悪意の種
レイノアール国へ入国を果たして、四日目の夜。王都に近く国の流通の要となっている大都市ゼレノスで最も大きな宿泊施設が、旅の最後となるだろう。
王都へ向かう商人の通り道となるこの町では多くの宿で警備の私兵を抱えているため、治安の良さは国内一である。
ゼレノスで最も高価かつ私兵の腕が立つ宿に部屋を取ったリーゼロッテ達は、明日の王都入りの準備を終え、思い思いの時間を過ごしていた。
「旅の疲れが溜まっていらっしゃるというのに、お手数をお掛けしてしまって申し訳ありませんでした」
「いいえ。私も自分の目で確認した方が安心できますから構いません」
レイノアール行きに同行したオズマン商会の青年タキへと微笑み掛けたリーゼロッテ。つい先ほどまで、彼女はタキに頼まれ荷の点検に付き添っていたのだ。
積み荷の点検を終え、タキはリーゼロッテを部屋に送るため隣を歩く。
これまでの道中ではジョルジュがリーゼロッテの側を離れず、馬車にも同席していたのだが、ゼレノスの街で問題は起こらないだろうと考えているのか珍しくその姿はない。
「これでリーゼロッテ様のお荷物と我々の商品が混ざる心配はございませんから、明日の荷下ろしもスムーズに行えると思いますよ。……ところで、リーゼロッテ様。そちらは何なのでしょうか?」
穏和な笑みを浮かべていたタキは、不思議そうな目をリーゼロッテの腕に抱えられている箱に向けた。胸に抱ける程度の大きさの木箱は、商品に紛れてオズマン商会の積み荷に混ざってしまっていたリーゼロッテの荷物である。
「これは城を出るときに従者から贈られたものです。街の者が用意したものらしく、私も中身は見ていないのですが……」
リーゼロッテの言葉に、タキは瞳を輝かせる。王都に住む人間がリーゼロッテのために贈り物を用意する。それがどのような品であるのか、一人の商人としては興味を引かれた。
「中身、見てみませんか?」
二十代半ばである年上のタキに子犬のような期待に満ちた眼差しを向けられてしまえば、リーゼロッテも苦笑するしかなかった。
この人懐っこく悪意のない笑顔で多くの客から信用と好感を奪っていくタキを、レイノアール国との商談の頭に選んだゴーゼルの人選は間違っていないだろう。現に彼は、同行するレイノアールの騎士達と街に着くたびに食事を共にとる程には距離を詰めている。
リーゼロッテは頷くと、抱えていた木箱の蓋に手を掛けた。痛いほどに注がれるタキの視線は、木箱から一瞬たりとも離れはしない。
「これは……」
「布……いえ、絹ですね。少しよろしいですか?」
タキはリーゼロッテの了承を得ると、木箱に畳まれていた絹を手に取った。その際に、丁寧に畳まれていた絹の間から何かが滑り落ち、木製の廊下に鈍い音を立てて転がった。
「申し訳ありません……て、これ王印?」
慌てて拾い上げたタキは、その金属板に掘られた薔薇の意匠に目を丸くした。服の袖で付いていた埃を払うと、困惑を隠しきれない表情でリーゼロッテへと王印を手渡した。
「どうしてこのようなところに?」
「……心当たりは、ありますが」
まさか、リーゼロッテも王印がこのような場所にあるとは思わなかったのだろう。ぽかんと口を開けたまま、恐る恐るタキから王印を受け取った。
アリアの身を守るために渡した王印が、リーゼロッテの元に戻ってきた。それが何を意味するかがわかったとしても、この行動に出たアリアの意図がリーゼロッテには掴みきれない。
「アリア……」
無意識のうちに、リーゼロッテは彼女の名を口にしていた。王印を返すということは、ミレイニアの元へは行かなかったということだろう。ならば今、アリアがどこで何をして生活をしているか。それを知る術が今のリーゼロッテにはない。
不安に塗り潰された瞳の色に気付き、タキは場の雰囲気を変えるようにわざと明るい声を出した。
「これ、ケノン公国の絹ではありませんか? うわースゴいなー。自分も数えるほどしか見たことないですよ」
