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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
3章 焼けた靴で踊るように
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想い届かぬ二人


 一人城内を歩きながら、ジョルジュは考えていた。

 今回のように、女性が着替えなどを理由にリーゼロッテを連れ出した場合に男のジョルジュでは同行が難しくなる。

 リーゼロッテが北東の廃屋に連れていかれたことはイセリナを尾行しすぐに突き止められたが、後手に回らざるを得ない状況になってしまうのは放っておけない。特にリーゼロッテを狙う行為に対しては相手の行動が起きてから対処するしかないため、後手に後手にと回されればそれだけ対処が難しくなる。

 とはいえ、ジョルジュがいきなり明日から女性になれるわけではなく、どうしたものかとため息を吐いた。


「……いや、いるな。明日から突然女になれる奴」


 丁度イヴァンの顔を思い浮かべた矢先に、彼女は前方の角から姿を現した。こちらの方へと足を向けていたイヴァンは、ジョルジュを見つけ驚いた様子で目を丸くする。


「ジョルジュ……、何故こんなところにいる? リーゼロッテ様はどうした?」


「ああ、イセリナ様に連れていかれて今は北東の離宮にいる」


 駆け足に距離を詰めたイヴァンは、あっさりと告げられたその言葉に顔を青くする。表情の掴めない仮面を睨み付け、イヴァンは離宮へと向かうためジョルジュへと背を向けた。

 しかし、彼がそれを許さず、イヴァンの腕を掴むと首を振った。


「リーゼロッテ様は無事だ。イセリナ様が手回しをして若い騎士にリーゼロッテ様を襲わせようとしたらしいが、その男をリーゼロッテ様が懐柔した。そこまでちゃんと確認したよ」


「懐柔って、どうやって?」


「金だよ」


 自身の栗色の髪を掻き上げて、ジョルジュは呆れた様子で短く言い放った。

 騎士でありながら、金を受け取り不誠実な命令に従う男に対する嫌悪感からの声色に気付き、イヴァンも僅かに眉を潜めた。

 腹立たしいのはイヴァンも同じだ。しかし、騎士の中には忠誠心などなく自身の家に箔を付けるためだけに送られる貴族の子息も多い。イヴァン自身も初めから強い忠誠心と共に城に仕えていたわけではないため騎士達の気持ちもわからなくはなかった。

 誰もが心から忠誠を誓える主に出会えるわけではない。そんなことを今ジョルジュに説いても意味はないと、イヴァンはそれ以上はなにも言わなかった。


「リーゼロッテ様はアカネース国に鉱山があるからな。金庫を持っているようなものだ、イセリナ様が用意するような金額なら軽く越えていくだろうな」


「それがナタリー様であってもか?」


「あの方が出てくると金額よりも正妃であり第一王子の母であることが判断条件になりそうだから、比較は難しいな」


 イセリナもまた第一王子の婚約者であり、この国の宰相の娘である。

 恩を売っておいて決して損はない相手であるが、今回イセリナが声を掛けた青年騎士は雪深く作物の実りが期待できない不毛な領地を収める男爵家の跡継ぎだ。将来得をするかもしれない可能性よりも、今すぐに現物として与えられる資産の方が魅力的であった。

