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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
3章 焼けた靴で踊るように
52/112

白の世界に二人だけ


 レイノアールの朝は、空気が刃物のように冷たく鋭く肌を刺す。

 体の底から凍り付く、肺に沈み内側から体を冷やす夜の冷気とはまた違った冷たさは、微睡むリーゼロッテの夢を邪魔するように彼女の頬を冷たく叩いた。

 今日も寒い、と頭ではわかっているのだが、まだ半分以上は夢の中に置き去りにして来たリーゼロッテの意識では、体を起こすことまでは出来なかった。ベッドの中で自分自身の温もりに抱かれながら、夢と現実の狭間をぼんやりとさまよっていた。


「リーゼロッテ様? 起きている?」


 どれくらいの間、そうしていただろうか。不意に、ノックの音が響き、静かな声がリーゼロッテの名を呼んだ。

 レオナルドが早朝からリーゼロッテの部屋を訪れるとは、何か問題でも発生したのだろうか。はっきりしなかった頭は一瞬で覚醒し、リーゼロッテは半身を起こすとドアの方へと声を掛ける。


「お、起きております! 少々御待ちいただけますか?」


 返事をしながらリーゼロッテは姿見の前に立ち、乱れた髪を手櫛で整えた。毛先はまだ癖が残ったままであったが、レオナルドを待たせているということもありそこまでは諦める。

 部屋の中に充満した朝の冷気にぶるりと体を震わせて、リーゼロッテはクローゼットの中から上着を取り出す。袖は通さずに上着を羽織り、急いで扉へと駆け寄った。


「お待たせ致しました! 何か問題でもありましたか?」


 思った以上に早く姿を現したリーゼロッテに驚きつつ、レオナルドは彼女の慌てた様子に苦笑を溢した。


「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。何か起きたってわけじゃないから」


「え? そうだったのですか……?」


「ごめん、こんな時間から訪れてしまって。もし起きているようならと思って……」


 そこで一度レオナルドは言葉を止める。レオナルドは既に普段着に着替えており、すぐにでも公務に移れる姿をしていた。

 まだ朝日が昇っていない時間であるのに、レオナルドには欠片も眠気を引きずる様子も見られなかった。

 防寒のためにコートと襟巻きを身に付けたレオナルドは、まるで今から外出をしようとしているようだ。朝早くから出掛ける予定があるのかとリーゼロッテは疑問に思ったが、尋ねることはしない。

 中々口を開かないレオナルドを不思議に思いつつも、リーゼロッテは再び彼が話し出すのを待った。

 しばらくして、レオナルドは何かを決心したような顔でリーゼロッテを見上げ、口を開く。


「貴方に見せたいものがあるんだ。一緒に来てもらえる?」


「はい……?」


 レオナルドがそう言うのならば、リーゼロッテに断るつもりは露ほどもない。突然のことに驚きの表情は見せたものの、リーゼロッテは頷きレオナルドの隣へと並ぶ。

 リーゼロッテが応じたことでレオナルドは安堵の息を漏らし、自分の首に巻いていた襟巻きを外すとリーゼロッテの細い首へと巻き付けた。


「コートも袖を通して前も閉めるように。そのままだと寒いと思うよ」


 そう言って歩き出したレオナルドの背中を、リーゼロッテはコートを着直しながら駆け足に追いかけていった。




 一晩の間に降り積もった初雪が、白の庭園をその名の通り純白の雪で覆い隠していた。

 庭師が丹精込めて手入れをした草木も、規則的に敷き詰められた赤煉瓦の道も、白に飲み込まれ静寂に包まれている。唯一雪の積もっていないのは、茶会を楽しめる屋根付きテーブルスペースだけであった。

 リーゼロッテがこの国に訪れてから、初めての雪。

 レオナルドは庭園への扉を開き、隣に立つリーゼロッテの目の前に一面の雪景色を広げた。

 音の無い白の世界。

 雪の止んだ今では、降り積もる雪の音すらも聞こえない。

 レオナルドは見慣れた雪景色に顔を向けたまま、横目でリーゼロッテの様子を窺った。雪を目にした彼女がどのような顔をしているのか、直にこの目で見ておきたかった。


「……」


 薄く開かれた唇から、規則的に溢れ出る白い息。微かに朱色に染まった頬。動かない空色の瞳。リーゼロッテは雪景色が生み出す静寂を守るように、黙ってその光景を眺めていた。