何があったのかを問うことは簡単であったが、リーゼロッテが簡単に口にするとは思えなかった。それならば、と彼はあえて頭の悪そうな声と語彙力でその場の雰囲気を吹き消そうとする。
「私も一着で良いからケノン産の絹で作った服が欲しいんですよね。ゴーゼルさんはいくつか持ってるみたいですけど、私のような未熟者では着てみたところで身の程に合っていないからカッコ悪くなっちゃいますよ」
「未熟だなんてご謙遜を。貴方は一目でこれがケノンのものだと見抜いたではありませんか。それにその若さでレイノアール行きの任を与えられているのですから、期待されているということでしょう?」
「いやいや、ただ独り身の若者で身寄りもありませんから遠出させるのに丁度良かっただけです」
尚も謙遜の姿勢を変えないタキに、リーゼロッテはいつも通りの穏やかな微笑みを向ける。彼女の微笑みに、タキはとりあえずほっと息を吐いた。
しばらく歩みを進めていくと、上階に繋がる階段の前に辿り着く。リーゼロッテの部屋は上階にあるため、タキとはここで分かれることとなる。
「ここまでで結構です。それでは、また明日」
会釈をして階段を登り始めたリーゼロッテを慌てて追いかけ、タキはその隣に足を並べた。
「お部屋までお送りします。リーゼロッテ様に何かあっては困りますから」
いくら国内で最高級の警備を誇る宿泊宿とはいえ、ここは元敵国なのだ。タキが不安に思うのは当然であったが、リーゼロッテは苦笑と共に首を横に振った。
「大丈夫ですよ。少なくともこの建物の中に不審な人物は入ってこれませんし、私を殺して得をするような者も現状ではいないでしょう」
「ですが、損得は関係なしに恨みから貴方を狙う者がいるかもしれません」
「そうだとしたら、危険なのはアカネースの人間であるタキも同じことです。この宿は今後活発になるはずの両国間貿易でアカネースからの客を得たいと考えているそうですから、尚更に私の身に危険が及ぶ真似は避けたいでしょう」
リーゼロッテの部屋のある最上階は部屋自体の数が少なく、警備兵は他の階と同数を控えさせている。当然それぞれの部屋には鍵が掛かっており、部屋を空けた隙に何者かが侵入するということも不可能であった。
柔らかな声音であったがはっきりとした拒絶にタキはこれ以上説得を試みることは叶わなかった。しかし、一人行かせるわけにはいかず動けないままでいると、リーゼロッテはタキの肩を軽く叩いた。
「お気遣いありがとうございます。でも……貴方に部屋と前で別れるところを誰かに見られたとして、そこから根も葉もない噂を立てられてしまっては困りますから」
これには、タキも納得せざるを得なかった。嫁入りを前にした女性が他の男と密会をしていたなどと噂をされてしまっては、今後の和平にも影響が出るかもしれない。
「……承知いたしました。では、お気をつけて」
渋々頷いたタキは、リーゼロッテの背中が見えなくなるまでその場を動くことはしなかった。
自室の鍵を開けドアノブに手を掛けたリーゼロッテに、横からやや固い声が掛かる。
「リーゼロッテ様、少しよろしいでしょうか」
顔を上げたリーゼロッテは、声の主を目にするとゆっくりと目を細めて微笑みを浮かべた。
「はい、どうかしましたか?」
そこにいたのは、レイノアール国から派遣されここまで彼女を運んできた二人の騎士。爽やかな微笑みを浮かべた青年と、人見知りなのか口数の少ない気弱そうな少年である。それぞれ、リーゼロッテよりも年上と年下だと推測される。
青年は申し訳なさそうに眉尻を下げると、上目遣いにリーゼロッテの様子を伺いながら言葉を発する。
「このようなお時間に申し訳ございません。明日の王都入りについて、ご確認させていただきたいことがございまして」
ドアノブに掛けた手を止めて、リーゼロッテは二人の姿を蒼色の瞳に映した。そこに籠められた感情の色は、複雑に混ざりあっていて読み取ることは不可能であった。
「……わかりました。では、中へどうぞ」
