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爪弾きの白薔薇妃  作者: 橙真
2章 明日から夫と妻となる
39/112

大商人の巣

 オズマン領内にそびえる邸宅は、他の貴族のような城ではない。

 商人として人を招くことを最優先としているのか、清廉な印象を与える白塗りで二階建ての屋敷は一般市民の目からみれば城よりも親しみやすい。

 ただし、その敷地面積は周辺の貴族の居城と変わらない。建物の入り口付近には多くの商談室、会議室を整え、深部には金庫や品物を保管する倉庫を備えている。当然、屋敷の奥に進めば進むほど警備は厳重になる。

 金と信用を取り扱うだけあり、王都以上の警戒心であたっている。現に、レイノアールの馬車よりも早くオズマン領に到着したイヴァンも、オズマン邸に忍び込むことは出来なかった。

 そして、現当主のゴーゼルとその妻ヴィオレッタが住むのは本邸ではなく、離邸と呼ばれる離れである。離邸といえども、アカネース国最大の蔵書数を誇ると言われている国立図書館と変わらぬ広さを持っている。

 離邸のうちで最も日当たりが良く、一年中暖かな空気に包まれている私室で、ヴィオレッタは天蓋付きのベッドに腰を下ろし、忌々しげに親指の爪を噛み締めていた。

 ぎり、と音を立てて歯と爪がかち合うが構うことなく、見慣れた豪奢な黒の絨毯を睨み付ける。

 この部屋を与えられて、すでに七年の時が過ぎた。

 まだ十歳だった頃には、部屋の装飾品から絨毯にカーテンと、特上の品で飾られた部屋に心が踊ったものだった。部屋の調度品だけをみれば、ヴィオレッタの私室はミレイニアよりも多額の金が掛けられている。しかし、見慣れてしまった今では胸をときめかせることもなく、ただその豪華さばかりが鼻に付くようになっていった。

 お金を掛けることが愛情だと信じていたあの頃は、歳が離れていようとゴーゼルは自分のことを妻として愛そうとしてくれているのだと信じていた。

 しかし、今は……。


「ヴィオラ、いるかな?」


 ノックの音と、ゴーゼルの声。

 ヴィオレッタは慌てて立ち上がると、手早く手櫛で髪を整えて扉に背を向けた。


「どうぞ」


「失礼」


 音を立てて開いた扉。ヴィオレッタは振り返らない。

 ゴーゼルは人の良さそうな笑みの浮かんだ糸目がちの瞳を怪訝そうに歪め、薄い唇からそっと息を溢した。

 甘いミルクティーのように柔らかな茶色の髪は細く、頻繁に人と会うことを意識し寝癖一つ付いていない艶やかな輝きを放っている。同様に髭も伸ばすことはせず、常に明るい顔色を意識していた。

 腹の中が何色であるかは置いておいても、ゴーゼルは年相応の落ち着きと男性としての華やかさを丁度良く掛け合わせた人好きのする外見の持ち主であった。

 既に三十七という年齢でありながらも今だ女性から黄色い歓声を浴び続けるのは、商人として第一線で戦い続ける故であるだろう。


「……君の御姉様がいらしたよ。挨拶はいいのかい?」


 室内に視線を走らせ、ゴーゼルはヴィオレッタの後ろ姿で目を止めた。

 下ろされた砂色の髪は、窓から差し込む陽光に照らされて砂金を含んでいるかのように輝いている。しかし、ヴィオレッタは自身の髪が美しいことなど信じはしないだろう。やや猫背気味の背中は、幼子のように頼りない。