 だからこそ、イセリナもこの男ならば簡単に依頼を受けると思い声を掛けたのだ。まさか、こうも簡単にリーゼロッテに丸め込まれるとは思わなかったのだろう。


「とにかく、だ。男は掌を返した。しばらくしたらイセリナ様がレオン様を呼びに来るだろう。リーゼロッテ様の不貞をでっち上げるためにな」


 ジョルジュはイヴァンの唇に、自分自身の人差し指を押し当てる。レオナルドには何も言うな、と仮面の奥の瞳が微笑んでいた。

 レオナルドに余計な心配は掛けたくはない。それに、知らないままの方がイセリナに疑われることもないだろう。


「それはそれとしてだな、イヴァンに相談がある」


 イヴァンの唇に触れた指先は、彼女の弾力のある唇の縁を一周なぞり静かに離れる。口付けよりも甘いその熱を受けたイヴァンの瞳が、悔しげに歪められた。


「侍女としてリーゼロッテ様にお仕えしないか?」


「……は?」


 予想通りの可愛い顔だ、と笑うジョルジュの脛を、イヴァンは思い切り蹴り飛ばしていた。



 冷たい廊下を、レオナルドは走る。

 後ろから小走りに追いかけてくるイセリナとは随分と距離が開いてしまったが、構うことなどなかった。

 北東の離宮で、リーゼロッテが逢い引きをしている。イセリナからの報告を受け、レオナルドは駆け出していた。

 おそらくは、イセリナの勘違いだとレオナルドは思う。見間違いだと信じている。

 足が止まらないのは、リーゼロッテを疑うからではない。

 本当に彼女が男と二人きりだとするならば、彼女の身が心配で止まってはいられなかった。


「イセリナ嬢、リーゼロッテ様がいたのはどこの部屋だ!?」


 ドレス姿のイセリナではレオナルドとの距離が開く一方であった。足元を気にしながら追いかけてくるイセリナでは、レオナルドの問いは届かない。レオナルドは軽く舌打ちをすると、久しく訪れていなかった見慣れた廊下を駆け抜ける。


「リーゼロッテ様! いたら返事をしてほしい!」


 喉を震わせ、レオナルドは駆ける。軋む床も、荒れる息も、レオナルドにはどうでもよかった。

 彼女に、何事も起きない日々が当たり前なのだと言ったのはレオナルドだ。これでは、レオナルドは嘘を吐いたことになってしまう。

 あの夜の、震えたリーゼロッテの声は今でも耳の奥に張り付いている。

 祈るように感謝の言葉を紡ぐ彼女の姿は、まるで無力な幼子であった。


「レオナルド様……?」


 以前はこの居城の主が寝室として使っていた部屋の前を走り抜けたとき、微かな声がレオナルドを呼んだ。

 リーゼロッテの声だ。レオナルドは通り過ぎた部屋の前へと戻り、ドアノブに手を掛けた。


「リーゼロッテ様! ご無事……」


 力任せに開いた扉。逸る気持ちのままに部屋へと飛び込ませた体は、室内で一人ベッドに腰掛け何やら針仕事をしているリーゼロッテを瞳に捉えて、ぴたりと止まった。

 手元には三色の糸と、白無地の布。その布はこの部屋で使われていたカーテンなのだが、今のレオナルドにとってそれはどうでも良いことで気付いてはいない。

 座ったままのリーゼロッテの爪先から頭の先までを一通り眺め、開いたままになった口から頼りない声を溢した。


「……何をしているの?」


「時間が空いてしまったので、レイラに頼まれていたアカネース国で主流の模様を縫っていたのです」


 リーゼロッテは緩やかに微笑むと、レオナルドを手招きし空いていた隣のスペースを軽く叩いた。

 未だに渋い顔をしながらも、レオナルドはリーゼロッテに従いゆっくりとベッドに腰掛ける。彼女の手元を覗き込めば、無地のカーテンに赤青緑と三色の糸が見慣れぬ模様を描いていた。

 色違いの糸を使っているため、複数の糸が複雑に交差する場面ではどこから縫い始めた糸によるものなのかがわかりやすくなっている。教本のような模様に感嘆の息を漏らしたレオナルドであったが、ここに来た目的を思いだし慌てて顔を上げる。


「そんなことよりも、何故こんなところに……!」


 冷静さを失ったレオナルドを嗜めるように、リーゼロッテは自身の唇に人差し指を当てて声を静めるよう指示をした。

 そして、レオナルドの耳元に顔を寄せると小さな声でそっと告げる。


「私はこの部屋に呼び出されました。おそらくは、ここで男にでも襲わせようとしたのでしょう」


 誰に呼び出されたのかを、リーゼロッテは口にしなかった。レオナルドにとって気になる部分ではあったが、そこを問うのは城に戻ってからで良いとリーゼロッテの言葉の先を待つ。