快く了承の意を示され、青年は微笑み少年は俯く。行くぞ、と小突かれた青年は少年の腕を掴むと、リーゼロッテの手からドアノブを奪い扉を開ける。
まずはリーゼロッテを部屋に入れ、そのあとに少年を進ませる。そして自分は最後に部屋へと入ると、音を立てぬように後ろ手で慎重に扉を閉じた。
ゆっくり、閉ざされる扉。部屋の真ん中ほどまで進んだところで、リーゼロッテは振り返った。
「どういったお話なのでしょう?」
危機感の欠片もない声。青年は口元に笑みを浮かべると、迷わずに鍵を掛けた。
冷たく響く施錠音。それを合図に、少年はリーゼロッテの背後に回り両手首を掴むと空いていた手で彼女の口を塞いだ。
少年の手は小刻みに震えているが、リーゼロッテを逃がさぬようにと細い手首を痕が付きそうな強さで拘束していた。
「初めに言っておきますが、別に私たちはリーゼロッテ様の命を奪おうとは考えておりませんよ」
極めて紳士的な声色で、余りにも場違いな態度で青年はリーゼロッテに目を向けた。
暴れることもなければ、恐れる様子もない。リーゼロッテは黙って青年の言葉に耳を傾けていた。
顔色一つ変えないリーゼロッテを気味悪がりながらも、青年は平静を装ってリーゼロッテの目の前へと足を進める。
「ただ、その身の純潔を奪わせていただきたい……そう考えているだけです」
リーゼロッテの眉間にしわが刻まれた。冷たく睨み付けられたところで、青年が構うことなどない。
青年は欲望を隠しきれない歪んだ笑いを浮かべると、厚手の布地に覆い隠されたリーゼロッテの太股を下からなぞるように撫で上げた。
「しっかり押さえてろよ。ここまで来て怖じ気づくな」
少年は黙って頷くと、リーゼロッテを拘束する力を強めた。そして、後ろ手に拘束しているリーゼロッテの両手を引き、青年に向けて胸を突き出すような体勢を取らせる。
少年の気遣いに満足げに微笑むと、青年は足を撫で回していた手を止めてリーゼロッテの胸元を隠すリボンに手を掛けた。
「騒いだって無駄ですよ。警備が入ってきたところで、私たちは貴方に誘われたのだと言えばいいのです。この店の主人は潔癖なところもありますが、そこで働くものが皆同じ志とは限りませんからね。それなりのお金さえ握らせてしまえば、こちらの言い分に同意してくれますよ」
服の上からでも、女性らしい体つきであることがわかる。将来の第三王子の妻となる女性の純潔を奪えと命令を受けたときは厄介事に巻き込まれてしまったという思いしかなかったが、それなりに楽しめそうな相手であれば少しは気が紛れる。
どうせ事が表に出てしまっても、青年が処罰されることはないだろう。背後にいる存在のおかげで、彼は何一つ心配をすることなく女性の体を貪ることが出来るのだ。
「しかし、本当に処女なのですか? どうせ若い男騎士様辺りと密会でもしてもう身も心も真っ黒なんじゃないですかね。うちでもいいトコのご令嬢の間で自分より身分の低い男との逢い引きが流行したことあったろ?」
青年はリーゼロッテの背後で彼女を押さえる少年に声を掛けたが、少年は怯えた様子で目を逸らした。自分がしていることの恐ろしさを理解していながらも、手を離せない葛藤で唇は動かせない。
反応を示せない少年に対してつまらなさそうに舌打ちをすると、引きちぎるようにしてリーゼロッテのリボンを剥ぎ取った。
「……つまらないですね。少しは抵抗したらどうなんです? それとも、昔からこうして乱暴にされるのは慣れているんですかね?」
面白味がないのはリーゼロッテも同じだった。青年など興味なさそうに目を伏せている。この状況から逃げ出す術を探しているようにも見えるが、騒ぎ立てたところでリーゼロッテに勝ち目はない。
開かれた胸元から除いた肩甲骨を指先で羽が触れるような手つきで撫で上げる。
険しい瞳を崩さぬまま、リーゼロッテは青年の手から逃れるように上半身を逃がそうとした。しかし、後ろの少年がリーゼロッテの両手を押さえているため逃げることは叶わなかった。