「っくしゅん」


「大丈夫?」


 リーゼロッテのくしゃみを合図に、再び時間は廻り出す。

 両手で口元を押さえたまま、頬を赤くしたリーゼロッテはそっと目を細める。


「これが本物の雪景色なのですね」


「えぇ。リーゼロッテ様は雪をご覧になったことがないと聞いたから、是非この誰も触れていない積もったばかりの雪を最初に見せたいと思ったんだ」


 リーゼロッテは視線をレオナルドから雪へ戻すと、少しだけ悪戯めいた笑みを浮かべて両手を後ろで組んだ。


「……私にとっての初雪は、この王都に訪れたその日に降りましたよ」


「あれは……雪じゃないんだけど」


 リーゼロッテの声音がどこか弾んでいるように聞こえたため、レオナルドは気恥ずかしくなり顔を背けた。

 彼女は、レオナルドが降らせた白薔薇の雪のことを言っている。レオナルドにとってそれは咄嗟に思い付いた苦肉の策であり、自分自身でも少し気障な真似をしたと思っていたため、思い出すと恥ずかしくなる。


「本当は雪が降っているところを見せたかったんだけど、夜のうちに止んでしまったようだから」


 初雪の日に結んだ繋がりは未来永劫に続く。そんなものはただの迷信でしかないとわかっていたが、初雪の中でリーゼロッテの未来を約束してあげられたなら少しは彼女の不安を拭ってやれるのではないかと、そんなことを考えていた。

 残念そうなレオナルドの声で、リーゼロッテはレオナルドへと顔を向けた。レオナルドがそっぽを向いてしまったため、リーゼロッテには彼の後ろ頭しか見えていない。


「……レオナルド様は、私にたくさんの初めてをくださるのですね。降った雪も積もった雪も、レオナルド様のお蔭で目にすることが出来たのですから」


 レオナルドの手に、リーゼロッテはそっと両手で触れた。互いに冷えきった手では、温もりを分け温め合うことは出来ない。しかし、体の内側に隠された心が熱を帯びていくのを、レオナルドは感じていた。

 ぎゅっと手を握られたレオナルドは、戸惑いながらリーゼロッテへと顔を向ける。そして、小さく笑みを溢した。


「鼻、赤いよ」


「え?」


 リーゼロッテは慌ててレオナルドの手を放すと、両手で赤い鼻を隠して恥ずかしそうに目を伏せた。恨めしげな視線を向けられて、レオナルドはとうとう堪えきれずに声を出して笑った。

 それは今までレオナルドが目にしたリーゼロッテの姿の中で、王女らしさの無い普通の娘のようであった。大勢の人間の前で辱しめを受けても平気な顔をしていた彼女が、些細なことで頬を染める姿は正直に可愛らしいと思ってしまった。


「もう少し厚手のコートを買った方がいいかもしれないね。明日の式典が終わったら僕も少し時間が出来るから、一緒に見に行こう。街の視察も兼ねてになるから買い物はついでとなってしまうけれど」


「そのようなことでレオナルド様のお時間を頂くわけには……」


 リーゼロッテが首を縦に振らなかったので、レオナルドはわずかに眉をしかめた。先ほどは普通の女性のようで愛らしさを感じたのだが、再び良く出来た王女の顔が覗きレオナルドは溜め息を吐き出さずにはいられなかった。