「実際にお金で雇われた騎士がこの部屋に来ました。ですから私は、その男に倍のお金を……正しくは倍のお金で売れるだろう宝石を提示し、こちらに寝返っていただきました。何事もなかった証拠が欲しかったので、こうして刺繍もさせていただきました。勝手にカーテンを使ってしまって申し訳ありません……。出来るだけこの部屋から調達できる品を使いたくて……」


「なら……何もされていないんだね?」


 事の顛末も重要だが、レオナルドにとってはリーゼロッテの身が無事であるかが最も重要な事柄であった。そこを真っ先に確認したいレオナルドは、リーゼロッテに詰め寄り訪ねる。

 その必死な姿に驚いたのか、リーゼロッテは目を丸くして戸惑いがちに頷いてみせた。

 ぎこちなくはあったがしっかりと頷かれ、レオナルドはほっと息を吐く。


「それならいいんだ……」


 肺の中の息を吐き出したら、どっと疲れが押し寄せてきた。

 レオナルドは力の抜けた体で、リーゼロッテの肩へと自分の頭を預ける。


「無事でいたなら、それでいい……」


 全身の緊張が解れていく。リーゼロッテのなだらかな肩の上で、レオナルドは弱々しく笑みを溢した。

 体を預けて安堵するレオナルドの頭を見下ろすリーゼロッテの表情には、困惑の色が浮かんでいた。

 恐る恐る、レオナルドの背中へと手を伸ばす。抱き締めるように、ゆっくりと、レオナルドの背中を撫でた。

 硝子細工に触れるよりも慎重な指先。触れることで壊れてしまうのではないかと、恐れているような手付きだった。


「……あ!」


 自分が抱き締められていることに気付き、レオナルドは逃れるように立ち上がった。白い頬は朱に染まり、驚いた様子のリーゼロッテの顔を見ることも出来ずに顔を背ける。

 イセリナが部屋に駆け込んできたのは、丁度その頃であった。


「レオナルド様、ようやく追い付きました……」


 珍しく髪を乱した彼女は、胸に手を当てて荒れた息を整える。しかし、部屋の中にリーゼロッテとレオナルドしかいないことに気付くと、整えていた呼吸は握り潰された。

 男と乱れ合うリーゼロッテの姿をレオナルドに見せ付けるつもりが、どういうことかリーゼロッテは部屋に一人で平気な顔をしている。

 レオナルドの手前、どうなっているのかを問い詰めることができない。それどころか、リーゼロッテがイセリナによってこの部屋へ連れ出されたことをレオナルドに告げてしまえば、立場が悪くなるのはイセリナの方であった。


「イセリナ嬢、どうやら今回の件は貴方の見間違いだったようだね」


「え、えぇ……」


 レオナルドの声色には、イセリナを責める響きはない。

 リーゼロッテは話していないのだろうか。イセリナは僅かに視線をリーゼロッテへと向けて彼女の様子を窺った。

 視線が絡まり合い、リーゼロッテは口角だけを緩やかに持ち上げる。笑顔ではない微笑みに、イセリナは息を呑んだ。

 その表情は陥れられた人間には決して浮かべることのできない挑発的な微笑みで、イセリナは自分の策が失敗したことを悟る。


「悪かったね、貴方にまで心配を掛けてしまったようで」


「お気になさらないでください。何事もないようでほっと致しました」


 疑う気配のないレオナルドに向けて、イセリナは作り上げた笑顔を返した。この様子ではリーゼロッテが告げていないとみえるが、イセリナにはその理由がわからなかった。

 常日頃から慎ましやかに振る舞うイセリナは、そもそもレオナルドから疑われてもいない。今回の件についても、レオナルドはリーゼロッテの逢い引きを目撃したというイセリナの言葉を信じ、まさか彼女がこの件の張本人とは考えていなかった。