「私に触られるのが嫌なのか、純潔を守りたいのか、どちらでしょうね」
青年は、笑う。嫌がる姫を無理矢理汚すというのは、中々に心が踊る。
しかし、リーゼロッテはこれ以上自身の柔肌を夫でもない男に晒すつもりはなかった。
「いっ!」
リーゼロッテは自分の口を押さえていた少年の指に躊躇いなく噛み付いた。突然の痛みに少年の拘束は緩む。
その隙を逃さず、リーゼロッテは背後の少年の足を自分の足で引っ掛けると、足払いを掛けて自分の体ごと少年を背中から床へと叩きつけた。
腹に思いきりリーゼロッテの体重が掛かり、少年はくぐもった声を漏らしてリーゼロッテの手を離した。
「うぐっ」
派手な音が室内に響く。廊下にいるはずの警備兵達の耳にも、この音は届いているだろう。
「くそ! 大人しくしていろ!」
青年は慌てて床に転がるリーゼロッテの腕を掴まえようと手を伸ばした。しかし、間一髪でリーゼロッテは身を翻し、その手から逃れる。
一国の姫なのだから、護身術として何かしらの武術を学んでいてもおかしくはない。青年はそのことについては欠片も考えてはおらず、思わぬ反撃に戸惑いながらなんとかリーゼロッテの動きを封じようとした。
身を起こしたリーゼロッテは迷わずに備え付けられた窓へと駆け出した。進路を邪魔する丸テーブルを押し退け、ティーカップが割れるのも構わずに窓へと手を伸ばす。
「逃がすか!」
青年は駆け出した。鍵を開けようとするリーゼロッテの背中へと手を伸ばし、逃亡を阻止しようとする。
小さな施錠音と共に、窓が開いた。開け放たれた窓の先には、街の明かりと暗い空が広がっていた。
「この……」
青年の手がリーゼロッテの腕を掴もうとした瞬間、振り向いたリーゼロッテは青年の手を避け、バランスを崩した彼の体に体当たりをする。手を伸ばした不安定な体に、横から思いきりぶつかられたことで青年はその場に転んでしまった。
しかし青年も一人の騎士として長年城に仕えているのだ。女を相手にして、簡単に転がされているわけにはいかない。
すぐに体勢を立て直すと、今度は扉へと駆け出すリーゼロッテの姿を捉えた。
「ちっ。そっちに逃げたって無駄だって言っただろ!」
外からは足音が聞こえ始めた。警備兵が集まってきたのだろう。
彼らを丸め込むのは容易だ。外に逃げるのならば青年の勝ちだ。
「何事ですか! お客様、開けてください!」
荒々しく扉を叩く音と、ドアノブを回す音が廊下からの声と共に響く。
扉の前で鍵を開けようとするリーゼロッテを止めようと、青年は彼女の肩を掴み扉から引き剥がした。しかし、それは間に合わず鍵の開いた扉は外側から警備兵によって勢い良く開かれる。
「お客様、ご無事ですか!」
警備兵は乱れた部屋とリーゼロッテの格好に目をやり、そして二人の騎士の姿を察すると何が行われていたかをそれとなく察した。
青年は僅かに口元に弧を描く。警備兵の安堵した表情から、説得可能な相手だと確信したからだ。
「すみませんが……」
「先ほど、見知らぬ男が窓からこの部屋に侵入し、私を襲おうとしました」
青年の声を遮り、リーゼロッテは警備兵と青年の間に立つ。開いた胸元を片手で隠しながら、反対の手で開け放たれた窓を指差す。
「偶然部屋にいてくれた二人が応戦をしてくれましたが、その不審な男は窓から逃げていきました……。この宿は国内でも最高峰の安全性を誇っているというのは、本当でしょうか? 責任者と話をさせてください」
青年はリーゼロッテの口を塞ごうとしたが、責任者という言葉が出てきてしまい動き掛けた手が止まる。
警備兵を丸め込むのは簡単だ。しかし、店の主人はそうではない。
国内で最も安全であることを売り文句としている宿なのだ。些細な争いであっても、屋根の下で行われることを許さない。
「は、はい! 今すぐに呼んで参ります!」
「急いでください。こちらは怪我をさせられた者がいるのです」
「ま、待て! 彼女の言葉は嘘だ」
