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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
2章 明日から夫と妻となる
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貴方は僕の妻となる

 前日まで降り続いていた雨が嘘のように止んだのは、神も今日という日が両国にとってどれ程重要なものかを理解しているからだろう。

 王都を濡らした雨は、幸いにもアカネース国の姫が一晩を過ごしたゼレノスの街までは足を伸ばさなかったらしい。よほど、太陽に気に入られた娘なのだろうか。

 本日の主役である少年は純白の衣装に身を包み、控え室の窓から晴れ渡る空を見上げた。

 雪の多いレイノアール王国では、冬季は常に灰色の雪雲が空を覆い、夏期になればほとんどが曇天で空は滅多に晴れることがない。

 目の前に広がる青空も、彼がこの国で目にしたのは一ヶ月ぶりだった。

 きれいな空だとは、思う。しかし、少年の心の曇天は決して晴れることはなかった。


「せめて神様くらいは祝ってくれないと、僕だってやってられないよ」


 一人ため息を吐き、少年は大きく肩を落とした。

 同じ晴れた空ならば、アカネース国で目にした茜色の夕焼け空の方がレオナルドの目には美しく映った。眩しすぎて眺め続けるには不適な色であったが、それでも身を包む温もりは灰色の空の下では遠く手は届かない。

 長年、戦争を続けてきたアカネース王国との間に停戦条約が結ばれた。

 理由は様々であったが、最も大きな理由は長い戦争による両国の疲弊だ。

 アカネース王国はかねてよりレイノアール王国へと停戦の要求を申し出ていた。

 しかし、先代のレイノアール王にとってアカネース国の制圧は悲願であり、王国繁栄のためにも譲れぬ道であった。その先代が病で亡くなり、現国王の英断でレイノアール王国は和平条約を結ぶ道へと大きく舵を切った。

 戦争で大きく疲弊したのは、防衛に回りがちであったアカネースよりも侵攻を繰り返したレイノアール国であった。

 この和平条約の下に両国間の人や物の出入りの規制を撤廃し、それぞれの特産物や文化、技術の行き来を可能とする。

 侵略による一方の国の発展ではなく、両国が共に進歩していく道を選んだ。

 そして、両国王家の婚姻による二国間の関係の強化が停戦条約の条件の一つにある。

 本日の婚姻をもって、正式に停戦条約は意味を為すこととなる。

 しかし、誰もがわかっているのだ。両国間の婚姻など、関係を深めるためのものではないのだと。

 レイノアール王国に嫁ぐアカネース王家の姫など、しょせんは人質でしかない。

 そしてアカネース王国にとっても、仮に人質に危害が加えられれば、正式に攻め込む理由となる。

 共存を望む両国王の思いに嘘はないだろう。しかし、人々が他国を完全に信用することが出来ず、婚姻という名の人質を必要とするのは避けられないことだった。

 レオナルドは巡らせていた考えを掻き消すように首を振る。

 自分も、そしてまだ見たこともないアカネースの姫も、同様に虚しく哀れな駒でしかないのだから何を考えても意味はない。

 所詮は、国のための人質同士。

 相手に同情はするが、それ以上の気持ちはない。あえて親しくしようとも思わない。

 互いに無難な距離感で、両国の和平の証として無礼なく生活が出来れば十分だろうと少年は考える。そのためにアカネースの姫の身を守ることはあっても、それは決して感情的な行動ではないだろう。

 現に、自分の部下を彼女の元へ向かわせたのもそうすることが当然だと判断したからであった。正妃の魔の手が忍び寄っているのならば、守るために手を尽くすのは夫としての義務だ。

 元より、レオナルドは誰を嫁に貰おうが変わりはなかった。地位に見合う嫁を貰い、自分の立場と相手の立場を重んじた距離感を保ったまま、決してその距離を埋めずに問題を起こさずに生きていくだけ。


「レオナルド様、準備はよろしいでしょうか」


 控えめなノックの音と共に、宰相が声を掛ける。

 否、レオナルドはそう答えてみようかと思い、実行するのは止めた。

 発想があまりにも子供じみていて、馬鹿馬鹿しくなる。

 例えば、迎えに来た者がアレクシスやジュルジュであったならそのような些細な戯れも楽しめただろう。しかし、彼らはすでに式の会場である大広間に控えているため、式の開始以前にレオナルドが顔を合わせることはない。


「……はい、問題はありません」


 自分自身の手で扉を開き、レオナルドは自分を待ち構える宰相を見上げた。

 柔らかで人当たりの良い笑みを浮かべているが、男の本心が穏やかでないことはレオナルドにもよくわかっていた。この宰相は前王よりも現王寄りの反戦派であるが、だからといってアカネース国に友好的ではない。