「お会いする理由がないわ。何か聞かれたら体調が悪いとでも言ってくださる?」


「家族に会うのに、いちいち理由が必要なのかな?」


 やや刺のある物言いに、ヴィオレッタは表情険しく振り返った。

 苛立ちを露わにするヴィオレッタに対しても、ゴーゼルは対人用のあたたかい微笑みを崩さない。拳を握りしめたヴィオレッタは、何も言わずにもう一度ゴーゼルに背を向けた。


「……会わないなら、それでもいいけれど。だけどね、ヴィオラ一つだけ忘れないでおくれ」


 既に体を扉の方へと向けて、ゴーゼルは顔だけをヴィオレッタに向けて残念そうに言った。


「君の下らない意地のせいで、オズマン商会としては結構な痛手を食らっている。御姉様を好きでも嫌いでもどちらでもいいけれど、いつまで子供でいるつもりかな?」


 熱のない言葉が、ヴィオレッタの全身を駆け巡り血液を沸騰させる。


「何を……!」


 真っ赤な顔で振り返ったヴィオレッタであったが、既にゴーゼルの姿はなく、無情に響く扉の音だけがヴィオレッタの隣に寄り添った。





 オズマン家の邸宅であり、オズマン商会の本拠地でもある屋敷の中でも、最も上級の調度品で彩られた応接室にリーゼロッテは通された。

 壁に掛けられた絵画、飾られた生花、静かにこちらを見つめる彫刻、そのどれもが美しく人の心を掴む。

 現在リーゼロッテが腰を下ろしているソファも同様に、体を包み込むような弾力は母親の腕のように心地が良く、疲れきった体であれば寝入ってしまってもおかしくはない。


「長旅、お疲れ様でした。道中変わりはございませんでしたか?」


 傍らに立ち控えるマリンハルトが控えめに声を掛けた。ゴーゼルが応接室に訪れるにはまだ時間がありそうだと判断し、マリンハルトは言葉を続けた。


「ご伝言も伝えております。やはり、ヴィオレッタ様はゴーゼル様に手紙をお渡しにはなられなかったようです」


「そうでしょうね。でも、問題はありません」


 リーゼロッテは緩く微笑むと、真っ直ぐに伸びた背筋のまま飾られた絵画に目を移した。

 真っ白に染め上がった山と、その山から上る朝日を描いたその作品は、冷たさと温かさが程よいバランスで解け合っていた。

 その視線を追ったマリンハルトは、リーゼロッテの視線の先にあるものが雪の絵画であることを知る。これからの生活を、絵の奥に描いているのだろうか。それを思うと、胸が痛んだ。


「失礼致します、リーゼロッテ様」


 規則正しいノックの音に続いて、ゴーゼルが応接室に姿を現した。

 汚れ一つないシャツに濃紺の上着を羽織った姿は、貴族ではなく商人の姿である。

 深く頭を下げるゴーゼルに応えるようにリーゼロッテは立ち上がり、礼を返した。マリンハルトも後に続く。

 顔を上げたゴーゼルは二人へと深い笑みを向けると、手のひらを向けてリーゼロッテの座っていたソファを示した。


「どうぞ、お座りになってください」


「ありがとうございます」


 リーゼロッテとゴーゼルはテーブルを挟み、向かい合ってソファに腰を下ろした。マリンハルトは変わらず傍に立ったまま。


「王都からの長旅、お疲れさまです。私の領地でお会いするのは初めてでしたね」


「えぇ。ゼニカの街より北に訪れたことはなかったので。まだレイノアール国に入っていないのにこちらは冷えますね」


「あちらはもっと寒いですからね。ですので、そちらの彼から依頼頂いた防寒具についてはレイノアール国内で流通しているものを取り寄せました。やはり、国内で生産されるものでは心もとないと思いまして」


「それは有り難いことですが、金額的に問題はないのですか?」


「提示頂いている予算の中には収まっておりますよ」


 挨拶もそこそこに始まった依頼品の確認はスムーズに進んでいく。

 机上に並べられた注文書に記載された商品一覧の上を、リーゼロッテの指先がなぞっていった。

 嫌がらせで駄目になってしまった防寒具を始めとする衣類、新調が必要となった装飾具、その他些細な日用品など、数にしてみれば大した量ではないが、その一つ一つをリーゼロッテは丁寧に確認をしていった。