「前々から思っていたけど、リーゼロッテ様は本当に他人を信用していないよね。そんなに僕は頼れない?」


「いいえ、そのようなことございません!」


「そういえば昨日も母上に呼び出しを受けていたようだね。どうして事前に……まぁ事後でもいいけど、何も言ってくれないの? 何かあってからでは遅いんだよ」


 自身の手を胸の前で抱いて、リーゼロッテは控えめに首を左右へと振る。


「昨日の件は本当に大したお話しではなく……ナタリー様が明日の式典のためと靴を用意してくださっていたのです」


「その靴、何かされていなかった? 針が入っているとか、ヒール部分が壊れやすくなっているとか」


 リーゼロッテは黙って首を降った。しかし、レオナルドの追及は止まない。


「じゃあ、呼び出したときに何か言われなかった? 嫌味とか……城内の根も葉もないような噂とか」


 そのようなこともなかった。リーゼロッテが仕草だけで答えると、レオナルドは怪訝そうに表情を歪めた。

 ナタリーがただの善意で、リーゼロッテを呼び出し靴を贈るなど考えられない。


「だとしたら、デザインが流行遅れでリーゼロッテ様に恥をかかせようとしているとか……いやでもそれだと送った母様も恥をかくことになるのか……」


 独り言を漏らしながら思案を続けるレオナルドを見つめるリーゼロッテの眼差しには、困惑が強く浮かび上がっていた。

 その視線に気付いたレオナルドは顔を上げると、リーゼロッテを見上げて呆れた様子で両腕を組んだ。


「どうして私なんかのために必死になっているんだろう、とでも言いたげな顔をしているね」


「……!」


 心中をピタリと言い当てられてしまったのだろう。リーゼロッテは一瞬目を丸くすると、射ぬくようなレオナルドの視線に観念した様子で肩を落とした。


「……はい、思いました。レオナルド様はいつも、どうして私なんかを守ろうとしてくださるのだろうと思っておりました」


「そんなの、簡単だよ」


 レオナルドは、リーゼロッテに向けて手を伸ばした。

 ゆっくりと伸びた指先は、赤くなったリーゼロッテの鼻をきゅっと摘まんだ。

 これで彼女は何も言い返せない。いつもの遠慮がちな言葉は、封じさせてもらった。

 驚いて身を縮こまらせたリーゼロッテに向けて、レオナルドは眩しいものでも見つめるかのように目を細めて微笑んだ。


「アカネース国との和平が続くことを、心から、本気で、願っているからだよ。そのためにもまずは、リーゼロッテ様を守らなければならない」


 薄目を開けてレオナルドを窺うリーゼロッテの瞳から、困惑の色はまだ消えない。

 今は戸惑ったままでもいいと思う。レオナルド自身も、初めからリーゼロッテを必要以上に守ってやるつもりはなかったのだから。

 必要以上に距離を詰めてしまえば、ナタリーの標的となるかもしれない。そう考えていた頃もあったが、実際にナタリーの害意に晒される姿が目に入れば助けずにはいられなかった。

 リーゼロッテの側にいると、幼い日に失った敬愛する従兄弟の姿が悪夢のように脳裏を掠めていく。リーゼロッテもこのまま何もしなければ同じ末路を辿るのではないかという不安が、レオナルドの心を急かしていた。


「……母様は僕が力を付けることを何よりも恐れている。だから、僕を貶めるためにリーゼロッテ様を利用することだって十分考えられるんだ。……あの人にとっては、この和平が続くことよりも、アレクシス兄様が王位を継ぐことの方が大切だから」


 ナタリーにとって、自分の子が王位を継ぐことではなく、アレクシスが王位を継ぐということが何よりも優先される。例え息子のレオナルドであっても、アレクシスの地位を脅かすようならば容赦はしない。


「アカネース国の第一王女という肩書きの娘が僕の妻となったことは、母様にとって大きな不安材料なんだ。だから、今のうちに貴方の地位や評判を落としておきたいんだよ」


 レオナルドはリーゼロッテの鼻から手を放す。

 開放された鼻を撫でながら、リーゼロッテは申し訳なさそうに目を伏せる。


「私も……思いはレオナルド様と同じです。この和平のため、貴方に迷惑を掛けてはならないと思っておりました」


「それじゃあ僕らは、お互いに同じ思いだったということなんだね」


 レオナルドがリーゼロッテを守ろうとすることも、リーゼロッテがレオナルドに助けを求めようとしないことも、どちらも等しく二国の未来を願ってのことであった。

 同じ方向を向きながらも、根本的な価値観が正反対を向いてしまった二人。互いに同じ人間ではないのだから、それもまた当たり前のことなのだろう。

 力になってやりたいと、レオナルドは思う。しかし、リーゼロッテは今までと同じように自力で何とかすればいいと思っていた。

 それは決してレオナルドが頼りないわけでも、信用できないわけでもない。

 リーゼロッテにとってレオナルドを頼ることは、レオナルドに迷惑を掛けることと同義であっただけのこと。


「……わかった。僕も少し、リーゼロッテ様の言い分を考えてみる。だから貴方も、僕の言ったことについて考えてほしい」


 価値観が違うのなら、妥協案を探そう。そう提案したレオナルドは、もう先程までの呆れた様子は見せていなかった。


「はい、レオナルド様。私もレオナルド様のお言葉と自分の振る舞いとを、見直してみます」


 リーゼロッテも胸のつかえが取り除かれたような、淀みの無い微笑みを見せている。互いの意見を尊重し、歩み寄って擦り合わせていく。そのような提案を、リーゼロッテは生まれて初めて耳にしたのだ。


「どちらにしても、コートを買いには出掛けるよ。僕の隣にリーゼロッテ様が並び、街を視察する。そして一緒に買い物を楽しむ。僕たちの不仲を疑う噂があるようだから、その対策も兼ねてね」


「そのように言われてしまったら、断ることなどできませんね」


「そうだよ。元から断らせるつもりもなかったんだから」


 戻ろう、とレオナルドが差し出された手に、リーゼロッテの手のひらが重なる。

 冷たい手同士で触れあう熱は、防寒具よりも温かかった。


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