青年は警備兵を引き止めた。警備兵は青年とリーゼロッテの顔を見比べ、判断に迷いながらも足を進めようとする。
このままでは店主を呼ばれてしまう。青年は懐に手を入れて、すぐにでも渡せる金を掴んだ。早々に警備の男を買収し、リーゼロッテを室内に戻さなければさらに人が集まってしまう。
「貴方が行かないのでしたら、私が一人で店主に話を付けに行きます。この宿の警備を見直した方がいいと進言させていただきますから」
歩き出したリーゼロッテの肩を警備兵が慌てて掴んだ。
「お、お待ちください。すぐ、すぐに主を呼んで参りますので、窓を閉め鍵を掛け、部屋でお待ちください」
男を振り返り、リーゼロッテは黙って彼の瞳を見つめる。もしこのまま主人を呼びに行かなければ、自分の立場が危うくなる。彼女の瞳には、それだけの威圧感があった。
「すみませんが、店主が来る前に着替えておきたいので彼を連れて部屋を出ていって頂けますか?」
青年を振り返るリーゼロッテは、先ほどの出来事などなかったように微笑んだ。騎士達はリーゼロッテを守るために奮闘したという嘘を貫き通す微笑みだった。
吐き捨てるように舌打ちをし、青年は倒れたままの少年を抱え起こすとそのままリーゼロッテの部屋を出ていった。これ以上、青年に出来ることはない。店主を敵に回してしまえば、この宿にいる間は彼女に手出しできないだろう。
背後で扉が閉まり、内側から鍵が掛けられる。
そもそも、この街に来るまでリーゼロッテに手を出せなかったのもジョルジュが彼女の側を離れなかったためだった。
本来なら賊の出没が噂されている道を通り、道中で賊を装ってリーゼロッテを汚すつもりであったのに、その企みもジョルジュのせいであっさりと避けられてしまった。
このまま城に戻れば、依頼主によって処罰を受けるだろうか。それとも、表面化されることを恐れて何も接触なしとなるか。それは青年にもわからなかった。
乱れた衣服を着替えると、リーゼロッテは足音を立てずに開け放たれたままの窓際へと足を進めた。
眼下に広がる街の景色を目に焼き付け、目蓋を落として暗い世界に身を委ねると、唇にそっと言葉を乗せる。
「貴方のお眼鏡にはかないましたか?」
彼女の言葉は夜に溶けた。
しかし、リーゼロッテは構うことなく言葉を続ける。
「護身術は昔から私の従者が徹底的に叩き込んでくれましてね。相手を倒すためのものではなくて、自分の身を守ったり、時間を稼いだりするためだけのものなので、あまり頼りにはなりませんが」
しばらくの沈黙の後、屋根の上で夜が動いた。
「怒らせてしまいましたか? 申し訳ございません、私も将来仕える相手になる人がどのような方か知りたくなってしまいまして」
人の気配を感じながらも、リーゼロッテは目を開けることはしなかった。しかし、声だけで屋根の上に控えていた人物が誰かすぐにわかる。
言葉の中に笑みを含んだ軽やかな声は、道中で彼女が最も近くにいた声。
「……それで、ジョルジュ。満足出来ましたか?」
「えぇ、安心しました」
あぁでも、とジョルジュは続ける。
「護身術は合格には少し足りないですね。リーゼロッテ様がお望みでしたらご指導させていただきますよ」
「是非お願いします」
リーゼロッテがくすくすと笑えば、ジョルジュもふっと笑みを溢した。
「……貴方の事を試すような真似をして申し訳ございませんでした。二度とこのような無礼は働きません」
屋根の上の気配が消えて、リーゼロッテは目を開いた。
曇り空の隙間から覗く星空に月が見える。この調子ならば、明日もきっと晴れるのだろう。
「私は明日、レオナルド様の元に嫁ぐ……」
ようやく明日、リーゼロッテはレオナルドの妻となる。明日からは、新しい日々が始まる。
不安の種は足元に数えきれないほどに撒き散らされている。しかし、リーゼロッテはその中で咲いていくことを決めた一輪の薔薇なのだ。
彼女の瞳に陰りはない。不安も、迷いも、全ては遠い故郷に置き去りにしたのだ。