「この耳飾り、真珠をあしらったものにしては価格が安いように思えるのですが……」


「最近、真珠貝の養殖技術を確立させた国がありまして、その関係で今までよりお安くご提供できるようになったのです」


「依頼よりもドレスが一着多いようですが、これは?」


「依頼品が提示金額の内に収まりましたので、勝手とは思いながら差額で一つご用意させていただきました。こちらは、現在レイノアール国のご令嬢の間で流行のデザインですので、一着持っていても損はないかと判断いたしました」


「それは、ありがとうございます。私はどうにも流行に敏感ではないものですから、心配り感謝いたします」


 細かな指摘が入っても、嫌な顔一つせずゴーゼルは丁寧に返答していく。

 一通りの確認を終え、リーゼロッテは契約書に了承の意をもって自身の名をサインした。

 これで、レイノアール国への嫁入り道具は一通り補填出来たことになる。しかし、リーゼロッテがオズマン商会に依頼したのはこれだけではなかったはずだ。


「やはり、ゴーゼル様にお願いして正解でした。希望の品を提示金額の中で収めていただくだけではなく、私が思い至らなかった必需品まで手配いただけたのですから。それに、これだけの物を数日の間に用意頂けるとは、さすが大陸に名だたるオズマン商会ですね」


「いやいや、そんな大層なものではございませんよ。商売というものはお客様を満足させなければ存続できませんからね。それに、リーゼロッテ様がご提示された金額は品物に対して無理がなく妥当なものでしたから、こちらも品物を集めやすかったですよ」


 それはよかった、と微笑んでリーゼロッテは背筋を正した。彼女にとっては、ここからが本題となる。

 ここまでは、マリンハルトに早馬を出させて依頼した内容だ。しかし、リーゼロッテにはもう一つゴーゼルへと依頼した品がある。


「ところで、ヴィオレッタから鉱石の購入の件について依頼をさせていただきましたがこちらはどうなっておりますか?」


 仮面のように貼り付けられた笑みの奥に潜む心を見せぬよう、リーゼロッテは言葉の刃を構えた。

 穏やかな笑みを崩さぬゴーゼルであったが、一瞬返答に詰まった。その隙を逃さず、リーゼロッテは言葉を重ねる。


「結構な量と金額をお願いすることになりましたから、ヴィオレッタに渡す方が早いと思ったのですが私もここに来るまでに三日は掛かりましたからやはりお時間が足りなかったでしょうか?」


 相手を気遣うような言葉を口にしているものの、リーゼロッテの表情には微塵も動揺が見られない。

 彼女はわかっているのだ。いくら王都からゴーゼルの邸宅まで三日掛かろうとも、ヴィオレッタは一週間前にはこちらに戻っており、七日という時間があればゴーゼルは多少の無茶であってもリーゼロッテの要求に応じようと手を回しただろうことを。

 何故なら、今ゴーゼルの目の前にいるのはアカネース国の人間でありながら、レイノアール王家と深い繋がりを結ぶことになる数少ない人間なのだから。レイノアールにも商圏を広げていきたいゴーゼルにとっては、多少の損は承知の上で恩を売りたい相手なのだ。

 話は単純な、リーゼロッテに好意的でないヴィオレッタの子供じみた嫌がらせから生まれた問題だと思っていた。しかし、ゴーゼルは認識を改めざるを得なかった。

 これは、そんな些細な話ではない。ヴィオレッタがゴーゼルに依頼を届けないことを見越した上で、リーゼロッテはゴーゼルに負い目を感じさせ商談の場で優位を得ようと狙っているのだ。

 リーゼロッテを特徴のない憐れな姫だと、才能のない無価値な王女だと、そう評価した貴族達に心の中で悪態を付きながら、ゴーゼルは深い息を吐いた。

 厄介な相手が来てしまったが、ゴーゼルにとっては決して嫌いな人間ではなかった。周囲の評価通りの人間であったなら、取るに足らない姫でしかないが。

 ゴーゼルの顔に浮かび上がった微笑みは、営業用とはやや趣が違っていた。


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