 これから嫁いでくる姫に対して、敵意をもって迎え入れるつもりでいるだろうことは張り付いた笑みから容易に推測できた。

 レオナルドの心など知るよしもなく、レイノアール王家の花婿姿を爪先から頭の先まで不躾に見回し、宰相は満足そうに頷く。


「良いですね。これなら、あちらに侮られることもないでしょう。向こうのドレスはどうにも安っぽく見えましたからね。違いを見せてやらねばなりません」


 そんなこと、勝手にやってくれ。レオナルドは心の中で舌打ちをし、歩き出した宰相に続いた。

 目の前には、大広間に続くきらびやかなドアが見える。

 この先に、まだ見ぬ隣国の姫が待つ。

 彼女は、どんな気持ちでレオナルドを待っているのだろうか。自分と同じように割りきった考えなのか、それとも不本意な婚約に納得が行かぬままそこにいるのだろうか。

 模範的な姫であることは耳にしている。それでも、この婚姻に理解は出来ても納得は出来ていない可能性は捨てきれない。

 考えたところで、レオナルドには知る手段などない。その手段があったところで、知りたいとも思わないが。

 レオナルドが彼女に思うことは、ただ一つ。


「……僕もあんたも、神様にしか祝ってもらえそうにないみたいだね」


 憐れな生け贄として生きていくしかない。同じ境遇の姫には同情以外の感情は抱けそうになかった。


「ん? どうかいたしましたか?」


「別に、何でもないです。早く行きましょう」


 まだ見ぬ婚約者に向けた言葉を、誰かに聞いてもらいたいとは思わなかった。




 天井近くに設置された硝子窓から差し込む太陽光が明るく包み込む壇上で、扉に背を向けるようにしてその人は立っていた。

 蜂蜜を固めた菓子のようにきらきらと光が弾ける琥珀色の髪を結い上げて、彼女の代名詞でもある白薔薇の髪飾りで纏めている。身を包むドレスも汚れを知らぬ純白で、余計な飾りを意識して排除しているようであった。

 肌の露出が一切ない長袖のドレスに、指先までを隠す薄手の手袋。真珠の首飾りが控えめながらも輝きを放ち彼女の首元を彩っている。

 緊張を悟られぬように小さく息を吐き出して、レオナルドは彼女の隣へと足を進めた。今回の式を取り仕切る司祭と目が合い、レオナルドは彼を睨みつける。

 豊かな白髪を蓄えたその男は、つい先程までアカネースの王女へと侮蔑の籠った眼差しを向けていたのだ。

 つい先日まで戦争を繰り広げていた相手国だ。恨むのも、怒るのも、構わないとレオナルドは思う。

 しかし、これからは平和のためにと身一つで嫁ぐ相手を、軽んじていい理由は一つもない。

 彼女の隣に立ち、レオナルドは体を正面に向けたまま横目で相手を盗み見た。しかし、盗み見ようにも彼女の方が僅かに背が高くベールから覗く薄紅色の口元しか窺うことが出来なかった。

 緩く弧を描いた口元。瞳にも同じ笑みが浮かんでいればいいのだけれど、とレオナルドは思う。

 司祭が述べる祝福の言葉も、多くがレオナルドの耳を右から左へと通り抜けていく。司祭の声よりも自分自身の心臓の音の方が煩いくらいだ。

 神への祈りを終え、ようやく二人は向かい合う。薄いベールの奥で、彼女は伏せ目がちにレオナルドの手でベールが持ち上げられる時を待っていた。

 緊張に震える指先で、レオナルドは彼女のベールの端に触れた。

 僅かに踵が浮かべてベールを取り払おうとしたレオナルドの耳元に、静かな嘲笑が届く。

 恐らく、それ自体はレオナルドに向けられているものではない。

 花婿よりも背の高い、成長期の少年の前に立つ成長しきった娘に対しての、行き遅れを嘲笑う声だ。

 嗜めるように、国王の低い咳払いが広々とした空間に響く。狼に睨み付けられた小動物のように息が潜められ、嗤い声は一瞬で殺される。

 レオナルドは手を止めた。

 アカネース国の者はこの場にはいない。両国で開催する式は後日盛大に行われる予定となっており、今日はあくまでもレイノアール国が形式的に行っているだけの式に過ぎない。

 このまま彼女を嗤う者達がいる中で、唯一彼女を外界から守っているこの薄い布を外してしまっても良いものか。

 迷っているレオナルドに気付いたのか、彼女は困ったように頬を緩めるとベールに触れたレオナルドの手に自身の手を重ねた。


「ベールが邪魔をして、貴方のお顔がよく見えないのです。どうぞ、外してくださいませ」


 彼女の手は太陽のように温かく、そしてレオナルドと同じように微かに震えていた。彼女もまた恐怖がないわけではない。それがわかってしまったから、胸に秘めた覚悟の深さが見えたような気がした。

