苦笑を浮かべ、リーゼロッテは首を傾げた。
「詳しい方に心当たりはありませんか?」
僅かに後ろを振り返り、リーゼロッテはイヴァンへと尋ねた。
例えイヴァン本人が詳しくなくとも、長く城に勤めてきたイヴァンであれば誰に教えを請えばいいかの見当は付いているはずだ。
しかし、イヴァンの表情はどこか苦々しい。
「心当たりがないわけではありませんが……おすすめしたくありません」
「……何故?」
「貴方が傷付くと、わかっているからです」
リーゼロッテの足が止まる。
ぶつからないようにぴたりと足を止めたイヴァンは、真っ直ぐに自分を見つめるリーゼロッテの眼差しから逃れるように目を伏せた。
「誘い布について詳しいのは当然この国のご令嬢たちです。ですが、彼女たちが快くリーゼロッテ様にお話しするとは思えません。それはレオナルド様の望むところではありません」
躊躇いがちに発せられた言葉には、リーゼロッテは頷くしかなかった。
今この国で、リーゼロッテの味方となる女性はいない。
リーゼロッテは再び胸の中の空気を吐き出した。重いため息に反して、リーゼロッテの表情は陰ることなく窓硝子の先に広がる灰色の空に向けられていた。
「でしたら、これしかないでしょうね」
リーゼロッテは懐から一通の手紙を取り出した。
内容はイヴァンも知っている。一度イヴァンが確認し、その上でリーゼロッテに手渡したものなのだから当然である。
一瞬目を丸くし、イヴァンは納得のいかない様子で眉をしかめた。リーゼロッテの提案に対して、イヴァンもそれしかないと思っているのだ。
「イセリナ様からのお茶会のお誘い……。今日までは式典の準備があると断らせていただきましたが、そろそろ顔を出さなければならないでしょうね。そしてここで味方となる方を探しましょう」
リーゼロッテが苦笑し、イヴァンは頷く。
敵の巣窟に自ら進んで入っていくようなものだ。イヴァンとしては積極的に勧めたいとは思えない。
「……私がお供いたします。少なくとも身の危険についてはご心配ありません」
護衛としての自分の能力について不安はない。
しかし、女性特有の悪意淀めく言葉の剣を防ぐことはイヴァンにとっても難しいことだった。
イセリナが主催となり開かれる茶会は若い娘たちが多く招かれ、社交界デビューをしたばかりの令嬢たちにとってはそこに呼ばれることをまず目標とする者が多い。
現在の宰相の娘であるイセリナに目を掛けてもらうことが出来たのならば、彼女経由で政権に関わる重役たちの子息との縁談が決まる可能性がある。特に爵位の低い娘となれば、舞踏会で男たちの目に止まるよりもよっぽど確率が高く安全な方法となるため毎回イセリナの茶会は娘たちで賑わっている。
王都の第二階層に建設された宰相の邸宅では、今日もイセリナによる茶会が開催された。
いつもとそう代わりのない面々の集まる会であったが、今回は一人珍しい新顔がいる。
「皆様、本日はお集まり頂き誠にありがとうございます」
ざわざわと止まないお喋りは、エントランスホールの階段上から放たれたイセリナの一声で波のように引いていく。
皆の視線が集中したところで、イセリナは優雅に笑みを浮かべると一歩分後ろで控えていたリーゼロッテを振り返った。
「本日は素敵なお客様をお招きしております。先日、レオナルド様とご婚姻なされたリーゼロッテ様です」
ホール中の視線が、リーゼロッテに突き刺さった。
娘たちは皆笑みを頬に張り付けて、品定めをするようにじぃっとリーゼロッテへと細められた瞳を向けている。更に後方に控えたイヴァンは、瞼を落としたまま周囲の空気に耳を傾けていた。それだけでも十分、冷たい空気は感じ取れる。
イセリナに促されるまま彼女の隣に並び、リーゼロッテは膝を下り頭を下げた。
「イセリナ様、本日はお招き頂きまして誠にありがとうございます。皆様にはこの国の仕来たりなど、まだわからないことばかりですので教えていただけたらと思っております」
「当然です。リーゼロッテ様は将来私の妹となられるお方ですもの。皆様、きっと親切にしてくださります」
白く滑らかなイセリナの両手が、リーゼロッテの右手を包む。
そっと微笑む姿は可憐な娘そのものであったが、リーゼロッテは彼女の色味が薄い瞳の奥に潜ます悪意を知っている。手のぬくもりは、決して信頼してはならないものだと覚悟している。
「あのお方、もう二十だとお聞きしましたわ。それなのに年下のイセリナ様から妹だなんて……」
「わたくしなら恥ずかしくてあの場にいられませんわ。流石はあの歳まで縁談のなかったお方ですわね。羞恥心というものを知らないのでしょう」
「レオナルド様は五つも年が離れていらっしゃるのよ。私なら……十一歳の殿方かしら」