 この場は、レオナルドに本当の事を告げイセリナへの警戒心を高めることが得策に思われる。そうすることで、今後イセリナはリーゼロッテとの接触が難しくなるのだから。

 しかし、リーゼロッテはそれをしない。微笑みの仮面の奥に潜む心が、イセリナには理解できなかった。


「ご心配下さりましてありがとうございます」


 立ち上がり頭を下げるリーゼロッテへ、何を返せば良いかわからない。イセリナは曖昧に微笑み、室内に視線を走らせた。

 男が暴れた形跡はない。ベッドの沈み具合も、リーゼロッテ一人分のものしかなく、彼女の手元にある布地に施された刺繍を見れば長い時間作業をしていたことが窺える。

 土壇場で騎士が怖じ気づいたのだろうか。後で男へ問い詰めようと考えていたイセリナの思考を掻き消すように、リーゼロッテが口を開いた。


「もしかしたらイセリナ様がご覧になった男というのは、この糸を届けてくださった方かもしれません」


「え?」


「何色か刺繍糸が欲しかったのですが、生憎持ち歩いていたのは一色だけでしたので下を通り掛かった方にお願いして持ってきていただいたのです」


 廃墟となった居城付近を偶々通りかかる騎士などいるわけがない。しかし、それを指摘すればリーゼロッテはイセリナの悪事を口にするかもしれない。

 イセリナは反論することが出来ず、リーゼロッテの言葉に頷くしかなかった。少しでもリーゼロッテの機嫌を損ねれば、手痛い反撃を食らう可能性がある。その事実がイセリナの体に、茨のように絡み付いていた。



 リーゼロッテと共に私室へと続く廊下を歩く。聞きたいことは山ほどあったが、どこに他人の耳があるかわからぬ場では尋ねられない。

 しかし、沈黙のまま並び歩くのも気まずい。レオナルドは気にかかっていたことで、尚且つ周囲に聞かれても問題のなさそうな話題を選んで口にした。


「そういえば、ジョルジュはどうしたの?」


「一度離れて頂きました。なにせ、ドレスの採寸をするためにと呼び出されてしまったので、付いてきていただくわけにはいかず……」


「……そもそも、何故それで行ってしまうの? 誰かが何かを企んでいることくらいわかっていたのでしょう?」


 一人でいた理由はわかった。しかし、レオナルドにはそこで退かない彼女が理解できなかった。

 リーゼロッテもまた、レオナルドの問いの理由がわからないのだろう。普段と別段変わらぬ様子で、首を傾げる。


「今までもそうしてきましたので……。なにかおかしかったでしょうか?」


 彼女の態度に、レオナルドは頭を抱え足を止めた。

 リーゼロッテが悪意を真っ向から迎える人間であることを、レオナルドはすっかり忘れていたのだ。最初の晩餐の日も、イヴァンから受けた数々の報告もそうだったではないか。


「ちょっと、こちらに」 


 レオナルドはリーゼロッテの腕を掴み、二人の間の距離をゼロにした。これならば、互いにだけ聞こえる声で話ができる。


「貴方は一人で解決をしようとし過ぎだよ」


 見上げた空色の瞳が揺れる。レオナルドは構うことなく、更にリーゼロッテの腕を自分の方へと引っ張った。


「それに、嫌な予感がしたら逃げて良い。もし、断ることで僕の顔に傷が付くとか考えていたなら、そんなことは気にしなくても良い。僕は元々、跡継ぎとしての評価は高くないし、僕自身も次期国王はアレクシス兄様がいいと思っている」


「レオナルド様、私は」


「口答えはさせないよ」


 リーゼロッテの言葉を切り捨て、レオナルドは左右に首を振った。

 彼女が言いたいことは、何となくだがわかっていた。

 勝算があったから、逃げなかった。そう言ってレオナルドを説き伏せようと考えたのだろう。実際にリーゼロッテは今もこうして自身の力で身の純潔を守っている。


「僕は、自分の身を大切にしろと言っているんだ。それは自分の身を危険に晒して、相手の策を潰せという意味ではない」


「……はい」


 陰る瞳に、レオナルドは映らない。

 絡まない視線を惜しみながらも、レオナルドはこれでいいと手を離した。


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