 レオナルドは頷いて、花嫁を隠すベールを上げる。

 周囲からの視線が二人に集中する。そして、レオナルドはそこに微笑む花嫁をただじっと見上げていた。

 特別美しいわけでもなければ、醜いわけでもない。街にいたら少しばかりは目を引かれそうだが、社交界ではより華やかな女性は多いだろう。ただ、楚々とした微笑みはレオナルドの好みでもあった。

 彼女が誰の目にも明らかな美人であれば、これ以上周囲の人間が騒ぐことはなかっただろう。圧倒的な美貌の前では、人々は言葉を失う。

 しかし彼女はそうではない。レオナルドにとっては好ましい微笑みも、彼女を疎ましく思う者にとっては脆弱で愚かしい。


「お会いできる日を待ち望んでおりました。わたくしの名はリーゼロッテ・アカネリア。本日より貴方様の妻となるため、アカネースの地より参上致しました」


 レオナルドと司祭だけに聞こえる声で、リーゼロッテは自らの名を告げた。

 控えめだがはっきりと聞こえる笑い声の中でも、悠然とした動作で膝を折りリーゼロッテはレオナルドへと頭を垂れた。

 耳に届く声を遮断するようにリーゼロッテは頭を下げる。それは彼女の身を守るためには仕方のないことで、しかし自分ですらその視界から外されてしまうというのはレオナルドにしてみれば不満以外の何物でもない。

 少なくとも、レオナルドは彼女に危害を加えるつもりなどない。


「お待ちしておりました、リーゼロッテ様」


 リーゼロッテの瞳に自分の姿を映すため、レオナルドは未だに顔を上げない彼女の膝後ろに両腕を回すと、そのままリーゼロッテの体を持ち上げた。

 短い悲鳴と共に、リーゼロッテは慌ててレオナルドの肩に両手を付いた。驚きに丸くなった瞳は切り取った空のように淀みがなく、レオナルドは悪戯が成功した子供のように口角を持ち上げた。


「レイノアール王国第三王子、レオナルド・インフォードの妻として貴方を心から歓迎いたします」


 ふわりと宙に持ち上げられた花嫁。ドレスの裾は名残惜しそうに床から離れ、太陽の光を散らしながら舞い上がる。

 女性とはいえ自分より背が高く、重いドレスに身を包んでいる相手を長時間抱き上げ続ける力はレオナルドにはなかった。レオナルドは持ち上げた勢いを利用してその場で一度だけ回って見せると、ゆっくりとリーゼロッテの両足を下へと下ろした。

 まるで幸せな婚姻そのものの光景に、人々は余計な口を挟む隙を失った。

 代わりに、割れるような拍手が広間を包み込む。


「おめでとう、レオン」


 アレクシスの祝福に弾む声がレオナルドの耳に届いた。辺りを見渡せば、珍しく穏やかな瞳のヴァインスも手を叩いている。

 リーゼロッテへと、不穏な眼差しを向けている者も少なくはなかった。それでも、信頼できる者達は必ずいる。それがわかっているだけで、レオナルドの心は軽くなった。

 琥珀の髪と健康的な肌色をしたリーゼロッテの太陽に似た眼差しは、雪の色を纏うレオナルドを溶かすことなく見つめていた。隠しきれない驚きの滲んだリーゼロッテを見上げ、レオナルドは苦笑を浮かべてみせる。


「貴方が僕と同じように両国の平和を望むのであれば、僕は貴方を妻としてちゃんと扱うつもりですよ」


 言い方はやや刺々しいものであったが、これはレオナルドの紛れもない本心である。

 政略結婚の二人の間には恋心など存在はしないし、無理に相手を好きになる必要もない。ただ、お互いに自分の立場を理解し、両国の和平を願うというのならば、レオナルドはそこに情を生み出すことが出来ると信じている。

 同じ目的と理想を持つもの同士であれば、恋などなくとも愛は生まれるのだと。


「えぇ。私はそのために、貴方の妻となるのです」


 リーゼロッテは両手を胸に当て、はっきりと頷いた。

 彼女がアカネース国にとっては密偵の役割を担っている可能性は決してゼロではない。この言葉が嘘であっても、何もおかしなことはない。

 しかし、レオナルドは彼女の微笑みに嘘はないと信じたい。イヴァンの調査でもアカネース国に怪しい点はなかったのだから、リーゼロッテは本心から平和を望んでいるはずだろう。

 彼女と共に二国間の平和を維持する。

 それがレオナルドの第三王子としての義務であり、夫になる者としての決意であった。


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