「殿方って……。十一ならまだお坊っちゃんではなくて?」
密やかに交わされる言葉の一つ一つが、リーゼロッテの耳にまで届く。ざわめく音。一つ残らず全てがリーゼロッテを嗤っていた。
「レオナルド様のこと素敵だと思っていたんですけれど……」
「もう、流石にわたくしたちでは王家のお方とは釣り合いませんよ」
「……でも、あのお方よりはわたくしたちの方がよっぽど美しいと思うわ」
止まないお喋りを、止めることはもうしない。
リーゼロッテがそっと娘たちの様子を窺えば、中には口を開く素振りを見せない者も数名はいる。それがリーゼロッテの味方となるか敵となるかは、今はまだ判断が出来ない。
イセリナから向けられる敵意などは承知の上でリーゼロッテはこの場に立っているのだ。
だからこそリーゼロッテは、彼女の手を握り返し力強く口角を吊り上げる。
「えぇ。わたくしには姉がおりませんから、イセリナ様を御姉様とお呼びできる日を楽しみにお待ちしております」
この言葉に、イセリナのこめかみがぴくりと固まった。
好意的な皮を被った、容赦なく二人の立場を線引きしたリーゼロッテの一言は、的確にイセリナの自尊心を傷付ける。所詮はただの婚約者だ、と遠回しに言われたようなものだ。
そしてこの一言で、娘たちは目の前の女性が持つ地位を思い出した。
リーゼロッテは、レイノアール王家第三王子の妻。それはもし仮に今、アレクシスとヴァインスが命を落とすようなことになれば、彼女はこの国のトップの座を得るということだ。その可能性を秘めた女性、それが今娘たちが笑い者にした女なのだ。
それはイセリナは持たない可能性であった。なぜなら、今の彼女は第一王子の婚約者でしかない。二人が婚姻を結ぶ前にアレクシスが亡くなることがあれば、彼女はただの宰相の娘に戻るだけ。
突然に日が落ちるレイノアールの真冬のような冷えきった静けさが、エントランスに染み渡る。
そこにいる誰もが、リーゼロッテに対してどう接することが正しいのか計りきれずにただ階段上で握手を交わす二人を見上げていた。
お茶会の話題は基本的に流行と男と悪口と相場は決まっている。
今日は怪鳥狩り開催の報が発表された直後のため、娘たちの関心の殆どはそちらに向けられていた。
「リーゼロッテ様はどういった誘い布をお作りになるのですか?」
「わたくしも気になります! さぞかしお上手なのでしょうね」
リーゼロッテの周囲には多くの娘たちが集まっていた。興味本位の者から、粗探しを目的とした者まで様々であったがリーゼロッテは特別態度を変えることなく楚々とした微笑を浮かべて首を振った。
「アカネース国にはない風習ですので、誘い布というものがどういったものかわからないのです。よろしければご教授願えますか?」
十代の娘ばかりの中で、傲慢な素振りを見せず謙虚に頭を下げてみせるリーゼロッテの姿は、娘たちの目には好印象に映った。どこか大人しそうに見えるリーゼロッテは、その性格を知らない者から見れば御しやすい娘に見えるのだろう。
「でしたらわたくしがお教えいたしますわ!」
「いえ、ぜひ私が!」
「貴方、裁縫苦手ではなくて? リーゼロッテ様、わたくしが責任をもってお手伝いいたします」
次々に詰め寄る娘たちの瞳の奥に隠された本心は、決して善意だけではない。むしろ、善意で声を掛けてくるものが目の前にいるわけがなかった。
第三王子の妻に顔を売りたい者、リーゼロッテを貶めナタリーやイセリナに媚を売りたい者。押し寄せるようにリーゼロッテへ声を掛けたのはこのどちらかなのだろう。
遠目にリーゼロッテの様子を窺う者もいるため、他にも黒い思惑は蠢いている。
リーゼロッテはその全てをさっと見渡し、詰め寄る娘たちの前で苦笑を浮かべた。
「皆様もご自身の準備があるのではありませんか? ご迷惑をお掛けするわけには行きません……」
「ですが、誘い布は毎年狩りが終わると焼却してしまいますから過去の物は残っておりませんし、わたくしたちも幼い頃に母より作り方を教わっているので書物があるわけでもないのです。誰かに学ばねばならないと思うのですが……」
イセリナと変わらぬ年頃の娘がそう言って心細そうに視線を落とした。
口伝で伝わる風習ほど厄介なものはない。
リーゼロッテのように外側から訪れた者を徹底的に排除する仕組みが出来上がっているということになる。
誰も信じられない中で誰かを頼らなければならない。相手を間違えれば、恥をかくのは避けられない。
「でしたらわたくしは、イセリナ様にお願いしたいですね」
どうせ誰も信じられないのならば、と。
リーゼロッテは自らその名を口にした。




